“従来の前提”はユダヤ人の影響力の説明に失敗している: Japanese Translation of “The Default Hypothesis Fails to Explain Jewish Influence”

The “Default Hypothesis” Fails to Explain Jewish Influence 翻訳

“従来の前提”はユダヤ人の影響力の説明に失敗している

Abstract

ユダヤ人運動が最近の数十年で欧米で起きた変動で担った役割について、議論が続いている。

ここでは、ユダヤ民族の影響力に関連すると考えられている複数の問題に答える。ユダヤ民族の影響力と1965年の米国移民法制定のユダヤ民族コミュニティの役割をユダヤ人の高いIQと都市居住で説明する”default hypothesis”(従来の前提)を特に扱う。

その他に、ユダヤ民族のエスノセントリズム、近親婚と人種間結婚の扱い、ディアスポラユダヤ人がイスラエル・米国に対して移民するときの偽善性の問題を含む。

 

WW2後の米国には、影響力のある”ユダヤ人エリート”が出現した。彼らは、移民・公民権・アメリカ文化の世俗化等の幅広い問題に関してユダヤ人活動家やユダヤ人団体の間で事実上の合意を形成できた。

ユダヤ民族による移民推進運動は以下から構成された。

人間にとって人種は全く重要ではないと宣伝する知的運動。

反移民制限主義組織の設立と人員と資金提供。

著名な非ユダヤ人を反移民制限主義の組織に勧誘。

比較的均質な白人多数派への恐怖によって民族構成の現状維持を拒否。

議会や行政で主導権を確保。

 

米国内のWW2後のユダヤ人エリートの台頭と移民政策への影響力

 

Introduction

 

ネイサン・コフナス(2021)は、ケヴィン・マクドナルドの”The Culture of Critique”(1998/2002)等々の学術書や論文に対して、”アンチ-ユダヤ的文脈”だと非難している。

一般的にこの学問分野は以下のことを扱う。20世紀の特定の強力な知的・政治的運動が、ユダヤ民族の自己利益を促進する目的で形成されユダヤ人に主導されたのかどうか。

つまり、特定の運動に参加したユダヤ人の割合が高いかどうか、ユダヤ人全体がエスノセントリックかどうか、ユダヤ人の近親婚と人種間結婚の割合、多くのユダヤ人が特定の運動を意識していたかどうかは、この分野の研究を左右しない。

この論文の焦点は、強力な運動を主導したユダヤ人のユダヤ人アイデンティティ、セム主義批判との戦いをはじめとする彼らのユダヤ民族特有の関心とこれらの運動の原動力(民族的ネットワーク、カリスマ的人物を中心に凝集する能力、名門大学やメディアを通じた連携、組織化されたユダヤ人コミュニティの関与、運動に参加する非ユダヤ人とその動機)の説明にある。

 

ユダヤ民族コミュニティは明らかに一枚岩とは呼べないが、特定の時代には特定の問題に関する実質的な合意の形成もあった。

個々の有力なユダヤ人、もしくは別個の有力なユダヤ人知的運動が、特定のユダヤ人の知的運動を批判する場合もある。例として、1930年代からのスターリン主義左翼とトロツキスト左翼の決裂がある。

米国での親イスラエル・ロビーに反対するMondoweissやJewish Voice for Peaceもユダヤ民族の運動として合理的に検討しうる。

しかし、ユダヤ人運動がイスラエルに批判的な組織を成していることを立証するには、創始者や運動の主導者がユダヤ人としてのアイデンティティを持っているかどうか、自分達の運動がユダヤ民族の利益の促進につながると考えているかどうか、議論の必要がある。

例えばユダヤ人によるイスラエル批判は、米国の対イスラエル政策への強力なユダヤ人の影響を、ユダヤ人が不誠実だという認識(イスラエル建国後、米国のユダヤ人の間では主流の考えだった)を促進していると考えての行動かもしれない。

また、パレスチナ人に対するイスラエルの行動を、長期的にイスラエルの利益を害していると考えての行動かもしれない。(e.g.,Mearsheimer & Walt, 2008; a 2013 servey found 44% of U.S. Jews believe Israeli settlements hurt Israel [Pew Reserch, 2013])。

一方彼らは、イスラエル支援が米国の国益に反するとの見方あるいは道徳的見地から、ユダヤ人国家を維持するユダヤ人の利益に対して反対する可能性もある。

よってこのような研究課題は、コフナス(2021)がユダヤ人の知的・政治的運動への関与を説明するものとしてユダヤ人のIQと都市居住を持ち出す”default hypothesis”(従来の前提)を遥かに超えたものである。

このような運動が、強力なユダヤ民族のアイデンティティを持ちユダヤ民族の利害を追求する個人によって設立され主導されている場合、それは対立する双方がユダヤ人によって支配されているものの、ユダヤ人の利益に対する認識が異なるための対立とも言える。それは例えばクネセトの異なる派閥間のユダヤ人同士の対立に似ていると言える。

 

実際、default hypothesisはCofCで議論している運動や、もう一つのユダヤ人運動として挙げている新保守主義(MacDonald, 2004)とは無関係である。

ある運動において人口の割合に対するユダヤ人の割合が過剰であったとしても、(e.g., in 2005 Jews comprised around 12% of the board of the National Rifle Association(NRA)[Richman, 2005])、必ずしもその運動をユダヤ人運動と見なすべきではない。

CofCで分析した運動は、ユダヤ民族の利害を強く意識するユダヤ人によって設立・主導され(see also MacDonald, 2004, on neoconservatism)、大量の民族間ネットワークと相互引用が運動を支えており、非ユダヤ人はしばしば客寄せパンダの従属的役割に使われていた。

これらの運動は強い影響力を持ち、その中心のユダヤ人は影響力の核心部分であった。

default hypothesisは様々な分野でのユダヤ人の人口割合だけに着目し、3%(ユダヤ人の人口割合)以上のユダヤ人代表がいれば仮説の検証に用いており、CofCで扱った運動の核心を無視している。

 

CofCの方法論は、セム主義批判でない運動におけるユダヤ人の割合を決定しようとするのではなく、特定の時代においてユダヤ人の力がどこに向けられていたのか分析するものであった。

この二つの視点の違いは、以下のように説明できる。

ある問題についての次のシナリオを想像してほしい。一方には主要なユダヤ人活動家団体、ユダヤ人献金者、ユダヤ人活動家がいる。もう一方の側には3%以上のユダヤ人メンバーがいるが、彼らにはユダヤ人献金者やユダヤ人組織、ユダヤ人メディア、ユダヤ人活動家ネットワークの後援がない。

これでは、コフナスのdefault hypothesisの要件を満たすものの、その問題に関するユダヤ人の影響力の分析としては全く不十分である。

CofCは、ユダヤ人コミュニティの力がどこに向けられているか明らかにすることを重視する。

フィリス・グロスクルト(1991:137)は、フロイトの忠実な支持者による秘密委員会におけるアーネスト・ジョーンズが、たとえ彼がユダヤ人女性と結婚していてさえ非ユダヤ人の地位しか得られなかったことに言及している。

「委員会のユダヤ人メンバー全員にとって、ジョーンズは非ユダヤ人でしかなかった。他のメンバーは、彼が決してユダヤ人に所属できないことを何かあるたびに彼に気づかせた。委員会を設立してユダヤ人の一員になりたいジョーンズの夢は幻想に終わった。彼は永遠に、フェレットのような顔をガラスに押し付けて仲間になりたいと懇願するだけの魅力のない小男だった。」(CofC:112-113)

NRA、言論の自由の弁護運動、中絶反対運動、移民制限運動、米国での歴史的・現代的ポピュリズム運動における非ユダヤ人メンバーに対してはこのような発言は到底あり得ない。

または、左翼組織に所属する非ユダヤ人について考えてみよう。

ユダヤ人指導者の割合を引用しただけでは、ユダヤ人の影響力の大きさを適切に示すことはできない。なぜなら、才能があり教育を受け野心も強いユダヤ人急進派の特徴を考慮に入れていないからである。

また、ユダヤ人の支配の大きさを隠すためのお飾り・客寄せパンダとして非ユダヤ人を採用する努力も考慮しなければいけない。(Klehr, 1978:40; Rothman & Lichter, 1982:99)

Lyons(1982:81)は、大量の非ユダヤ人の労働者が「党の民族構成を多様化する」ために採用されたと感じていたという非ユダヤ人の共産主義者の話を引用している。

この情報提供者は、共産主義者が主催する青年会議に非ユダヤ人の代表として参加した自身の経験について以下のように話した。

ほとんどの参加者にとって、事実上全ての講演者がニューヨークユダヤ人であることが次第に明白になってきた。

ニューヨークのアクセントが強い講演者が、「ローワーイーストサイドからの代表」や「ブラウンズビルからの同志」を名乗っていた。

最終的には全国指導部が、きまりの悪さについて話し合うべく休会を宣言した。全国的な学生組織のはずなのに、どうしてニューヨークユダヤ人が完全に支配しているのだろうか?

結局、ニューヨーク代表に対して「よそ者」にも発言の機会を与えるよう頼むことで、彼らは事態の収拾を図った。大会はウィスコンシンで開催された。(CofC:73)

これは著者の個人的経験の話である。

1960年代にウィスコンシン大学で哲学の大学院生だった時代の個人的経験として、特にベトナム戦争に対する反戦運動の初期段階において、新左翼運動内のユダヤ人の割合が高すぎることは誰の目にも明らかだった。

その状況のせいか、1960年代の「Teach-in」で私は講演をするように誘われ、ウィスコンシンの小さな町の元カトリックがどのような経緯でこの運動に転向したのか、話すよう求められるほどだった。

運動の大多数の参加者の出自の地理(東海岸)と民族(ユダヤ民族)は明らかに懸念された。

ユダヤ人が支配する運動のスポークスマンに非ユダヤ人が採用される慣習は、本書の幾つもの章で扱っており、セム主義批判に対する伝統的な戦術でもある。(MacDonald, 1998b/2003:  195-200[see also below  regarding Jewish pro-immigration activism in the 1950s])

Rothman & Lichter(1982: 81)は、ウィスコンシン大学の新左翼の様子を観察したある人物の話を以下のように引用している。

「ウィスコンシン生まれの人々は少数でニューヨークユダヤ人が圧倒的に多いことに衝撃を受けた。ミネソタ大学も同じような状況だ。」

彼の手紙の相手はこう答えた。「あなたの認識通り、マディソンの左翼はニューヨークユダヤ人が支えている。」(CofC: 78, note 13)

 

フランクフルト学派(CofC: Ch.5)の重要人物は全員、強力なユダヤ人のアイデンティティを持っており、イスラエルの神学者・宗教史家ゲルショム・ショーレムは彼らを「ユダヤ人の宗派」と呼んだ。(Marcus & Tar, 1986: 344)

繰り返しになるが、これはNRAの説明には当てはまらない。

フランクフルト学派の主要な知的原動力は、伝統的なマルクス主義の階級闘争をパラダイムとして否定し、白人のエスノセントリスムを中心課題と見なすことであった。

それは、彼らが国家社会主義の台頭と彼らのユダヤ人の扱いを見た後に目指した地位であった。

 

同様に、ニューヨーク知識人についての言及。

 

ニューヨーク知識人達は、そのキャリアを完全にユダヤ人の社会的・知的環境の中で送った。

Rubenfeld(1997: 97)が、クレメント・グリーンバーグがニューヨークのアパートの社交会に招待した人々を並べた時、唯一言及された非ユダヤ人は画家のウィリアム・デ・クーニングだった。

Michael Wrezin(1994: 33)は、Partisan Reviewに寄稿していたトロツキストのDwight MacDonaldを、「パルチザンメンバーの中で卓越したgoy」と述べた。

他の非ユダヤ人として作家のJames T.Farrellがいたが、彼の日記はほとんどユダヤ人の社会環境の記録で占められ、彼の人生の大部分は延々と他のニューヨーク知識人との交流に費やされた。(Cooney, 1986: 248)

実際のところPodhoretz(1967: 246-248)は、ニューヨーク知識人を、パーティに全員同時に到着して自分達のイングループ内で社会を形成する「家族」と呼んでいる。(CofC: 220)

 

ボアズ人類学派に関しては、Gelya Frank(1997: 731)が指摘する通り、「ボアズ人類学派の初期におけるユダヤ人知識人の支配と、その後の世代の人類学者のユダヤ人アイデンティティが、この学問の歴史を語る上で軽視されてきた。」

ボアズとユダヤ人ばかりの彼の弟子たちが、人種の違いを無視したボアズ人類学派の理論を作り上げ、彼らが人類学の学会を支配した。

1919年にはボアズは「現在米国で行われている人類学の仕事の大半」がコロンビア大学の彼の生徒によって成し遂げられたと述べることができた。(in Stocking, 1968: 296)

1926年までに人類学の全ての主要部門はボアズの生徒で占められた。彼らの大部分はユダヤ人であった。

 

ユダヤ人が組織の3%を占めているかどうかだけに着目することは、したがってこれらの運動の適切な分析とは程遠い。

さらに、ユダヤ人の代表性を評価するには、アメリカのユダヤ人と非ユダヤ白人アメリカ人の間の非常に大きな人口の違いを調整する必要がある。

例として、ある組織を指導するのにIQ120が必要だとすると、白人人口(平均IQは100)の9.2%はIQ120以上であり、白人人口約二億人の内の二千万人弱である。

ユダヤ人の人口600万人、平均IQ111(Lynn, 2011)で考えると、29.4%の180万人がIQ120以上となる。

IQ120以上の人口は、非ユダヤ人白人:ユダヤ人で10:1を超える。

より高いカットオフを行う場合、これより比率は低くなるが、かなりの比率であることに変わりはない。(In all examples I am assuming a standard deviation of 15 for both samples)

IQ130以上で比べると7:1以上、IQ140以上で比べると約5:1になる。

つまり平均以上のIQの人口は、非ユダヤ人のアメリカ白人の方がユダヤ系アメリカ人よりも多い。

幾つかの影響力のある知的・政治的運動を検証するCofCの話に関して言えば、IQだけに基づいて無作為に運動の指導者が選ばれる場合には、扱った全ての事例でユダヤ人より非ユダヤ人の方が多くなるはずである。しかし実態は程遠い。

これらの運動は、ユダヤ人の利害に対する認識を促進しようとする、強いユダヤ人アイデンティティを持ったユダヤ人同士の相互補強の核を中心に設立された。新保守主義も同様である。(MacDonald, 2004)

逆にこれらの比率に対して、少なくとも1965年移民法以前の期間には、歴史的ポピュリスト運動(MacDonald, 1998a: Ch.5)や移民制限運動のリーダーとしてのユダヤ人は少なすぎた。(see below)

 

ユダヤ民族アイデンティティとユダヤ民族の利害の追求

 

ユダヤ人の影響力を分析するためには、必然的に運動の主導者たちのユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害の追求を立証する必要がある。

コフナス(2021)はCofCについて言及し、そのような主張は「結局、彼らがユダヤ人でありthe Holocaustを非難したという事実に基づいた嫌味の域を出ない。マクドナルドは、彼らの多くがイスラエルの国境開放を主張したり、ユダヤ人コミュニティの解散を要求したりしてユダヤ人の利害に反対していたことに全く言及していない。」

彼のこの発言は単なる誤りである。

 

ジークムント・フロイト

 

以下は、フロイトのユダヤ民族アイデンティティと精神分析運動に関する資料のサンプルである。(CofC: 111)

 

1931年の手紙でフロイトは自身を「狂信的なユダヤ人」と表現し、他のところでは「ユダヤ教とユダヤ民族の抗しがたい魅力、多くの暗い感情の力、文字で表現できる範囲を超えたその力、内に秘めたユダヤ民族アイデンティティの強烈な意識、ユダヤ人同士に共有される同じ精神構造の秘密」を見つけたと書いた。(in Gay, 1988: 601)

また他の機会ではユダヤ人アイデンティティに関連する「奇妙な秘密の憧れ」について記している。(in Gay, 1988: 601)

Gay(1988: 601)はフロイトが、ユダヤ人アイデンティティは彼自身の系統発生的な遺産[ユダヤ民族の歴史によってラマルク主義的に形成されたものである。単に他の人が彼をユダヤ人と見なしたからではない。]の結果であると信念を持っていた、と解釈する。

フロイトと彼の同僚は、ユダヤ人同士に対しては「人種的な親族」の感覚を、非ユダヤ人に対しては「人種的なよそ者」の感覚を持っていた。(Klein, 1981: 142; see also Gilman, 1993: 12ff)

 

私はこれらのことがフロイトのユダヤ民族アイデンティティを証明していると思う。

フロイトのユダヤ人の利害の感覚に言及すると、彼は「精神分析の土壌でユダヤ人とセム主義批判者の統合」(in Gay, 1988: 231)を達成したいとメシア的な希望を記した。

これは、セム主義批判を終結させるメカニズムとして創始者のフロイトが精神分析を考えていたことを明白に示す引用である。

この手のメシアニックな思想は、世紀末ウィーンにおいて「国家を超えた、民族を超えた世界」(Klein, 1981: 29)を実現しようとするユダヤ人知識人の間では一般的であった。

これらの知識人は「ユダヤ人の自己概念を更新する観点から、頻繁に彼らのhumanitarianismをアピールした。彼らは、20世紀における人類の運命はユダヤ人に握られているとの信念を共有していた。」(Ibid.:31)

 

コフナス(2021)は、フロイトが1929年にエルサレムで発生したユダヤ人の暴動を支持する書簡に署名しなかったことを挙げ、フロイトが民族的動機を持っていなかったと主張している。

しかし、この時代にはディアスポラユダヤ人の間でシオニズムは多数派意見では無く、また国家への忠誠心の問題により西洋でのシオニズム実行は「リスクのある戦略」でもありえた。(MacDonald, 2002c, 2003, 2018b)

あるいはフロイトは、シオニズム運動の大義は承認してはいたものの戦術に反対していたのかもしれない。いずれにせよ、「少なくとも1930年までにフロイトはシオニズムにも強く共感するようになった。息子のエルンストもシオニストであり、フロイトの子供達は誰一人キリスト教に改宗したり非ユダヤ人と結婚しなかった。」(CofC: 111)

そして最後に、シオニストのアイデンティティは、アメリカのユダヤ人が増え続けていることからも分かる通り、ユダヤ人のアイデンティティのリトマス試験ではないことは間違いない。

 

カール・マルクス

 

コフナス(2018)はマルクスについて、マルクスがanti-Semite(セム主義批判者)であったと主張し、(「マルクスは…きわめてアンチ-ユダヤ人の見解を持っていた」)そしてマクドナルドはマルクスのユダヤ人アイデンティティを巡る論争に気づいていなかったと仄めかしている。

このようにコフナスは、マルクスをanti-Semiteと見なす認識に対してCofCで展開した以下の議論を見落としている。

「マルクス自身は民族的にユダヤ人である両親の間に生まれたにもかかわらず、多くの人にanti-Semiteと見なされてきた。彼のユダヤ教批判(“On the Jewish question”[Marx, 1843/1978])は、ユダヤ教を根本的にエゴイスティックな金銭の追求として概念化した。ユダヤ教を、人間と自然を販売品と見なして世界支配を達成したと見なした。マルクスはユダヤ教を、未来の共産主義社会では終わりを迎えるであろう、人間の強欲さの抽象的な公理と見ていた。」(CofC: 53-54)

脚注ではこのトピックに関する学術的な議論を簡潔に説明している。「マルクスのユダヤ人気質は継続的に論点になっている(see Carlebach, 1978: 310ff)。マルクスは生涯を通じて実践的なユダヤ教徒やユダヤ民族の祖先をもつ人々と交流した。更に言えば、彼は他の人々からユダヤ人と見なされていて、敵対者達からは度々ユダヤ人気質を指摘された(see also Meyer 1989: 36)。…このような外部から強いられたユダヤ人アイデンティティはユダヤ人急進派の間では一般的かもしれない。またそれは、マルクスがユダヤ人としての自覚を保持し続けていたことも間違いなく暗示している。…欺瞞も関係しているかもしれない。Carlebach(1978: 377)は、マルクスが自分のユダヤ人気質を負債と考えていた可能性を示唆しており、Otto Rühle (1929: 377)は、マルクスが自分の著作への批判を防ぐべく、入念に自分自身のユダヤ人気質の否定を行ったことを示唆している。」

 

より最近では、Schlomo Avineri(2019: 48)の見解は後者のコメントと一致しており、マルクスがanti-Semiteであったというコフナスの主張に更なる疑念を投げかけている。

Avineriは、マルクスのアンチ-ユダヤ的発言の最も妥当な説明として、彼が強くユダヤ人解放を支持しており、ユダヤ人に法的平等を与える前にクリスチャンに改宗させよというブルーノ・バウアーの訴えに反対だったからだと論じた。

マルクスは、「彼自身のユダヤ人の出自が理由でユダヤ人の権利を支持していると非難されるのを避けるべく、一生懸命にユダヤ民族・ユダヤ教から距離を取った。」これは少なくとも、ユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害への心配を示唆している。

 

しかし、マルクスのユダヤ教に対する態度の問題全体は、コフナスが批判しようとしているCofC(Ch. 3)のトピックである1970年までの20世紀の左翼政治運動でのユダヤ人の役割を評価する上では重要な問題ではない。マルクスは1883年に亡くなっている。

 

CofCでの他の人物のユダヤ人アイデンティティとユダヤ民族としての利害追求の感覚に関する議論でのコフナスの異議について、更なる議論はMacDonald(2018a, 2018b)にある。

 

Core Issues: 1 エスノセントリズムと人種内・人種間結婚

 

コフナス(2021)には三つの中心的な主張がある。第一に彼は以下の誤った仮定を繰り返している。彼は「アンチ-ユダヤ人の文脈」はユダヤ人が一般的にエスノセントリックだと証明することに依存していると主張し、それに対する彼の反論は、現在の西洋社会での人種間結婚率である。

しかし現代の人種間結婚率は、CofCの主題(それより数十年前に影響力の強い知的・政治的運動の中にいたユダヤ人活動家が強いユダヤ人アイデンティティを持ち、その活動をanti-Semitismとの戦いに利するかどうかといったユダヤ人グループの利害で捉えていたかどうか)とは無関係である。

例えば、CofCで扱った全ての運動の主要なテーマは、エスノセントリズムの側面としてのユダヤ人の民族ネットワークが運動の成否の鍵になった点にある。

これは、ユダヤ人一般がエスノセントリックであるという主張とは全く関係がない。論題に挙がっているユダヤ人がその民族ネットワークによってエスノセントリックだと示されたに過ぎない。

同様にして、名誉毀損防止同盟(ADL)やアメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)のような主要ユダヤ人組織の現代の影響力を見極めようとするならば、主要人物のユダヤ人アイデンティティやユダヤ人の民族利害の追求の感覚を論証することになるであろう。

これらの人々の人種間結婚率や先祖に非ユダヤ人を持つかどうかは、興味深くはあるが分析にとっては重要にはならない。

同じように、ADLやAIPACの目標に反対するユダヤ人団体を調べ、その影響力の優位がどこにあるか検証することもできる。

 

現代の米国のユダヤ人コミュニティでの人種間結婚率は確かに高い。しかしユダヤ人を非ランダムの方法で互いに結びつけるユダヤ人の共同体構造を別としても、人口全体に対してユダヤ人人口は小さい(1.9%)のでユダヤ人同士が出会う確率が極めて低い(Dutton, 2020)ことを考えると、それはランダムとは言い難い。

最も、それ自体がユダヤ人のエスノセントリズムの究極的結果であるが。(e.g., programs like Birthright Israel and J-Date which are committed to promoting endogamous Jewish marriage)

実際のところ、米国内の混血でない純血ユダヤ人は「米国内の他のグループと比較して圧倒的に人種内結婚を好む」(Philips, 2013: 103)。

イングループへの選好が確認できないオッズ比を1とした場合、米国での純血ユダヤ人がユダヤ人と結婚するオッズ比は2085、混血ユダヤ人のオッズ比は50である。

比較して、白人ヒスパニックのイングループ選好のオッズ比は596、黒人は3525である。

さらに重要なことに、CofCの対象期間である1900-1970、アメリカの文化と人口動態が根本的に変えられた期間において、人種間結婚はほとんど無かった。

 

西欧文化は世界の他の文化と比較してユニークな個人主義であり(Henrich, 2020; MacDonald, 2019)、西欧文化は一般に古代社会から一貫して他のグループと同化する傾向が強かった(MacDonald, 2019)。一方、ユダヤ人グループは集団主義の強い社会構造を持ち、歴史的に他のグループへの同化に抵抗してきた(MacDonald, 1994/2002)。

ユダヤ人の歴史の大半を通じてユダヤ人の非ユダヤ人との結婚はほとんど無かったが、啓蒙時代以後の個人主義的な西欧社会を舵取りするユダヤ人達は、非ユダヤ人との接触の機会が自然と増えた(大学や職場で)。

その際のエスノセントリズムは、結婚相手を選ぶ際に重視される他の傾向の後回しになり、重要性が落ちただろう。

結婚は、身体的魅力、社会的地位、性格、共通の関心などの多くの変数に影響を受ける。

特に世俗的なユダヤ人の場合、非ユダヤ人と出会い交流する可能性が高まる。またこれは、正統派ユダヤ人やハシディック・ユダヤ人が独自の教育システムを守っている理由でもある。

米国の正統派ユダヤ人が非ユダヤ人の配偶者を持つ割合はわずか2%しかない。(Pew Research, 2016)

同様にして、個人主義的な西欧社会では、強いイスラエル・アイデンティティを持つユダヤ人の割合が減少している。(as assessed by age cohort)(Nortley, 2021)

 

この分野での研究に対するコフナスの批判に対し以前コメントしたように(MacDonald, 2018a)、20世紀初頭の数十年間のZionismの主要目的は、20世紀初頭にドイツで進みつつあった非ユダヤ人との結婚と同化の傾向を食い止めることだった(MacDonald, 1998b/2003: Ch. 5)。

この作戦はイスラエルでは実際に成功を収めている(e.g., Pew Research, 2016)。

さらに、米国のユダヤ人対象の2013年の調査では、60%以上のユダヤ人-非ユダヤ人カップルが子どものアイデンティティをユダヤ人として育てており、94%のユダヤ人はユダヤ人であることを誇りに思うと答えた(Pew Research, 2013)。

これもエスノセントリズムのマーカーである。私の知る限り、米国のユダヤ人活動家のコミュニティは圧倒的に民族的ユダヤ人である。

 

場合によっては、非ユダヤ人との結婚や改宗がユダヤ人コミュニティの利益になる。ユダヤ人コミュニティとの強い結束を維持しながら非ユダヤ人の名家と結婚することには利点がある。

例えば正統派ユダヤ人であるジャレッド・クシュナーはイヴァンカ・トランプと結婚し、クシュナーはトランプ政権の対イスラエル政策(イスラエルとバーレーンの国交正常化など)や他の領域に影響力を発揮できた(Crowley & Halbfinger, 2020)。

もう一つの例は、強いアイデンティティを持つ正統派ユダヤ人でpro-Israelのユダヤ人であるサーシャ・バロン・コーエンが、民族的にヨーロッパ人であるアイラ・フィッシャーと結婚したことである。

フィッシャーはイヴァンカ・トランプと同様に完全なユダヤ教徒への改宗を経ており、バロン・コーエンはADLで活動家の役割を続けている(ADL, 2019)。

 

これらの例は、人種間結婚がエスノセントリズムの欠如から生じるものとは限らず、人種間結婚は強いユダヤ人アイデンティティの維持や活動家人生と両立できることを示している。

現代の西欧社会での比較的高い人種間結婚率、低い出生率、様々なレベルでのユダヤ人アイデンティティは、非ユダヤ人家族、特に名家の非ユダヤ人家族との結束・周囲の文化との架け橋をもたらす。それはユダヤ人の利益に役立つ。(e.g., Lieberman & Weinfeld, 1978)

保守派と正統派ユダヤ人の間には互いに人種間結婚を圧倒的に拒絶しているため、このことは特によく当てはまる。

 

コフナスは、ユダヤ人の人種間結婚がユダヤ人にもたらす利益を指摘することと「アンチ-ユダヤの文脈」の重要な面とが何らかの形で矛盾すると信じている。

しかし、影響力のある知的・政治的運動へのユダヤ人の関与を評価する上で、人種間結婚が利益なのか損失なのかは重要ではない。

このトピックは、「アンチ-ユダヤの文脈」の一部であると主張される重要な著作(e.g., CofC)では全く論じていない。

繰り返すが、同化力のある西欧文化は人々を様々な方向に引き寄せる。それがもたらす結婚の幾つかがユダヤ人コミュニティに利益をもたらす場合がある。

そしていずれにせよ、ユダヤ人活動家コミュニティはその民族的地位や人種間結婚に関わらず、米国内での影響力が弱まったという兆候は無い。

重要なのは、主要人物のユダヤ人アイデンティティと本人が認識するところのユダヤ人の利害の追求を評価し、その運動の影響力を調べることである。

 

さらに、現代のユダヤ人の人種間結婚率は、コフナス(2018, 2021)が批判を試みている著作の主題を形成する1970年までの臨界期における、米国の文化や人口動態にユダヤ人運動が与えた影響を打ち消せるものでは無い。そしてその間のユダヤ人の人種間結婚は今より遥かに少なかった。

 

Core Issues: 2 ユダヤ人の偽善?

 

コフナス(2021)は、CofCは「リベラルなユダヤ人は非ユダヤ人・非ユダヤ人国家に対しては多文化主義を偽善的に提唱し、ユダヤ人・イスラエルに対しては人種の純粋さと分離主義を提唱する」と主張しているが、これは現代の改革派指導者の一部の声明とは矛盾すると訴えている。

1970年頃までの20世紀のユダヤ人の知的・政治的運動を分析したCofCのような著作を評価する上では、それは全く重要ではない。

 

さらに、結果がどうなっても普遍的な原則を貫くのではなく、文脈に応じて態度を調整するのは自然なことである。

ADLは最近、アメリカのメディア・パーソナリティのタッカー・カールソンがアメリカの有権者が移民にreplaceされつつあると言及したことを非難した。

「非白人の台頭に白人が脅かされるというwhite-supremacist(白人主義者)の教義であり、アンチ-セム主義で、レイシストで、有害だ」(see Moore, 2021)。

これに対してカールソンは、米国のヨーロッパ系先住民の人口の置き換えに対するADLの態度とイスラエル・パレスチナ紛争の一国家解決に対する態度との違いを強調した。

イスラエルに対しては、ADLは以下の合理的な声明を出している。

 

一国家解決案は現在の現実と歴史的な敵意を考えると実行不可能である。

歴史的に見てパレスチナ人の出生率は高く、パレスチナ難民とその子孫が世界中から流入するだろう。ユダヤ人はすぐに二民族国家の少数民族側になり、平等な代表権と保護が形骸化していくだろう。この状況下でユダヤ人は政治的・物理的に脆弱になる。

イスラエルが自主的に自国の主権と民族アイデンティティを転覆し、かつて自分達の縄張りであった場所で脆弱な少数派に転落するのを待つのは、非現実的であり容認できない。(ADL, n.d)

 

米国の人口動態の変動への懸念をADLが「antisemitic、レイシスト、有害」と呼んだことに関して、米国での人種間紛争の長い歴史、近年の人種間暴力の急増、メディアや教育システムを通じて白人アメリカ人を本質的に病理化するCritical Race Theoryの近年の隆盛(DiAngelo, 2018; Kendi, 2019)を考えると、白人が少数派に転落すれば白人がますます脆弱になっていくと考えられる。

 

コフナスは自身の発言の対象を現代の米国の改革派指導者に限定している。その意見は改革派コミュニティ全体の意見の反映とは限らず、ましてや米国のユダヤ人全体の合意とは限らない。

更に言えば、改革派ユダヤ人はイスラエルのユダヤ人人口の3%にすぎず(Lipka, 2016)(米国ユダヤ人の35%が改革派であるのと比較して[Pew Reseach, 2016])、最近ようやく最初の議員をクネセトに持てたことを考えると、イスラエルの政策に彼らはほとんど影響を与えない。

イスラエルの左翼が存在感を失う一方で(Weiss, 2021)、人種主義者・カハニスト・露骨なアンチ-アラブ主義の政党であるOtzma Yahuditもクネセトで一議席を持っている。

イスラエルでの改革派ユダヤ人の割合の低さは、改革派が本質的にはディアスポラ運動であり、西欧の同化環境に向けられた、なおかつ恐らくそれを反射したものであることを示唆している。

 

米国のユダヤ人とイスラエルのユダヤ人のそれぞれに移民に関して尋ねた調査データは、態度の二重性を示している。

Raijiman et al.(2021)は2011年にイスラエルのユダヤ人をサンプリングし、ユダヤ民族の移民に反対する者はわずか0.2%であったが、62%が非ユダヤ人の移民に反対し、41%が亡命者に反対していることを発見した。

「ユダヤ人移民への支持は、これらの人々を”ディアスポラから帰還した”移民と見なし、一方ではシオニズムの理念を実現させる者、もう一方ではイスラエルでのユダヤ民族の数的有利を確保する者と考えることによる。逆に、非ユダヤ人の移民と亡命者への支持は低かった。彼らは恐らく国家のユダヤ的性格への挑戦者と見なされている。」

 

イスラエルへの非ユダヤ人移民に対するアメリカユダヤ人の態度の調査やその逆の調査については知らないが、アメリカユダヤ人の考えにはイスラエルがユダヤ民族の国家だという概念が強力に根付いている。彼らが、非ユダヤ人の移民を大量に許した場合にもイスラエルがユダヤ人国家であり続けると考えるとは想像しがたい。

2018年の調査ではアメリカユダヤ人の80%が米国への移民が多いまま(34%)、または更なる増加(46%)を望んでいる(AJCommittee)。(米国への合法移民は年間約110万人であり、これは言い逃れようも無い多民族国家である)

更にアメリカユダヤ人は、いかなる民族の国外追放に対しても断固反対するはずなのだが、イスラエルのユダヤ人の半数はアラブ人の強制追放もしくは国外移送を主張している(Pew Research, 2016)。

これは少なくとも、移民や多文化主義に対するユダヤ人の態度はイスラエルと米国のどちらに住むかに依拠することを示す。

 

Core Issues: 3 米国の移民政策の形成でのユダヤ人の役割

 

一般的なCofCの主題は、WW2後の新しい左派の傾向を持つ実質的にユダヤ人から成るエリート達の台頭であり、その拠点はメディア・学界・政治文化である。

後者はメディア・学界の合意だけでなく、ユダヤ人の富の増大からの政治献金の影響も受けている。

ホワイトアングロサクソン・プロテスタント(WASP)のエリートの崩壊は、Eric Kaufmann(2014)の「アングロ・アメリカの興亡」(critiqued by MacDonald, 2015-16)のテーマであり、Hollinger(1996: 4)は1930年代から60年代の「ユダヤ人によるアメリカの学術界の民族・宗教的な人口動態の変容」、また米国社会の世俗化の傾向やコスモポリタニズムの思想の推進におけるユダヤ人の影響を指摘した。

Hollinger(1996: 160)は、「40年代の文化戦争での一つの勢力は、世俗的で、ますますユダヤ的で、明白に左派の知識人で、主に哲学と社会科学のコミュニティの人々だった」と指摘した。

LipsetとLadd(1971)は1969年から、六万人の学者を調査したデータを用いて、60年代はエリート大学でユダヤ人学者が台頭する決定的な時期であり、彼らが一般的に非ユダヤ人の教授より左翼傾向を持っていたことを示した。

ユダヤ人は一般的には教員の12%を占めていたものの、アイビーリーグ大学の若手教員(50歳未満)の25%を占めており、この比率はそれ以前の数十年と比べて遥かに高かった。

更に、自分自身をリベラルまたは左翼と考えるユダヤ人学者は74.5%おり、非ユダヤ人学者での40%未満と比べて著しく高かった。

60年代に学生の急進的政治活動を認めていたユダヤ人学者は59.1%と過半数であり、それに対し非ユダヤ人学者では40%程度であった。

またユダヤ人学者は、より多くのマイノリティの学者と学生を採用するための基準の緩和に賛成する傾向が強かった。

 

ユダヤ人学者は非ユダヤ人学者よりも出版数が遥かに多く、つまり影響力が大きい。

学術界はトップダウン型の組織であるので、これは重要である。トップの人々が次世代の学者を育成し、新しい学者の採用を取り締まるからである(MacDonald, 2010)。

例えばHerskovits(1953: 23)は、「コロンビア大学でのフランツ・ボアズの教授職の40年間は、彼の教育・育成に継続性を与えた。最終的には彼は、米国の人類学の重要な専門家集団の中核を構成し、米国の主要な人類学部門の殆どを担うことになる学生の大部分を育成することが可能になった。その教え子たちは再び同じように学生を育て、教師が学んだ伝統が受け継がれた…。」

CofCは本質的に、この新しい左派の学術的・知的エリートの影響力のある幾つかの構成要素の詳細を提供する。

 

この新しいエリートの台頭は、より広い文脈での議論なしに移民政策のような一つの問題だけを分析することの無意味さを示唆する。

むしろそれは、アフリカ系アメリカ人の公民権や女性の権利、公共の場での宗教(Hollingerの「アメリカ社会の世俗化」)、白人の人種的アイデンティティと利害の合法性、コスモポリタニズム、中東での外交政策、その他諸々の公共政策での死活問題が、この新しいエリートの態度と関心の影響を受けることこそを示唆している。

よって、65年の移民法や公民権運動は、学術界及びメディアの人種に対する態度と切り離して議論することはできない。

CofCは人種に対する学術的見解の著しい転換でのユダヤ人知識人の役割(Ch. 2)と1965年の移民に関する議会での討論でどれほどボアズ人類学派イデオロギーが支配的になっていたか(Ch. 7)を論じている。

以下に述べるように、この時期にはこの人種イデオロギーがメディアで支配的になっていた。(Joyce, 2019)

この時期にはテレビ局とハリウッドスタジオの全てはユダヤ人が所有しており、人種に基づく移民制限論者の言論が著名雑誌に載り大手出版社が出版していた20年代からの大きな転換を示している。

更に、ユダヤ人の影響力は54年から68年の決定的な時期(see below)の公民権運動やアメリカ文化の世俗化の主要な力であった。

「ユダヤ人公民権団体は戦後の米国の政教分離に関する立法や政策で歴史的な役割を果たした」(Ivers, 1995: 2)。

 

(もし真実であればだが)コフナスが「アンチ-ユダヤの文脈」と呼ぶものの重要な側面を深刻に危険に晒すであろう唯一の主張は、米国の移民政策の変化でのユダヤ人の役割に関する話である。

コフナスが65年移民法についてのHugh Davis Graham(2003)のコメントのより広い文脈を持ち出すのは正当であるが、上で述べ以下でも詳述する通り、この法律のより広い文脈はユダヤ人運動の他の側面から決定的な影響を受けている。

更に、結論はGraham(2003: 57)の「移民法改正の内容で最も重要だったものは、20年代にまで遡るこの運動の中核の推進力であり、人種や民族の割り当てに長い間反対運動を続けてきたユダヤ人組織だった。

…ニューヨークのユダヤ人政治指導者、特に知事だったハーバート・リーマンは、40年代に先駆的に州の差別禁止法を成立させた。重要なこととして、[24年の北西ヨーロッパからの移民を優先する法律の出身国規定のために]これらの法令や行政命令が、人種・肌の色・宗教に’出身国’を加えて、これらを差別の根拠にすることを禁止した点にあった。」

同様にOtis Graham(2004)はこう述べた。

「新しく、より’リベラル化された’政策体制にするよう圧力をかける連合体の政治的中核は、民族的ロビイストで構成されていた。…1924年の移民制限法以前に移民した民族の代弁者を名乗り、その最も有力だった者たちは中東欧から来たユダヤ人であり、彼らは大陸でのファシズムとanti-semitismの台頭を深く懸念しており、避難所に永遠の関心を持っていた(see also Graham, 2004: 67)」。

 

したがって、マクドナルドの移民の扱い(CofC: Ch. 7)に対する批判は、Graham(2003)が論じたようなより広い文脈に対しユダヤ人が重要な影響を及ぼしたかどうかを考慮しなければならない。

コフナスは人種に対する学術界の見解の大転換におけるユダヤ人知識人の役割(CofC: Ch. 2)や、議会での討論でボアズ人類学派イデオロギーがいかに支配的になったか(CofC: 253-254)を無視している。

彼はまた、1890年代から1965年までのユダヤ人の移民推進運動の資料(CofC: 259-293)を無視しており、50年代から60年代の公民権運動へのユダヤ人の関与についてのマクドナルドの要約(CofC: 255-258)も無視している。

 

1924年の移民制限法に至るまでのユダヤ人の活動に関するCofCの資料は、最近Daniel Okrent(2019)によって裏付けされた。

古いドイツ系ユダヤ人コミュニティは、より洗練されていないユダヤ人移民に対して嫌悪感を示しながらも、東欧や南欧からの移民が国民一般からの人気を失った後もずっと米国のオープンな移民制度を維持するのを助けた。

移民制限派のリーダーであるヘンリー・カボット・ロッジ上院議員は、グローバー・クリーブランドの大統領二期目の時代(1893-97)、友人に手紙を書き「昨日クリーブランドに影響が及んだ。次に会った時に説明するが、それは克服するのが非常に困難だった」。

他の人に対して彼は「これらの勢力は企業でも政治派閥でもないと言った」。(in Okrent, 2019: 72)

オクレントは、彼らが「まず間違いなく米国の金満で影響力のあるドイツ系ユダヤ人コミュニティのメンバーだろう」(73)と述べ、例えばジェイコブ・シフは「グローバー・クリーブランドに識字テスト実施に対する拒否権を発動するように個人的に嘆願した」(Ibid.)と指摘した。(出身国に注目が向く前に、移民制限論者は移民制限の手段として識字テストを推進した)

 

25年間にわたってロッジとIRL[移民制限リーグ]、彼らの同盟者たちは富裕なドイツ系ユダヤ人が支配する幾つもの影響力の強い組織と戦うことを強いられた。…彼らは集団となって手ごわく粘り強い反対勢力を形成していた。

1890年代の、組織化され資金力があり人脈もあり移民のために働くユダヤ人達の出現により、ロッジと仲間たちはボストンの名家のエリート達がこれまで遭ったことも無いような強力な反対勢力に直面した。(Okrent, 2019: 72, 73)

 

この影響のせいか、世論は1905年までには移民反対になったにもかかわらず、1920年代まで移民は制限されないままだった。(Neuringer, 1971: 83)

コーヘン(1972: 40ff)が物語るように、20世紀初頭に移民制限に反対したAJCommitteeの努力は、当時のアメリカユダヤ人の上層のごくわずかの層だけで構成されていたにもかかわらずユダヤ人組織が公共政策に影響力を有していたことの、驚くべき実例である。

1907年の移民法の影響を受けた全てのグループの中で、ユダヤ人は移民可能人数の点では最も得るものが少なかったものの、法案を作成する際に遥かに大きな役割を担った(Cohen, 1972: 41)。

非ユダヤ人の移民グループは一つに結束できておらず組織化も貧弱であったため、重要な推進者にはならなかった。(Neuringer, 1971: 83)

1917年の比較的効果の薄い制限主義の法案までのその後の期間、制限主義者が再び議会で努力を重ねた時には「ユダヤ人だけが立ち上がった」(Cohen, 1972: 49)。

ユダヤ人の影響力がWW2後よりはまだはるかに小さく、60年代の移民論争の時代(既にWASPエリートが実質的ユダヤ人エリートに取って代わられた時代)よりはまだ著しく小さかったにも関わらず、このような影響力を発揮していたことは注目に値する。

 

Graham(2003)が65年移民法成立の文脈の一部として言及した公民権運動に関しては、ユダヤ人の活動が決定的であった。

WW2後、AJCommitteeやAJCongress、ADLなどのあらゆるユダヤ系の市民組織がアフリカ系アメリカ人問題に関与していた。

「専門的な訓練を受けた人材、設備が充実したオフィス、広報のノウハウによって彼らは変革をもたらすためのリソースを持っていた」(Friedman, 1995: 135)。

60年代にはユダヤ人は公民権運動のグループの資金の2/3から3/4を負担した(Kaufman, 1997: 110)。

「ユダヤ人の支援は法的にも資金的にも公民権運動に一連の法的勝利をもたらした。…’これらの法律の多くは実際にはユダヤ人機関の事務所でユダヤ人スタッフが書き、ユダヤ人議員が法案提出し、ユダヤ人有権者によって採決の圧力がかけられた’というAJCongressの法律家の主張には殆ど誇張は無い」(Levering-Lewis, 1984: 94)(CofC: 256)。

 

この努力は住宅事情・教育・公共雇用に至るまでの偏見に対する多面的な法的挑戦であった。州および国の立法機関における法律の立案とその成立を確保する努力、メディアから発せられるメッセージを形成する努力[see also Joyce, 2019]、学生と教師に向けた教育プログラム、学術界の知的主流を再構築する知的努力があった。

移民政策へのユダヤ人の関与や近現代のユダヤ人の政治的・知的活動の多くの事例と同じく[CofC: Ch. 6]、インターグループ関係運動はしばしばユダヤ人の明白な関与を目立たせないよう作用した。(e.g., Svonkin, 1997: 45, 51, 65, 71-72)(CofC: 257)。

 

反制限主義の最終的な勝利に特に関係があるのが、24年と52年の移民法の出身国規定に反対する1945年から65年のユダヤ人の活動に関する一節、1965年移民法の背景を形成したユダヤ人の活動に関するCofCの資料である(CofC: 273-292)。

この資料は、基本的にはユダヤ人の活動が65年移民法のより広い背景を形成したことを非常に明確に示す。ここではこの資料を局所的に整理し、より最近の研究でより詳しく述べられていることを簡単に要約する。

 

人種に関する知的な見解の形成

 

ユダヤ人とユダヤ人組織は、人間社会における人種的・民族的違いの重要性を否定するための知的努力を主導した。

65年移民法の知的背景を創造したユダヤ人の役割は、20年代以降米国の人類学界を支配したボアズ人類学派の運動が、人種に関する学術界の見解の形成に成功したことに依拠していた(CofC: Ch. 2; see above)。

例として「真意と狙いの両方において[ボアズ人類学派は]、明白にantiracistの科学であった。」(Frank, 1997: 741)

 

John Higham(1984)が指摘したとおり、このような見解の優勢は移民制限主義を最終的に打ち負かす上で重要な要素だった。

65年の討論について、NYタイムズの記者は「議員達は人種主義者として見られるのを望んでいない」(in Graham, 2004: 92)と述べた。

nativismは「知的な敬意を剥奪された」(Bennett, 1995: 285)。よって45年から65年までの移民論争で、人種に関するボアズ人類学派の考えが支配的であったことは驚くことではない。

 

例として51年の議会への声明の中で、AJCongressはこう述べた。「我々の中で最も偏見的な人物であっても、知能・道徳性・性格が地理や出身地と無関係であるという科学の発見を受け入れなければならない。重力の法則と同様に無条件に。」

声明は更にこの主題に関するボアズの人気の著作の引用と、ボアズの弟子のプリンストン大学教授Ashley Montagu(恐らくこの時代に最も人種という概念に公然と敵対した人物)の著作の引用へと続く。

Montaguは元の名をイスラエル・エレンベルグと言い、WW2の直後[7000万人から8500万人が死亡]、人間は生来攻撃的では無く協力的であるという理論を主張し、人間の間には普遍的な兄弟愛が存在すると主張した。(see Shipman, 1994, 159ff)

1952年にはボアズのもう一人の弟子マーガレット・ミードはPresident’s Commission on Immigration and Naturalization(PCIN)(1953: 92)に先立って「あらゆる人間集団のあらゆる人類が全く同等の潜在能力を持つ。…我々の人類学の現在の最良の証拠は、どの人間集団のもほぼ同じ潜在能力の分布を持つことを示唆している」と証言した。

別の立会人は、アメリカ人類学会執行委員会が「全ての科学的証拠が、全ての人々が生得的に我々の文明を獲得・適応可能だと示している。」という提案に全会一致で賛同したと述べた(PCIN, 1953: 93)。

 

65年までには、ジェイコブ・ジャヴィッツ上院議員(Congressional Record 111, 1965: 24469)は移民法案の審議中に堂々と「良心の命令と社会学者が教えてくれる教訓の双方が、移民法の出身国規定は間違っており、肌の色で人の優劣を話すことには何の合理的根拠もないと訴えている」と述べた。

知的革命とその公共政策への適用は完了した(CofC: 253-254)。

 

更に、以下で詳細に述べるが、著名なハーバード大学の歴史家・社会的知識人であるオスカー・ハンドリンの反制限主義の戦略には、社会科学者の見解を「米国への移民希望者の’人種’を区別することは可能であり、かつ必要」(Handlin, 1952: 4)という趣旨に変えることが含まれていた。

‘人種’に恐ろしい引用符を使用することはボアズ人類学派の人種観を反映しており、白人のエスノセントリズム(フランクフルト学派の主要目標[CofC: Ch. 5])の知的な根拠を傷つけるものである。

Petersen(1955)は「コメンタリー」(AJCommittee発行)の記事の中で、ユダヤ人が中心の社会科学者のグループの作品から引用した。

まず、Horace Kallen(1915, 1924)が多文化・多元的社会を嘆願する文章の引用から始まり、「いつか立法されるであろう、現在とは異なった移民政策の学問的合法化に先鞭をつける」(86)。

次に西部と南部のポピュリスト(24年と52年の移民制限派にとって重要な支持母体だった)を非合理的なanti-Semitesに仕立てるイメージ戦略に影響力を発揮したハーバード大学の歴史家リチャード・ホフスタッターの引用である。

彼はNugent(1963: 22)に「都会化されしばしば学術的な知識人・エリートの指導権を脅かすポピュリスト運動への捻くれた視点。そして行動科学由来の概念の使用。」が特徴だと評された、歴史に対する「コンセンサス」アプローチを開発した。

彼がポピュリストを非難した文章を引用し、「均質なヤンキー文明の維持を望んでいる」(Hofstadter, 1955: 34)。

 

NY知識人(CofC: Ch. 6)はこの種の都会エリートの典型であった。例えば、高い影響力を持つ左翼雑誌「Partisan Review」は「NY知識人達、つまりユダヤ民族アイデンティティと米国の政治・文化制度からの深い疎外感を抱く編集者や寄稿者が支配するグループ(の陳列棚であった。)(Cooney, 1986: 225ff; Shapiro, 1989; Wisse, 1987)…

彼らは自分達を、疎外され軽んじられていると感じていた。それは伝統的にユダヤ人が行ってきた非ユダヤ人文化からの分離政策と疎外感の現代版である。’彼らは、自分達が米国に属しているとも、米国が自分達に属しているとも感じなかった'(Podhoretz, 1967: 117; emphasis in original)。実際のところPodhoretz(Podhoretz, 1967: 283)は1950年代に「ニューヨーカー」編集者から’Partisan Reviewのタイプライターには’alienation’という特別なキーがあるのかどうか’尋ねられた」(CofC: 216-217)。

 

最後に、Joyce(2019)は、AJCommitteeのリサーチ・ディレクターでありフランクフルト学派社会調査研究所(see CofC: Ch. 5)に所属するSamuel H. Flowermanを中心としたWW2後の米国メディアでの世論操作キャンペーンの説明をした。

Flowermanはマックス・ホルクハイマー(社会調査研究所の所長)と共同編集で、AJCommitteeから「Studies in Prejudice(偏見の研究)」シリーズを出版し、大きな影響を及ぼした。

Flowermanはユダヤ人知識人・社会科学者のネットワークを結集した。大学やメディア(ハリウッドのスタジオ、米国中の全てのテレビ局、大手新聞[例えばNYタイムズやワシントンポスト]は当時ユダヤ人が所有していた)で重要な地位を占めるユダヤ人が多数集まった。

この努力は、「イングループの基準を積極的に再形成することで、同質集団の圧力を改変しイングループのエスノセントリズムに敵対させる」目的で米国のマス・コミュニケーションの支配を目指していた。

それは「米国の白人の世論を軟化させて変質させる目的で行われたユダヤ人の共同事業」であった(Joyce, 2019: 6, 11; see, e.g., Flowerman, 1947)。

 

反移民制限派の組織化

 

ユダヤ人とユダヤ人組織は、45年から65年まで活動した最重要の反移民制限主義の複数の組織を組織化し、主導し、資金を負担し、活躍した。その中にはNational Liberal Immigration League、the Citizens Committee for Displaced Persons、the National Commission on Immigration and Citizenship、the Joint Conference on Alien Legislation、the American Immigration Conference、そしてPCINが挙げられる。

「これら全ての団体は移民法を研究し、情報を広め、議会で証言を行い、その他の効果的な様々な活動を立案した。…即時の劇的な効果はなかったものの、[AJCommitteeの]志を共にする組織と連携した粘り強いキャンペーンにより、最終的にケネディ・ジョンソン両政権を突き動かした(Cohen, 1972: 373)。」

PCINへの言及として、

 

AJCommitteeはトルーマン大統領が設立したPCINの審議にも深く関与し、PCIN設立以前に証言した個人や組織への証言の提供やデータやその他の資料の配布なども行っていた(Cohen, 1972: 371)。それらの勧告は全て最終報告書に盛り込まれた(Cohen, 1972: 371)。

経済的能力を移民の基準として重視することを禁止したり、出身国規定の廃止、「先着順」世界中のあらゆる民族に国境を解放すること等が盛り込まれたが、報告書は唯一の例外として、AJCommittee等のユダヤ人グループが推奨する数よりは移民総数を低く抑えることを勧告した。(CofC: 281)

 

PCINの議長はPhilip B. Perlmanであり、スタッフにHarry N. Rosenfield (Executive Director)やElliot Shirk (Assistant to the Executive Director)を筆頭にユダヤ人が高い割合を占めた。

その報告書はAJCongressによって全面的支持を受けた(see Congress Weekly Jan. 12, 1952: 3)。その議事録はEmanuel Celler議員の協力とユダヤ人学術活動家(see below)のOscar Handlinのエッセイを盛り込んで「Whom We Shall Welcome (PCIN, 1953)」という報告書として印刷された。

 

これらの取り組みの一環としての非ユダヤ人のリクルート

 

この取り組みの一環として、同情的・共感的な非ユダヤ人、特に著名な非ユダヤ人がこれらの組織にリクルートされた。

ユダヤ人は西欧社会では少数派であるため、遅くとも二十世紀初頭以降には、ユダヤ人活動家コミュニティは自分達の活動にとって有益となる有力かつ影響力を備えた非ユダヤ人をリクルートする戦術を常に採用した(MacDonald, 1998b/2003: Ch. 6)。

例えば55年にAJCommitteeは有力な市民を集めてNational Commission on Immigration and Citizenshipを組織したが、メンバーの大半は「キャンペーンに威信を与えるため」の非ユダヤ人だった(Cohen, 1972: 373)。

「政策変更を支援するべく、米国のユダヤ人グループは本やパンフレットを大量出版・大量配布し、元気のある移民を支持する著名な政治家をリクルートする野心的なキャンペーンを始めた」(Tichenor, 2002: 205)。

この取り組みの重要な部分は、上院議員で後の大統領ジョン・F・ケネディをリクルートし「A Nation of Immigrants (1958)」に連名させ、上院議員で後の副大統領、民主党大統領候補のヒューバート・ハンフリーに「Stranger at Our Gate (1954)」を書かせたことであった(Tichenor, 2002: 205)。

ケネディは元ADL全国理事のベン・エプスタインにリクルートされ(Greenblatt, 2018)、本はADLから出版され、歴史家のArthur Mann(オスカー・ハンドリンの下でハーバード大学で博士課程[Ngai, 2013])をプロジェクトに提供し(Graham, 2004:82)、ケネディ・ジョンソン両政権で影響力を持ったMyer Feldmanがゴーストライターを務めた(Tichenor, 2002: 205)。

 

活動家のユダヤ人コミュニティにとって65年移民法は非常に重要である一方で、移民法改正の最も著名なスポンサー達は「公の場では、その法改正がさも重要では無いかのように受け取られるよう全力を尽くした。一般市民が米国への移民の量と民族多様性を高めるのに反対していることを、政府の政策立案者は重々承知していた。…[しかし]実際には60年代半ばの政策の逸脱は、移民のパターンを劇的に改変し、それにつれて国そのものも劇的に変貌した。移民法改正後数年で年間移民数は激増した。(Tichenor, 2002: 218)」

Tichenorは、chain migration[移民連鎖](see below)と流入民の民族多様性が米国を根本的に変貌させたと指摘する。

 

24年と52年の移民法で定められた民族バランス現状維持の原則を否定する

 

24年移民法を巡る争いの頃でさえ、ユダヤ人活動家は議会の公聴会で民族バランス現状維持に対し明確に反対した。

「米国の人口が一億人を超えたばかりの頃、ルイス・マーシャル[AJCommittee関係の有力弁護士で反移民制限主義ロビイストの指導者]は’この国には今の人口の十倍を受け入れる余地がある’と述べ、「精神的・道徳的・肉体的に不適格で政府の敵となり社会のお荷物になり得る」者を除き世界中のあらゆる民族を割り当て制限なしに入国させるよう提唱した」(CofC: 263)。同様にラビ・スティーブン・ワイズはAJCongressやその他複数のユダヤ人組織を代表し、24年移民法での下院の公聴会において「米国外のあらゆる人々の公平・公正・差別無しで考慮される権利」(Ibid.)を主張した。

 

Graham(2004: 80)は移民に関するユダヤ人のロビー活動は「ユダヤ人に門戸を開くことだけでなく、米国におけるファシスト体制誕生の可能性をより低くする目的で、西ヨーロッパ人の多数派の地位を破壊するのに十分な数の多様な移民の流入を目指した。」

活動家ユダヤ人コミュニティ側にあった恐怖と不安という動機はこのように独特で、24年と52年の移民法の出身国規定の廃止を促進する他のグループ・個人とは異なっていた。このような考え方は、米国の民族バランスの変更の要求を必然的に伴った。

このようなユダヤ人活動家の恐れと不安は以下の文章に表れている。

 

Svonkin (1997: 8ff)は、WW2後にセム主義批判がごくわずかまで減少したという証拠に直面してさえ、「気が休まらない」不安の感覚が米国のユダヤ人の間で蔓延していたことを示す。

その結果、「45年以降のユダヤ人のインターグループ関係運動の機関[AJCommitteeやAJCongresss、ADL等]の主要目標は、米国でのセム種族批判の大衆運動の出現の阻止だった」(Svonkin, 1997: 8)。

70年代の著作でIsaacs (1974: 14ff)は、米国のユダヤ人の間で蔓延する不安と、セム種族批判に見える可能性のあるものへの彼らの過剰な神経質について書いている。

70年代初頭にセム主義批判というテーマで「著名な公人」にインタビューしたIsaacsは、「Do you think it could happen here?[あなたはそれがここでも起こり得ると思いますか]」という質問をした。

「’それ’を定義する必要は全く無かった。ほとんど全ての場合で回答はほぼ同じだった。’あなたが歴史を知っているなら、それが起こり得ると考えるだけでは駄目で、恐らく起こるだろうと考えなくてはならない。’あるいは’もしかしたらという問題では無く、いつ起こるかの問題だ’」(Isaacs, 1974: 15)。

 

65年移民法成立後のずっと後で、著名なユダヤ人社会科学者・民族活動家のEarl Raabは、米国の民族構成を変えることにおける米国の移民政策の成功について非常にポジティブな見解を述べた。

ユダヤ人向け出版物でRaabは、米国の移民政策が北西ヨーロッパに偏っていたのを、ユダヤ人社会が主導して変えさせたと述べた(Raab, 1993: 17)。彼はまた、現代の米国でセム主義批判を抑制できる一つの要因として「移民の結果、民族の異質性が高まり、偏見を持つ政党や大衆運動が発展することはより難しくなった」と断言した(Raab, 1995: 91)。

このように、アメリカ白人がユダヤ人に背を向けるかもしれないという恐怖は65年移民法成立後もずっと続いていた。Elliott Abrams (1999: 190)は、「米国のユダヤ人コミュニティは、根本的には米国の暗い未来像にしがみついており、セム主義批判が蔓延して常にセム種族批判の噴火が起きそうな土地として米国を見ることに頑なに拘っている」と指摘した。

 

52年にPCINは、24年移民法が人種バランスの現状維持に成功したと指摘した。人種バランスを突き崩す上で、すでに割り当て外移民(主に共産主義圏からのヨーロッパ系移民)は多数であり、北西ヨーロッパは割り当てを満たせていないため、出身国規定は主要な障壁では無いと述べた。むしろレポートは、現状の人種バランスを突き崩す上での最大の障壁として移民の総数の不足を挙げた。

 

このように[PCIN]は米国の現状の人種バランスを突き崩すことを望ましい目標と見なし、そのために移民の総数を増やすことを目指した(PCIN, 1953: 42)。Bennett (1963: 164)が指摘するように、PCINの観点からは、移民の総数を減らす24年移民法は「[PCIN]にとってはどの人種が新たに米国市民権を獲得しようが、とにかくそれは素晴らしいことだったため、極めて悪法だった」。

これに呼応して52年移民法の擁護者達は、この問題を根本的には民族間紛争の一つであるとして概念化した。Pat McCarran上院議員は、出身国規定を破壊することは「一世代二世代の間に、この国の民族・文化構成を変える方向に向かう」(in Bennett, 1963: 185)と述べ、結果的に正しい予想だった(CofC: 281)。

 

前述の通り、Emanuel Celler議員は、米国の民族バランスを変更することを望ましい目標と見なすレポート「Whom We Shall Welcome (PCIN, 1953)」の発行に関与した。

Cofnas (2021)はこれらの証拠に反して以下のように主張する。「この立法の起草者達でさえ、その法の直接の結果の幾つかには驚いている。Graham (2003: 94–95)によれば、Emanuel Celler自身はヨーロッパからの移民の激減に悩んでおり、アイルランド・イギリス・スカンジナビア諸国からの移民増加を許可する法案を提出した。しかし彼は自らが提出した法案が引き起こした’意図しなかった不公平’に苦しんでいた。」

 

しかし、PCINレポートの内容とCellerの発行への関与を考慮すると、Cellerが米国の民族バランスの変更を訴えていなかったとは考えにくい。

Cellerがヨーロッパの一部からの移民を増やしたいと考えていたことは間違いなくこれと両立し得る。もしCellerが24年と52年の移民法のように民族バランスの現状維持を明確に再確認する法案を提唱していたのなら、遥かに説得力があっただろう。しかし24年・52年移民法こそが彼が40年以上熱心に反対してきたものである。

Cellerがよく知る通り、出身国規定の撤廃こそが民族バランスの現状変更のために不可欠だった。それさえ達成すればあとはPCINの提唱通りに移民の絶対数を増加させるだけであり、実際そうなった。

 

この問題に対するユダヤ人のコンセンサスを更に示すものとして、当時米国で最大のユダヤ人組織であったAJCongresssは、52年移民法に関する上院公聴会で、24年移民法は米国の民族バランスを維持するのに成功したと証言し、一方で「その目的は無価値だった。1920年時点の人口構成は神聖不可侵なものでは無い。20年に我々の民族が完全な頂点に達していたと考えるのは愚かであろう。」

この期間中AJCongressのニュースレターCongress Weeklyは、出身国規定を「人種間に優劣が存在するという神話」(Oct. 17, 1955: 3)に基づくものであるとして繰り返し非難し、「人種や出身国を無視して、必要性やその他の基準に」(May 4, 1953: 3)基づいた移民を提唱した。

AJCongress代表のDr. Israel Goldstein (1952a: 6)は、「出身国規定は今の時代ではあり得ない…我々の国の経験から言って、今となっては我々米国民の多様性こそが我々の強みであることに疑いの余地はない」(Goldstein, 1952b: 5)と書き残した。これは米国の学術界・メディア・政治体制が広めているマントラの前兆である。“Diversity is our greatest strength.”(多様性こそが我々の最大の強み)。

 

ハーバードの歴史家・有名知識人のOscar Handlinのような著名なユダヤ人知識人たちは、移民促進の本(e.g., The Uprooted [1951/1973]) や記事を出版した。Handlin(1952)の記事“The immigration fight has only begun,”(移民法改正の戦いは始まったばかりだ)は、民主党が多数の議会がトルーマン大統領の拒否権を覆して52年の移民制限主義の法案を通した直後にCommentary誌(AJCommitteeが出版)に寄稿された。

移民促進勢力でのユダヤ人のリーダーシップと共に、前述の20世紀初頭以降のユダヤ人以外のグループの無関心の反映をも示すコメントで(Neuringer, 1971: 83)、Handlinは他の「ハイフン付きアメリカ人」が移民法改正の戦いに無関心であることに不満を述べた。

彼は’we’という言葉を繰り返し使い、「もし我々が武装したマッカラン議員一味を倒すことはできなくとも、我々は彼らの武器を無力化するために多くのことができる」と述べた。

これらは、リベラルな移民政策に対してユダヤ人が統一された関心を寄せていることをHandlinが信じていたことを示し、また、65年移民法の文脈の一部としてGraham (2003)が指摘し、Cofnasも言及したように、52年移民法がその後時間をかけて「削り取られていく」ことの予兆でもある。

 

Handlinは明らかに民族バランスの現状維持を拒否しており、「米国の人口構成が現状のまま維持できると思うのは幻想だ」(Handlin, 1947: 6)と主張した。

そして彼は24年移民法の討論会で制限主義者が次のような正統性の主張には全く触れることは無かった。

「劣等な種の大群は、人種に関する新しい知見[20年代にエリートの間で一般的になり、メディアでも広まった人種間の差異の理論への言及]が広まった後ですら、その教訓を完全に無視して自由に米国内に流入している。彼らはアングロサクソンと乱雑に混ざり合って必ず人種的劣化をもたらす」(1951/1973: 257)。

Handlinは24年の議会討論で制限主義者が用いた実際の議論を無視した。出身国規定はあらゆる民族に対して公平だった。異なる民族グループは移民に対して利益が対立するという進化論の暗黙の了解かつ全面的に正当な前提に立ち、民族バランスの現状維持(CofC: 263)を打ち出したからだ(例えば、パレスチナ人の帰還の権利を巡ってイスラエルで争うパレスチナ人とユダヤ人)。

 

Handlinは65年移民法の通過までの数十年に渡って重要人物であった。Ngai (2013)は彼の重要性について以下のように述べた。

 

Handlinの移民政策に関する考えは、戦後の改革の過程に反映しており、また実現された。彼は、移民を米国の経済・民主主義発展の中心に位置づける米国史の新しい解釈を広めたことで評価されているかもしれない。

即席の政治改革のフレームワークを作る際に、彼は移民の歴史についての規範となる理論を打ち出した。我々は「移民の国」理論としてよく知る理論は、学術的にも大衆の言論空間でも数世代にわたって生き延び、おそらく我々の現在の世代でも生き延びる(Ngai, 2013, 62)。

 

出身国規定の撤廃への彼の長期間の改革への貢献は、過小評価されるべきではない。

彼の著作は学術的にもジャーナリズム的にも、改革のためのエピステーメー(時代の流行の考え方)を供給し、また古い政策を批判し新しい政策の輪郭を定義するフレームワークと理屈を供給した。

Handlinはヨーロッパ系アメリカ人の民族グループだけに民族としての声と正当性を与えたのではない。

彼はまた、彼らに米国史のマスターナラティヴの主人公の位置を与え、多元主義と集団生活こそが米国の民主主義の支柱であると主張した。

したがって、改革の底意は単に目先の政治的利害の問題にとどまらない。米国の民主主義が歴史的使命として行き着く終着点の話でもある。それはWW2後のアメリカニズムの歴史的必然でもある(Ngai, 2013, 65)。

 

24年・52年移民法に組み込まれた民族バランス現状維持を「削り取る(Chipping-away)」

 

Handlinが推奨し、Graham (2003)が65年移民法への文脈の一部だと指摘した「削り取り」に関して言えば、65年以前の割り当て外移民の大半は共産主義圏からの難民であった。

これらの移民の大多数はロシア・ポーランド・チェコスロバキアからの非ユダヤ人であり、民族的にはヨーロッパ人であり(Graham, 2003: 54)、「20年代の法は民族的に緊迫した国に必要な休息を与えた」(Graham, 2003: 48)ことを利用して米国文化に同化した。

50年代には、これらの同化したヨーロッパ人グループは国の人口動態のバランスを変えるものとは見なされておらず、共産主義の過激な左翼の国からの難民も同様に扱われた。とはいえ、後者は20年代には最大の懸念の的であった(especially regarding Jewish immigrants [CofC: Chs. 3 & 7])。

アメリカ人達も、彼らを冷戦時代の共産主義に対する米国文化の優位性の傍証だと見なして歓迎した。例として、ハンガリーのJózsef Mindszenty枢機卿の拷問と殺害(彼は追い出されるまでの15年間ブダペストの米国大使館に住んでいた)は、アメリカ人の特にカトリックにとって衝撃だった。

 

よって、50年代に実際に起きた移民現象は、65年以降の移民現象とは様子がかけ離れていた。

そのような移民は確かに20年代に支配的だった考え方を反映してはいなかったものの、その論理的根拠は、何の根拠も必要としていない65年以降の移民よりは遥かに合理的だった。65年以降は、国のために役立つスキルを持つかどうかの要件さえ優先順位が低くなってしまった。

実際のところ「削り取り戦術」は、移民が家族を呼び寄せるのを割り当ての例外として特別に認めさせることを主要目標にした。「家族は一緒に」の原則は、24年移民法の討論にまで遡るユダヤ人の取り組みの中心課題だった(Neuringer, 1971: 191)。

この点は、下院の移民制限主義勢力のリーダーであったFrancis Walter議員が、52年の討論会で米国の移民政策の基礎として有用な技能より家族の再会を優先させようとしたユダヤ人団体の特別な役割を指摘した際にも強調された(Congressional Record March 13, 1952: 2284)。

 

Bennett (1963: 244)は、家族を再会させるという61年移民法の側面について述べ、「血縁・結婚関係や家族が一緒に暮らすという原則の優先が、移民のゲートの‘open Sesame’になった」。Bennett (1963: 256)はまたこう指摘した。「割り当て超過の移民に対しても、行政上の不許可の撤回、ステータスの修正、民間法案、52年の[the McCarran-Walter Act of 1952]の法適用除外が与えられ、割り当ての例外の拡大が頻繁に繰り返され、国の民族的様相の変化を加速させ不可避なものにしている」(257)。

65年移民法は割り当ての例外として家族の呼び寄せを認め、家族のchain migration(移民連鎖)を許したため、移民総数を増加させるためのtailor-madeだった。

「家族優先の原則は新しい移民へのテコ入れであり長期滞在者ばかりをもたらし、国の将来を担う移民の流れを弱めた」(Graham, 2004: 91)。

(例として、一世代・二世代以上に遡る一族の市民、ましてや建国当初からのアメリカ人は、海外に親戚を殆ど持たないであろう。)

つまり、ある一人の移民が自分の肉親を呼び寄せ、彼らが市民権を獲得すれば、その兄弟姉妹を割り当ての例外で更に呼び寄せることができ、またその配偶者や子供が呼び寄せられ、延々と連鎖する。

 

議会と行政のリーダーシップ

 

ユダヤ人政治家は議会で反移民制限主義を主導しており行政府でも有力だった。

議会で最も注目すべき人物は、Celler議員(24年移民法の議会の討論でも反制限主義のリーダー)、Jacob Javits上院議員、Herbert Lehman上院議員であり、いずれもADLの主要メンバーだった。

Graham (2003: 57)は議会でのユダヤ人のリーダーシップを指摘した後、こう述べた。「あまり目立たないが、同様に重要だったのは、大統領と各省庁のスタッフであった主要なアドバイザーの努力である。これらには、トルーマン政権のJulius EdelsonやHarry Rosenfield、アイゼンハワー政権のMaxwell Rabb、ケネディ・ジョンソン政権では大統領補佐官のMyer Feldman[ケネディの「A Nation of Immigrants」のゴーストライター]、国務長官補佐のAbba Schwartz、司法副長官のNorbert Schleiのような上級政策顧問が該当する」。

Schleiは62年から66年まで司法省の法務局長を務め、65年移民法案の起草に関する最重要人物であった(New York Times, 2003)。

Graham (2004: 88)も、ケネディ・ジョンソン政権下で移民問題に関与した重要人物としてFeldman、Schlei、Schwarzに言及している。

 

移民政策でのユダヤ人のコンセンサス

 

この期間、組織化されたユダヤ人コミュニティの大多数が反制限主義の態度を維持し続けた。

48年に国や地方のユダヤ人団体の長いリストを代表して議会で証言したSimon Rifkind判事の言葉を借りると、「ユダヤ人の宗教的見解であり、極左から極右までのユダヤ人グループが一致している見解」。

Cofnas (2018, 2021)は、ユダヤ人はその知能の高さゆえに様々な問題に関して両サイドで常に過剰に重要になってしまうという“default hypothesis(従来の前提)”を提唱している。

この仮説は、24年・52移民法の出身国規定が覆されるまでの65年までの重要な時期の移民問題に関して、完全に偽である。

それ以来長い時間が過ぎた。私は24年・52年移民法を支持するユダヤ人組織・著名ユダヤ人を一度も見たことが無い。65年移民法の制定に反対したユダヤ人組織・著名ユダヤ人も見たことが無い。

Joyce (2021)は、現代アメリカでの移民推進活動においてもユダヤ人が引き続き強力な役割を担っていることを示す。

上述の通り、現在に至るまで移民に関する事実上のユダヤ人のコンセンサスが存在する。

 

結論

 

私は、ユダヤ人達と組織化されたユダヤ人コミュニティが65年移民法可決のために不可欠であったと結論付ける。

これまで典型的であった通り、ユダヤ人の活動主義はエリートの機関と政治家を対象としており、最終的に殆どのアメリカ人の意見が反映されないままトップダウン方式で改革が発生した。

Graham (2004: 88)が述べるように、「移民問題について、多くの課題において見られるpublic debateのパターンが浮かび上がってきた。草の根のオピニオンは焦点を外され、矮小化され、効果の低い道を力強く進む間に、エリートのオピニオンメーカーは取り組むべき課題を選び、そのリベラル的解決法を決定し実行できた」。

 

Minor Issues

 

ユダヤ人と左翼勢力

 

ユダヤ人が左翼になる傾向がある理由について、Cofnasはユダヤ人の歴史に対する理解を欠いたまま単にこう述べている。「最近の歴史では、左翼より右翼の方があからさまにanti-Semiticであったため、ユダヤ人の政治への関与は左派に偏っていた」。

彼はそれにより自分の話を明示されてもいない詳細不明の時期に限定し、政治的スペクトラムの左翼にいない著名ユダヤ人知識人・活動家を見つけることが困難な60年代以前の米国を無視し、その期間にユダヤ人コミュニティの力がどこに向いていたか無視するだけでなく、ユダヤ人左翼の他の動機(例えば、多文化主義がユダヤ人の同化を防止してくれるという確信)も無視し、その後数十年に渡るユダヤ人のネオコンへのモチベーションをも無視した。

ネオコンはユダヤ人保守派の中で最重要のグループである。

彼らの動機は、移民問題などの社会問題に関しては共和党を左傾化させる一方で、米国の外交政策に親イスラエルの方向で影響力を行使することだった(MacDonald, 2004)。

実際、ネオコンユダヤ人が70年代まで民主党に所属したのにカーター政権期に離脱した理由は、カーターがイスラエル・パレスチナを公平に取り扱い、67年の国境線への復帰を提唱したからであった(see MacDonald, 2004)。

それまでは米国のユダヤ人の中には知的・政治的右派の有力代表者はいなかった。

その後トランプ大統領の台頭に伴って、大量のネオコン(例えばMax Boot、Bill Kristol、Jennifer Rubin)が共和党を捨てたが、これはトランプのポピュリストのレトリックと彼の不干渉主義の外交政策の提案が原因であろう。

 

また、ユダヤ人の政治的態度が、ある意味では非ユダヤ人と同様に、社会階層と相関していないことにも注意すべきである。

経済的利害と政治的イデオロギーの間のギャップは少なくとも20年代から存在する(Liebman, 1979: 290ff)。

更に言えば、60年代のユダヤ人新左翼の急進派学生たちは、高学歴かつ裕福な家族の出身が不釣り合いに多かった(Rothman & Lichter, 1982)。

ユダヤ人知識人だけでなく、裕福なユダヤ人が民主党の献金者の基盤を形成し続けており(e.g., Debenedetti, 2019; OpenSecrets.org, 2021)、ユダヤ人有権者は彼らの社会階層の高さと米国社会でのエリートの地位にも関わらず、民主党を強力に支持し続けてきた(MacDonald, 2002b)。

 

このことは、ユダヤ人が左翼に惹かれる理由を説明するには、他の理由を、特にユダヤ人が自分達自身と社会全体をどう考えているのかを探る必要があることを示す。

左翼ユダヤ人の間のユダヤ人アイデンティティの取り扱い(e.g., CofC: Ch. 3)は、ユダヤ人アイデンティティが複雑であり、自己欺瞞的であることを示す。

例えばNorman Podhoretz(2010)の「Why Are Jews Liberals?」にあるような共通のテーマは、ユダヤ人の歴史に対する“lachrymose”(涙もろい)な捉え方である。

このようなユダヤ人の歴史認識は、ユダヤ人教育やユダヤ人の自己認識でも定着している。

この認識によれば、西洋でのユダヤ人の歴史はポグロム、排除、追放の歴史である。ローマ帝国による第二神殿の破壊、中世のユダヤ人追放、19世紀後半のロシアのポグロムを経て、ホロコーストで最高潮に達する歴史である。

前述の通り、ユダヤ人批判運動への恐れは、米国の移民政策の形成にユダヤ人が関与した主な動機であり、anti-Semitismへの懸念が他の有力なユダヤ人知識人運動の動機となったことも充分に文書化されている(CofC: passim)。

 

単にIQが比較的高いということだけでは、米国でのユダヤ人運動の一面として指摘される敵対的な文化を説明できない。

米国のユダヤ人がメディア、文化の作製、社会科学や人文科学での情報量、政治プロセスに非常に強い影響を持つ(MacDonald, 2002b)のに対して、東南アジアの華僑は地域経済で圧倒的な地位を支配し高い平均IQを持つ(MacDonald, 2002a)にもかかわらずユダヤ人のような特徴を示さない。

華僑は東南アジア諸国で文化的エリートを形成してはおらず、メディアの所有や敵対的文化の構築に集中してはいない。

 

社会におけるユダヤ人の割合は、ユダヤ人運動の成功に不可欠だったであろうか?

 

Cofnas (2021)は、ユダヤ人の割合が非常に少ないスウェーデンのような西欧諸国も、移民へ門戸を開き多文化主義に帰依していると指摘する。

彼が挙げる活動家(特に重要なのはDavid Schwarz)に加えて、スウェーデンのメディア(書籍、雑誌、新聞、テレビ、映画)で長年圧倒的な存在感を示してきたBonnier一族の役割についても言及するべきであろう(Bonnier Group, 2021)。

 

しかし、全体像が物語っている。

Eckehart (2017)は以下のように述べた。64年から68年の間のスウェーデンの著名新聞・雑誌において移民とマイノリティ政策に関する17個の明確な討論があり、全部ででは118個の記事から構成されていた。

Schwarzはこの内の37個、つまり全体の31&を単独または共同で執筆した。

また、Schwarzは討論の内の最低12回以上を主導していた一方、二回以上討論を主導した人物は他に一人もいなかった。

他のユダヤ人の寄稿も加味した場合、スウェーデンの人口の1%未満に過ぎない最も小さいマイノリティグループのユダヤ人が46個の記事を執筆しており、全体の39%を占めていたことが分かった。

そして、全てのユダヤ人寄稿者が例外なく多文化主義の立場を取っていた。

ユダヤ人がこの問題の両側のリーダーシップを取っていなかったことは明白で、default hypothesisはここでも破綻している。

 

更に言えば、マイノリティはマジョリティよりも動員力が高いという点では民族間競争で有利である(Salter, 2006)。

動員力とは、例えば金銭、時間、労力を寄付するなどで大義のために自己犠牲を支払うのを厭わないことである。

リソースが限られている小さなグループであっても、その構成員を激しく動員でき、敵が数で勝ってはいても無関心である場合、不釣り合いな影響力を行使できる。

これは、米国の65年移民法についての上述の資料から当然わかることである。

ここ数十年のオーストラリアの場合、裕福なオーストラリアユダヤ人の後押しを受けるIsi and Mark Leiblerが、対イスラエル政策から移民問題、言論の自由の制限に至るまでの幅広い問題に関してオーストラリア政府への巨大な影響力を行使していた(Cashman, 2020; Gawenda, 2020; Sanderson, 2021)。

Sanderson (2013)はまた、70年代にオーストラリアで多文化主義の政府政策を推し進めたWalter Lippmannの効果的な活動にも触れている。彼の動機の少なくとも一因には、同化がユダヤ人コミュニティを衰退させるという懸念があった。

 

また、マイノリティの影響力は個人主義文化に対して特に効果的であり、スカンジナビア社会はその歴史的な家族の在り方や政治構造が示す通り、地球上で最も個人主義的な文化を持つ(MacDonald, 2018c, 2019)。

個人主義者は、他者を競合する他のグループのメンバーとして捉える傾向が弱い。

彼らは独立した個人としてのみ他者を捉える傾向が遥かに強く、比較的エスノセントリズムが弱い(Henrich, 2020; MacDonald, 2019, 2020, 2021)。

そして、個人主義文化の社会的結束は、血縁・人種・民族アイデンティティからよりも「モラル共同体」から供給される(MacDonald, 2019, 2021)。

現代の西洋のように、例えば多文化主義イデオロギーに異論を唱えれば有罪と見なされ、追放・失職の罰則を食らう恐れがあるようなモラル共同体のことである。

現代の西洋文化において、このようなモラル共同体は、ユダヤ人が過剰に多すぎるエリートの学術・メディア文化によってトップダウン方式で作製されている(MacDonald, 2002b, 2019)。

前述の通り、WW2後のユダヤ人の主な取り組みは、白人のエスノセントリズムと利害追求を政治的・社会的辺境に追いやる文化の作製に向けられていた(see also CofC: Ch.5)。

 

最後に、スウェーデンは比較的小国で地政学的に重要性の低い西洋の社会であるため、西洋の全体的な傾向に左右されやすい。

米国はWW2以降間違いなく西洋世界のリーダーであったので、米国で始まったトレンドがスウェーデンの知識人や政治家にポジティヴに受容されることは全く不思議では無い。

例えば、西洋の学術文化は国際的かつヒエラルキーが強いため、例としてボアズ人類学派の改革がエリート大学で発生して米国の学術界の標準になった場合、西洋の学術文化全体にそれが拡散するのは避けられなかったはずで、前述の米国の例と同じくそれは結果的に移民政策に反映されただろう。

例としてSanderson (2013: 7)は、人種についてのボアズ人類学派の見解が「非白人グループに対してオーストラリアへの移民の門を開け放つ上で決定的な武器」だったことを示し、ユダヤ人学者やその他ユダヤ人活動家が伝統的な白豪主義政策への抵抗を推進する上で主要な役割を果たしたことを論じている。例えば、The Australian Jewish Newsの全国編集長のDan Goldberg (2008)が「ユダヤ人は白豪主義に対する聖戦を主導した」と誇らしげに認めた記事を引用している。

また、Cofnasのdefault hypothesisと再度矛盾するものとして、Rubenstein (Rubinstein, 1995: 7)は以下のように指摘する。

「政治的には、ユダヤ人コミュニティは幾つかの目標に向かってコンセンサスあるいは事実上のコンセンサスを持って団結している。特にイスラエル支援、anti-Semitismとの戦い、多文化主義への支援、ユダヤ人デイスクール教育を通じた同化の阻止に向かってコンセンサスがある。」

 

MacDonald (CofC: 294)は以下のように述べる。「西洋世界での移民政策の大変動はほぼ同時期(1962–1973)に発生した。どの国においても、その変化は市民の大多数の姿勢よりもエリートの姿勢が反映されたものだった。…一貫したテーマとして、移民政策はメディアを支配するエリートによって制定されており、全ての主要政党の政治リーダーは移民への恐怖が政治的議題に上がって来ないよう全力を注いできた。」

上述の通り、Graham (2004: 88)を引用すると、公共政策へのトップダウン方式の影響力が60年代のユダヤ人の移民法改正運動の中枢であり、その傾向は他の公共政策問題でもますます顕著になってきた。

初期の数十年間(CofC: Ch. 5)にユダヤ人知識人が支持したanti-populismとトップダウン型のエリート支配が実を結んだ。

 

White Advocacy(白人の利益の弁護)を目指す運動にユダヤ人は歓迎されるべきか?

 

Cofnas (2021)は、親白人運動のリーダーの大多数がユダヤ人に対する敵意を表明している以上、ユダヤ人達がそれに参加しないのは驚くことではないと主張する。

私の見解は以下である。ユダヤ人自身が、白人の利益に反して米国を変貌させたユダヤ人コミュニティの役割と力を認め、ユダヤ人コミュニティの力が白人への弁護に向くよう尽力するのであれば、ユダヤ人の親白人運動への参加は許容されるに違いない(MacDonald, 2016)。

更に言えば非ユダヤ人は以下の歴史に気を付けるべきだ。ユダヤ人は過去に、白人系民族が彼ら自身の利害に関する合理的感覚を得ることを犠牲にさせつつ、ユダヤ人の利害と互換性を持たせる方式でwhite advocacy運動に影響を及ぼそうとした(Joyce 2016, Joyce, 2021)。

 

White advocacyにユダヤ人が共感していないことをanti-Jewishの物語のせいにして非難することは深刻な問題である。

white advocatesは自分達が収奪されたことに関する歴史的な、かつ現代も続くユダヤ人の役割を無視しなければならないのだろうか?

多くのユダヤ人は、白人が収奪されてきた歴史について正直に議論することを必ず脅威に感じるだろう。

その歴史を客観的に説明するだけでユダヤ人達の支配的な役割は明白だからである。

しかしユダヤ人達の役割に対して沈黙すれば、これらのグループにある種の非歴史的な現在を生きるよう強いることになる。それは、過去について現実的な議論、客観的方法で過去を理解する試みを妨害し邪魔することである。

よって、これらの親ヨーロッパ人運動は、ユダヤ人運動を含め、私の知る限り他の全ての民族主義運動と大きく距離を取ることを強いられる。

民族アイデンティティと民族への献身は歴史への感覚と深く絡みついている。例えば、上述の通りユダヤ人の歴史はlachrymose(涙もろい)観点で支えられている。

「政治とは、単なる現在、未来を支配する目的の激しい肉体的闘争では無い。過去の記録を支配するための知的闘争である」(Johnson [Johnson, 1988: 481], describing the philosophy of history of Frankfurt School intellectual Walter Benjamin [b. 1892– d. 1940])。

 

Conclusion

 

私は以下のように結論付ける。Cofnasの「anti-Jewish的文脈」への批判は事実に基づいていない。また、米国のユダヤ人の変革への影響力を説明する中でユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害の重要性を否定する論拠には、多くの理論的誤りがある。

更に言えば、CofnasがWW2後の重要な数十年間でのユダヤ人コミュニティの態度や行動の歴史的変化を正当に評価した形跡は無い。

また、Cofnasが特定の時代と場所、特にユダヤ人活動家コミュニティの間で、特定の態度が事実上のユダヤ人のコンセンサスを形成してきた度合いについて正当に評価した形跡も無い。

加えてCofnasは、戦後にユダヤ人達がアメリカ文化の新しいエリートの不可欠な要素として現れた時期に、ユダヤ人活動家コミュニティの中でどのようにして事実上のコンセンサスが形成されたか正当に評価してもいない。そのコンセンサスは、白人のエスノセントリズム、移民問題、公民権運動、コスモポリタニズム、社会の世俗化等に広く影響を及ぼしただけでなく、それらが標的にされる背景そのものを作り出した。

そして、ユダヤ人の影響力を調べる場合、特にユダヤ人の異なる派閥が各々異なる方向に公共政策を動かそうとする場合には、特定の時代でどの派閥がより強力なのか、どの派閥がより幅広いユダヤ人コミュニティを代表しているのか、見極める必要がある。Cofnasの分析ではそれが全く欠落している。

 

the default hypothesisが破綻している理由を特に幾つか挙げる。

 

・CofCの対象期間、つまり西洋にとって変革期である時期、移民制限主義やポピュリスト運動に参加したユダヤ人達やユダヤ人組織は存在しなかった。この期間にユダヤ人組織・活動家たちは一様に移民推進派であり、ユダヤ人知識人達はポピュリズムを激しく非難していた。

 

・上述の通り「60年代以前の米国では…政治的スペクトラムの左側にいない有力ユダヤ人知識人・活動家を見つけるのは殆ど不可能だった」のであり、私はCofnasがその期間にユダヤ人コミュニティの力がどこに向いていたのか無視していることを指摘する。

彼はまた、ユダヤ系アメリカ人の保守派の中で最重要グループであるユダヤ人ネオコンが移民推進派であり、アメリカユダヤ人の大多数の態度に沿って社会問題に関して共和党を左傾化させてきたことを無視している。

 

・60年代のスウェーデンの移民問題に関する極めて重要な討論では、全てのユダヤ人寄稿者が多文化主義を支持した。同様にオーストラリアでも、多文化主義やその他の問題についてユダヤ人のコンセンサスが存在する。「特にイスラエル支援、anti-Semitism(セム主義批判)との戦い、ユダヤ人デイスクール教育による同化の阻止」(Rubenstein, 1995: 7)。

 

・the default hhypothesisでは、ユダヤ人から始まりユダヤ人が支配する有力な運動の内部力学と動機について書くのを避け、純粋に統計的な分析しかしていない。しかし、これらの運動の動機と内部力学の理解は、間違いなく追及する価値のある課題である。

 

Cofnasの説明は、これら全ての領域で欠陥がある。彼はユダヤ人の歴史と活動に対する極めて不十分な見解を形成している。