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西洋文化をユニークにしたものは何か (“What Makes Western Culture Unique”)

What Makes Western Culture Unique? 翻訳

Kevin MacDonald

西洋文化をユニークにしたものは何か

原文:http://www.kevinmacdonald.net/west-toq.htm

 

一般に、文化のユニークさは自然由来か教育由来かのどちらかである。これは昔から変わらない二項対立である。
しかし我々は現在これらの問題について昔よりもより良く扱える立場にあり、そして自然由来説と教育由来説のどちらも重要であることを説明しようと思う。
西洋文化は、どのような生物学的/進化論的理論でも予測がつかないほどの独特の文化的変貌を経験してきたが、同時にユニークな進化の歴史もあった。
西洋文化は、世界の他の文明や文化を築いた人々とは遺伝的に異なった人々によって構築された。
西洋文化が他の伝統的文明と比較してユニークな文化的プロファイルを持つことを以下で論じる。

1. カトリック教会とキリスト教

2. 一夫一妻制の傾向

3. 核家族が基本のシンプルな家族構造の傾向

4. 結婚が両性の合意に基づいており、相互の愛情を基本にする傾向が強い

5. 拡大血縁(extended kinship relationships)とその互恵関係の重視を避け、エスノセントリズムが比較的弱い

6. 個人主義へ向かう傾向。国家に対する個人の権利、代議制政府、道徳の普遍主義化、自然科学へ向かう傾向

私のバックグラウンドは進化生物学の分野であり、性の進化論を扱った時に最初に感じた疑問の一つは、「なぜ西洋文化は一夫一妻制なのか?」だった。
性の進化論は非常にシンプルである。女性は生殖に多大な投資が必要である。妊娠、授乳、そして育児は大抵膨大な時間を要求する。
その結果、女性の生殖には厳しい制約がある。最高の条件を用意してもらっても、最大でも20人程度の子どもしか育てようがない。
しかし、男性にとっては生殖のコストは低い。結果として、男性は複数の配偶者から恩恵を得ることも可能で、富と力を持つ男性はそれを活用して可能な限り多くの配偶者を確保することも期待できる。
要約すれば、富と力を持つ男性による集中的な一夫多妻制は男性にとって最も適切な戦略であり、個々人の男性の生殖の成功にとって最も適切な振る舞いである。

この理論は十分に支持されている。世界中の伝統的な社会では、富と生殖活動の成功との間に強い関連性がある。裕福で力のある男性は非常の多数の女性をコントロールできる。
中国、インド、イスラム社会、新世界文明、古代エジプト、古代イスラエル等の世界中の全ての伝統的文明のエリート男性は、大抵数百人から数千人にもなる側室を持っていた。
サブサハラ・アフリカでは女性は一般的に男性の扶養なしで子どもを育てることができるので、結果として、男性はできるだけ多くの女性をコントロールするために競争する低レベルの一夫多妻制になった。
これらいずれの社会においても、これらの関係から産まれた子どもは合法的だった。彼らは財産を相続することができ、世間から蔑まれることもなかった。
中国の皇帝には数千人の側室がおり、モロッコのスルタンは888人の子どもを持つことでギネスブックに登録されている。

勿論、一夫一妻制が標準の社会は他にもある。生態学的に課せられた一夫一妻制と社会的に課せられた一夫一妻制とを区別することが一般的である。
一般に、生態学的に課せられた一夫一妻制は、砂漠や寒冷地等の非常に過酷な生態的条件への適応を強いられた社会で見られる。
このような過酷な条件下では、各男性の投資は一人の女性の子供達に向かわざるを得ず、更に多くの女性をコントロールすることは不可能である。
基本的考え方としては、過酷な条件下では女性は一人で子どもを育てることが不可能で、男性からの手助けが必要である。
このような条件が、進化論的に意味を成すほど長期間続いた場合には、人口は一夫一妻制に向かう強い傾向を発達させると予想できる。

実際に、一夫一妻制の傾向が強くなりすぎると、生態学的条件の変化に直面した場合でも一夫一妻制に向かう心理的・文化的傾向へとつながることが予想できる。
私はヨーロッパ人の進化で正にこのことが起きたのだと提案しており、以下で詳述する。

Richard Alexanderは”socially imposed monogamy” (SIM)[社会的に課せられた一夫一妻制]という用語で、過酷な生態的条件なしの一夫一妻制を定義した。
過酷な条件とは男性が直接子供を養育せざるを得ない条件のことを指す。それ以外の状況では、男性は自分にできる限り多数の妻を持つために競争すると予想でき、一般的にもそうなる。

 

西洋のユニークさの最初の例

世界の他の経済的先進地域の文化は、成功した男性による一夫多妻制が特徴であるのに対して、西洋社会には古代ギリシャ・ローマから現代にいたるまで一夫一妻制の強い傾向がある。

古代ローマには、一夫一妻制を志向する様々な政治制度や思想の背景があった。
ローマで社会的に課せられた一夫一妻制の起源は歴史から忘れられているが、一夫一妻制を維持させるための幾つかのメカニズムが存在した。
一夫一妻制の外で生まれた子どもの法的地位を下げる法律、離婚を妨げる習慣、不適合な性的行動に対してネガティブな社会意識、そして一夫一妻制が性的に正統だと定める宗教思想があった。
これらのメカニズムのバリエーションは西洋の歴史を通じて現代まで続いている。

共和制ローマの時代には、コンスルの任期制限、二人のコンスルを同時に存在させるなどで特定の貴族の一族が専制を敷けないようにする仕組みもあった。
下層市民の政治代表権についても、護民官を設置するなど徐々に法整備が進んだ。近親者の結婚を妨げる広範な法律も存在した。
これらの法律が親族集団内での富の集中を防ぎ、特定の貴族の一族の支配を防いだ。

ローマの一夫一妻制は完璧とは程遠かった。
特に帝政期には離婚が増加し、共和制初期の特徴だった一夫一妻制を性的に正統とする思想が衰退したことで、それまでの家族機能が全般的に崩壊した。
それでも法的には、少なくとも理論的には、ローマ文化は最後まで一夫一妻制だった。一夫多妻制は法律で認可されることは無く、一夫一妻制の外で生まれた子どもには相続権は無いままで、母親の社会的・法的地位を受け継ぐことになった。

カトリック教会はエリート男性に一夫一妻制を課そうとしたので、一夫一妻制を巡る争いは中世の重要な特徴となった。
カトリック教会は西洋文化のユニークな一面である。
13世紀に中国に訪れたマルコ・ポーロや1519年にアステカに到着したコルテスは、現地の世襲制貴族・神官・戦士・職人・農民から成る農業社会を観察し、彼ら自身の社会との多数の類似点に気づいた。
社会同士の間には圧倒的な収斂性があった。しかし彼らは、宗教組織が世俗組織より優れていると主張し、世俗エリートの生殖行動の抑制に成功しているような社会は西洋以外に見出せなかった。
また、Louis IX (St. Louis) のような、フランスを統治しながらも一人の妻と一緒に修行僧のような生活をし、聖地解放の十字軍に参加するような王は、西洋以外には見出せなかった。

一夫一妻制が法と慣習として根付いたローマ文明の相続人であったカトリック教会は、中世には勃興してきたヨーロッパ貴族に一夫一妻制を課すようになった。
確かに、中世初期のヨーロッパ貴族の一夫多妻制は、中国やイスラム諸国のハーレムと比べてかなり小規模であったが、それは中世初期のヨーロッパの経済状況が比較的未発達であったことも一因であろう。
なにしろ中国の皇帝は広大で人口の多い莫大な余剰経済生産を持つ国を持っていた。彼らは中世初期ヨーロッパの部族長より遥かに裕福で、その富と力ではるかに多くの女性を手に入れた。

とにかく、一夫多妻制はヨーロッパにも存在しており、中世には教会と貴族の紛争の種となった。
教会は「中世ヨーロッパで最も影響力が強く重要な政府機関」で、世俗的な貴族に対するこの権力の主要な一面が性と生殖の規制だった。
その結果、富裕層にも貧困層にも同じ性的規制が課せられた。
教会の目論見として「信徒の中でも特に最も有力な者に対し、教会の権威に服属して彼らの道徳、特に性道徳を監督させることを要求した。これにより、結婚を通して教会は貴族をコントロールできた。結婚と夫婦間の問題は全て教会に持ち込むことを強いられ、教会のみが解決できるとされていた。」

進化心理学の観点からこの時期の教会の行動を理解する試みは、この論文の範囲外である。
しかし、権力欲は人間の普遍的な欲求であるが、他の全ての人間の欲求と同様、それが必ずしも生殖の成功と関連する必要はないことに注意する必要がある。
同様に、人はセックスの欲求があるが、母なる自然がそのようにデザインしたにもかかわらず、セックスを沢山すれば必ずしも多くの子供を持つことに直結するとは限らない。

教会のユニークな特徴の一つとしては、教会が利他的であるというイメージ(及びその実態)がその人気を支えていた。
中世の教会は、女性をコントロールしたり生殖で高い成功を収めることに教会はあまり関心を持たないと人々に思わせるイメージ戦略に長けていた。
これは常にそうだったわけでは無い。中世の改革以前には、多くの司祭が妻や側室を持っていた。
Saint Bonifaceは742年にフランスの教会について以下のように書き、ローマ教皇に苦言を呈した。「いわゆる司祭補佐は、少年時代から放蕩、姦淫、あらゆる穢れに人生を浪費し、その悪評のままで司祭補佐になり、今やベッドに4、5人の側室を抱えたまま福音書を読む有り様である。」

にもかかわらず、聖職者の改革は本物だった。13世紀のイングランドの高位聖職者で妻や家庭を持った者はいなかったとされる。
この時代のイングランドでは下級聖職者の間でさえ妻帯者は例外的であり、この聖職者のモラルの高さは宗教改革の時代まで保たれた。

教会はこのように貞操と利他主義のイメージを人々に植え付けた。その権力と富は生殖の成功に向けられてはいなかった。
教会の真の生殖利他主義は、極めて禁欲的な修道生活の魅力が非常に広まった要因であったようだ。
この禁欲主義は、中世中期の一般大衆の教会に対する認識において重要な要素であった。
11世紀から12世紀にかけて数千の修道院が建てられた。独身の禁欲的な男性で構成され、主に裕福な層から採用された修道院は、「教会全体の精神性、教育、芸術、そして文化の伝達の雰囲気の担い手だった…」。
修道士の祈りが全てのクリスチャンの助けになるという思想が、修道士の利他主義のイメージを育んだ。

これらの修道会は、非常に人気の大衆イメージを教会にもたらした。
13世紀の間、托鉢修道士達(ドミニコ会、フランシスコ会)は教会に対する教皇の権力を増大させ、聖職者の独身主義の規則を施行し、縁故主義や聖職売買を防止し、世俗権力に対抗する力を教会に与える教会改革に貢献した。それには信徒の性的関係を規制する権力の獲得等が含まれた。
「初期の托鉢僧は、最貧困層の最も搾取される人々に寄り添うように自発的に窮乏し自らに極貧を課していた。それらは世俗の聖職者の出世主義と虚飾、修道院の富と排他性とは全く異なっていた。それらは良心を突き動かし、商業コミュニティの気前の良さを刺激した。」

中世中期に…社会の最も有力で最も富裕、あるいは少なくとも豊かな層の多数のメンバーが、地上の快楽を最大限満喫する最良のチャンスを自ら断念したことは、歴史上最も驚くべき現象の一つである。…
新しい志願者の流れは、禁欲生活(修道生活)の規則が古代の厳格さに戻った地域、それどころか古代以上に厳しくなった地域で特に印象的であった。…
禁欲生活(修道生活)を選ぶ主な動機は、仮に長い人生の中でその原動力の一部を喪失したり、最初から他の動機が混ざっていたとしても、常に禁欲主義の世界終末論的理念があったと考えるべきであろう。

13世紀の間、托鉢修道士は基本的に貴族や地主などの裕福な家族から採用された。彼らの両親は普通の親がそうであるのと同じく孫を待ち望んだため、大抵それに反対した。
「裕福な家族にとって、子どもが修道士になることは悪夢だった」。これらの家族は、子どもが修道生活に勧誘されるのを避けるために子どもを大学に送るのをやめ始めた。

社会の中心にあったのは、人々は利他的であるべきであり、裕福に生まれても禁欲主義に生きるべきだというイデオロギーを持つ機関であった。
これが結婚とセックスに関して教会の権威が認められた理由であるが、そもそも、なぜ裕福な人々が修道院に入って禁欲(独身)を貫くことになるのか不思議である。
好き嫌いは抜きにして、この時期の西ヨーロッパは優生学と無縁であった。

中世の教会は西洋文化のユニークな特徴であったが、この論文のテーマは、批判的な意味で、それが最も非西洋的であったということにある。
なぜなら、中世ヨーロッパはグループアイデンティティとそれへの献身意識が強い集団主義の社会であったからだ。
私は、西洋社会は個人主義への献身においてもユニークであり、実際に個人主義が西洋文明を定義づけると以下で論ずる。

中世後期の西欧社会の集団主義はしっかりしたものだった。
例えば聖地をイスラム教徒の支配から解放しようとする十字軍遠征に伴う多数の巡礼者と宗教的熱狂、イングループ的な熱狂が示すように、社会のあらゆる階層でキリスト教への激しいグループアイデンティティと献身が存在していた。
中世の教会は、ユダヤ人に対するクリスチャングループの経済的利害の鋭い意識を持っていた。大抵の場合でユダヤ人の経済的・政治的影響力を阻止し、クリスチャンとユダヤ人の社会的交流を防ぐべく努力した。

以上のように、特に托鉢修道士、その他多数の宗教者、世俗エリートに至るまで、高レベルの生殖利他主義が存在した。
世俗エリートの生殖利他主義は主に強制の結果であったが、フランスのルイ9世のように自発的な抑制の場合もある。
ルイはクリスチャンの性道徳の模範であっただけではない。
彼はユダヤ人に対するクリスチャングループの経済的利害の鋭い意識も持ち、聖地をクリスチャンの手に取り戻すべく十字軍にも深く関与した。
ヨーロッパ人は、強力かつ脅威であった非クリスチャンのアウトグループ(特にムスリムとユダヤ人)に対し、自分達をクリスチャンのイングループの隊列の一員と見なした。

教会の力に基づく統一されたクリスチャン社会の理想と、エリートの間での性的抑制との間には、確かにギャップがあった。
しかしこれらのギャップに関しては、多くの中世クリスチャン、特に中世社会の主人公である以下の人々の認識を考慮するべきである。
修道院運動、托鉢修道士、改革派教皇、熱狂した十字軍、敬虔な巡礼者、更には多くのエリート貴族でさえ、彼ら自身を高度に統一された超国家的な集団の一員と見なしていた。
この根本的な集団主義志向を理解すれば、心理学の観点から中世の集団への激しい献身と利他主義とが分かる。それは現代の西欧とはあまりにも異質である。

 

西欧の社会的に課せられた一夫一妻制を保つ社会コントロール&イデオロギー

西欧では、教会は貴族の生殖の利益と正反対の教会式結婚モデルを採用した。その結果、12世紀末には家族構成の変化と教会による一夫一妻制の強制が起きた。
一夫一妻制の強制と維持には以下の要因が最も重要であっただろう。

離婚の禁止。
裕福な男性は簡単に再婚できるので、簡単に離婚できる場合の最大の受益者である。
ユーラシアの他の社会では離婚は一般的で、キリスト教以前のヨーロッパ諸部族の間でも合法であった。しかし教会の見解では結婚は一夫一妻制かつ不可逆であった。
クリスチャンローマ皇帝の下で離婚はますます制限され、9世紀から12世紀にかけて教会は貴族の離婚事件を争点にして貴族との紛争に勝利した。
例えば12世紀後半、フランス王フィリップは妻を嫌いでかつ妻が不妊であったにもかかわらず離婚を阻まれた。王はパリの修道院で宗教者グループに対し謝罪させられた。

離婚が許される場合もあったが、それは最初の結婚で男児の跡継ぎを産めなかった場合に限られた。例えば中世フランスのルイ七世とEleanor of Aquitaineの場合が当てはまる。
(しかし教皇は、ヘンリー八世が跡継ぎを産めない妻と離婚することを許可しなかった)
1857年の改革まで、イギリスでは離婚は「一握りの大金持ち以外には不可能だった」。しかしそれ以後でも離婚率は低さを維持し続けた。
「16世紀に離婚を合法化したヨーロッパの地域では、離婚率がグラフの横軸と区別できるようになるまで300年以上かかった」
イギリスでの離婚率は1914年まで0.1/1000以下、1943年まで1/1000以下だった。(Stone 1990)1910年当時、離婚率が0.5/1000を超えるヨーロッパの国は無かった。
私の知る限りでは、離婚を非常に避けるこの傾向は西欧文明特有である。

非嫡出子に対するペナルティ。
進化論の観点から、生殖に関する社会コントロールの最も重要な面は、内縁関係・事実婚のコントロールである。
非嫡出子のコントロールは、内縁関係・事実婚を困難・不可能にし、非嫡出子の財産相続を妨げる等で非嫡出子の将来性を危うくさせることで、裕福な男性の生殖利益を抑制する。

教会は内縁関係、特に正妻を差し置いての内縁関係を熱心に抑え込んだ。
非嫡出子の相続に対する社会コントロールは大抵効果的だったようだ。教会は、合法的結婚が合法の子供を産み、それ以外は法的地位を持たないという姿勢だったが、特定の時代には私生児は他の子供より地位が高かった。(see below)
私生児の相続財産は教会や国が没収したため、私生児に財産を残そうと願っても当局に阻止される可能性があった。
ピューリタン時代のイングランドでは、遺言状に私生児は一切登場しなかった。

教会の直接の影響力以外にも、世俗権力や世論によって、非嫡出子の出生にはその他様々なペナルティが科せられた。
非嫡出子の父親と特に母親には追放や投獄が科せられ、母親はその地域を去ることを含めて妊娠を隠すあらゆる努力をするのが普通だった。
これらの社会コントロールの影響は非嫡出子の死亡率にまで及んだ。近世の英仏では非嫡出子の方が乳児死亡率が高かった。
女性は非嫡出子を大抵捨てた。非嫡出子は大抵死産として報告され、嬰児殺しを暗示しており、女性は時として堕胎によって非嫡出子の出産から逃れようとした。

エリートに対する内縁関係の統制。
中世にはエリート男性に対する内縁関係の統制はますます効果的になった。よって12世紀は極めて重要であろう。
この時代の例には、一夫一妻制を支持する社会・イデオロギー的コントロールをうまく回避したエリート男性たちの話もあり、エリート男性でありながら完全な一夫一妻制を守った話もある。
一般のパターンは、英国王の非嫡出子の数から読み取れる。1066年から1485年までの18人の英国王の内で10人が愛人を持ち、恐らく計41人の非嫡出子を持った。
1100年から1135年のヘンリー一世は、この内20人を持ち、さらに5人の非嫡出子を持つ可能性もある。中世では他に三人以上の非嫡出子を持った王はおらず、八人の王は非嫡出子を持った記録が無い。
ヘンリー一世は領土的野心のために大量の子孫を欲したユニークな王である。それでもヘンリーは非嫡出子を嫡出子より遥かに酷く扱った。嫡出子は甘やかされ、宮廷で手ほどきを受け、大貴族の生活が約束されていた。
一方で私生児は王位継承から除外され、大抵は結婚のチャンスすら無かった。
12世紀に起きた結婚に関する考え方と慣習の大きな変化を反映して、その後数世紀で非嫡出子の数と重要性は低下した。

中世以降の性行動の取り締まり。
中世の教会の主な目標の一つは、一夫一妻制の結婚外での性行為を取り締まることであった。性的違反の取り締まりは中世から少なくとも17世紀末まで教会裁判所の重要な仕事であった。
これらの裁判所は17世紀のイギリスで非常に活発で、淫行・姦通・近親相姦・違法同居などを訴追した。
これらの教会の処罰の有効性は地域と時代により異なるが、「犠牲者は仲間に追い回され、村八分にされて生計を奪われ、追放者として扱われた」という悲惨な結果の例もある。

17世紀の高等宗務官裁判所には、他の司法手続きから免除されそうな富裕層に対し、姦通に対する制裁を含めた制裁を課す権限が認められていた。
「法の下の平等のこのような強制執行により、裁判所は17世紀のイングランドの重要人物たちに嫌われた」。
治安判事などの世俗当局も、それらの犯罪を訴追する用意があった。例えばエリザベス朝の法令に基づき16世紀と17世紀の治安判事たちは、男女の性犯罪者に対し、さらし台に拘束し、腰まで服を脱がせて(女性は「背中が血まみれになるまで」)公開鞭打ち刑に処すと宣告するのが普通だった。

一夫一妻制を促進するイデオロギー。
最終的には社会コントロールに依存していたものの、中世の教会は一夫一妻制と性的抑制を促進するべく巧みなイデオロギーを発展させた。
一般にこれらの著作は、独身主義の道徳的優位性とあらゆる種類の婚外性行為の罪深さを強調した。一夫一妻制の結婚以外での全ての性関係は、近世から現代にいたるまで宗教権威によって例外なく非難された。夫婦のセックスは嘆かわしく罪深いがやむを得ないものとされ、妻に対する過度の情熱は姦淫と見なされた。
18世紀には比較的緩和されたが、19世紀には激しい反快楽主義の宗教的性イデオロギーが台頭した。

結論。
中世以来、社会コントロールとイデオロギーの巧みなシステムが、西欧の広い地域で程度の差はあれ一夫一妻制の完全な押し付けに成功した。
「中世初期の大きな社会成果は、富裕層と貧困層の双方に同じ性行動・家庭行動のルールを課したことにある。王は宮殿にいて、農民は小屋にいたが、例外は無かった。」
とはいえこのシステムは決して完全な平等主義では無かった。工業化以前のヨーロッパでは富と生殖の成功の間の正の相関があった。

西欧では一夫多妻制にペナルティを課して非一夫一妻制を生殖と関わらないものに変えたり、完全に抑圧する等の、驚異的な継続性を持つ様々な慣例があった。
これらの慣例の変化や政治・経済構造の大変化にも関わらず、ローマ文明から始まる西洋の家族制度は明らかに一夫一妻制の社会的押し付けを目指してきた。この努力は大部分成功した。

 

一夫一妻制の効果

一夫一妻制は西洋のユニークさの中心的面であり、複数の重要な効果を持つ。
一夫一妻制はヨーロッパ特有の「低圧」人口動態の必要条件である可能性が高い。この人口動態は、経済的欠乏期に高い割合の女性が晩婚になったり独身になった結果である。
一夫一妻制との関連で言えば、一夫一妻制の結婚では男女ともに貧しい者は結婚すらできない状態になる。しかし一夫多妻制では、貧しい女性が過剰にいても、裕福な男性にとって側室の価格が安くなるだけである。
例えば、17世紀末には40~44歳の未婚率は男女共に約23%であった。しかし経済的チャンスの変化に伴って18世紀初頭にはこの割合が9%まで低下し、それに伴い結婚年齢も下がった。
このパターンは一夫一妻制と同様、ユーラシアの階層社会の中ではユニークであった。

同様に、低圧の人口動態は経済状態にも影響したようだ。
結婚率は、人口増加の主な抑制要因であっただけではない。特にイギリスでは好景気に対応する結婚率の上昇が大きく遅れる傾向があったため、人口増加が食料供給にかける圧力より好景気時の資本蓄積の傾向が強かった。

経済の変動と人口動態の変動の間のローリング調整はこのように緩慢に発生した。実質賃金は緩やかに大きく上昇する傾向にあったので、産業革命以前の全ての国の飛躍を妨げてきた低所得の罠から抜け出すチャンスを得た。
実質賃金の長期的な上昇は需要の構造を変化させ、生活必需品以外の商品の需要を不釣り合いに強く押し上げる傾向がある。産業革命が起きた場合は生活必需品以外の部門の成長こそが特に重要になる。

よって一夫一妻制は、工業化の必要条件である低圧の人口動態をもたらしたと考えることもできる。
全体を見れば、女性の晩婚化・独身化がワンパターンで進んでいるわけでは無い。それより、結婚は経済的制約に左右される。
豊かな時代には男女共に結婚年齢が低下し、子供を残さない女性は減った。その結果、リソースの利用能力に非常に左右される結婚制度になった。
「ヨーロッパの重要かつ飛び抜けた特徴は、システム転換の軸となった、人口を経済に適応させる柔軟な結婚制度であった」
これは、一夫一妻制が西洋近代化に不可欠な基本概念の中心面であった可能性を示唆する。

一夫一妻制と子どもへの投資
一夫多妻では、リソースが生殖に割かれて子供への投資が比較的少なくなる傾向がある。一夫多妻の男性にとっては、追加の妻や側室、投資額が少なく済む彼らの子供に向けて追加投資するのが魅力的である。
一夫多妻社会では、追加の側室に投資すれば報酬が大きい傾向があり、その子供への投資も安く済む。
側室の子供には比較的小さな遺産が与えられ、社会的地位は下がるのが一般的であった。
ハーレム女性の子孫の性比は低く、圧倒的に娘が多い。理論的には、一般的に女性の方が交尾しやすいため、低投資で済む子孫に偏ることを示す。
これら側室の娘は父親に比べて社会的地位は低いものの、交尾はしやすい傾向にある。一方で上流階級の息子は身分の低い一族からの持参金競争の対象となった。
いずれにせよ、父親が側室の子供に時間・労力・金銭を投資する必要は殆ど無い。

しかし一夫一妻では、個々の男性が投資できるのは一人の女性の子供に限られる。
拡大された親族関係が衰退し(see below)、全ての社会階層で一夫一妻が制度化されると、 子どもたちへの支援は独立した核家族次第になった。
後述のように、この「シンプルな」家族こそが西洋近代化の決定的手段であった。

 

拡大血縁(extended kinship relations)の衰退と単純世帯の台頭

一夫一妻制の場合と同じく、拡大血縁の衰退にも教会が関与した。
しかしこの場合の教会の政策は、強力な中央政府の台頭に助けられた。中央政府は拡大された家族関係を抑制し、個人の利害を保証することで拡大家族の役割を継承した。

進化論の観点からは、親族関係の潜在的な重要性を過大評価するのは難しい。
生物学的血縁関係のために親族は共通の利害を持ち、協力や自己犠牲行動への閾値も低いであろう。
ローマ帝国末期に西欧の大部分に定住したゲルマン諸部族は、男性間の生物学的血縁関係に基づく血縁グループとして組織化されていた。彼らは血縁の絆に基づく強いグループ連帯感を持っていた。
「初期のゲルマン人は攻撃や飢饉の脅威に直面しても、官僚的帝国の保護と支援に頼ることができなかったため、共同体の各男女は家族や共同体の連帯の絆が体現するグループ・サバイバルという社会生物学の基本原則に固執する義務があった」。
この部族に基づく血縁集団の世界こそが、王や教会が根絶したいものだった。

拡大血縁に対する反対勢力
大規模かつ強力な血縁グループを根絶することは教会と貴族の双方にとって利益があった。
高度に中央集権化された国家権力は、それ自体で拡大血縁の重要性を下げる傾向があり、その権力が個人の利益を保護する場合には特にそうなる。
進化論の観点から見れば、拡大血縁グループはコストと利益がある。
利点はより広い親族から提供される保護と支援であるが、この利点にはコストも伴う。
1)親族からの互恵的なサービスの要求が高まる
2)親族は、ある個人が親族集団の中で他の人より過度に出世するのを妨害する傾向がある事実
3)平等主義と程遠い親族構造の中で自己を確立する困難さ
結果として、自分の利益が他の制度によって保護されている場合、例えば拡大血縁の利益は無くコストだけがある場合には、個人は拡大血縁グループに絡まるのを避けるであろう。
一般に、中央集権が弱体化すると、個人は拡大血縁グループの保護を求める傾向があり、国家権力が自分達の利益を充分守れる力を持つ場合には、それに伴って拡大血縁グループから逃げ出す。

単純な家族に基づき近親者への義務から解放された貴族が、単純な家族構造の農民を支配し、拡大血縁とは違う隣人や友人から成る社会に組み込まれた。それが、徐々に発展した西洋の図式である。
この社会構造は中世後期の成果である。中世後期には、英仏の農民にとって拡大血縁は重要ではなくなっていた。

教会の政策。
教会の政策の一つとして、教会は近親婚(近い血縁の結婚)に反対し、双方の同意のみに基づく結婚を支持して、西欧での拡大血縁の絆の根絶に貢献した。
近親婚については、教会は拡大し続ける個人の集団の間での結婚を禁じた。六世紀にはまたいとこまで、11世紀までには6th cousins、つまりgreat-great-great-great-great grandfatherが共通になる個人にまで禁止が拡大された。
明らかに、これらの近親婚の禁止の範囲は進化論で予測できる範囲より遥かに広い。
加えて、同様に遠い、婚姻で生じた親族(結婚で親族になった場合)や精神的親族の個人間(代父母としての親族)でも結婚は禁じられており、生物学的血縁は重要とされなかった。
この政策の効果は、拡大血縁のネットワークを弱体化させ、より広い親族グループへの義務から解放された貴族を生み出した。

教会のこれらの禁止命令がどのように正当化されたにせよ、貴族が教会の規則に従った証拠がある。
十世紀から十一世紀のフランス貴族の間で、4th or 5th cousinsより近い親族間の結婚はほとんど起きなかった。
これらの慣習は、近親婚の範囲の拡大が「結婚による血縁の強化」を排除して拡大血縁グループの連帯を妨げたので、拡大血縁グループを弱体化させた。
その結果、生物学的血縁が社会の頂点に集中することなく、貴族全体に分散して広がった。
より広い親族グループだけでなく家族の直系の子孫も恩恵を受けた。「世俗の高い地位の男性は、…自分の直系の子孫のためにできるだけ自分の財産と家族を一元管理しようとし、より広い親族は二の次だった」。

近親婚に対する政策に加えて、結婚における同意という教会の教義が、拡大血縁に対抗する力として働いた。
「家族・部族・氏族は個人に従属していた。もし結婚したいなら、自分で相手を選ぶことができ、教会はその選択を弁護する」。結婚は同意の結果として起こり、性交によって批准された。
結婚の基礎を、家族や世俗支配者の支配から当事者自身に譲渡させることで、教会は伝統的親族・家族の絆に対抗する権威を確立した。
結婚相手の選択の自由は近代を通してイングランドの原則であり、親のコントロールは人口の上位1%でのみ起こった。

 

西洋個人主義の民族的基盤

Magian(東方人)の人間は、上から下に降順で整列しており、「我々」なるものの空っぽな一部分にすぎず、全てのメンバーが代わり映えが無い。
肉体と魂としては彼は自立しているが、異質で高次な別のものも彼の中に宿っている。それは彼の全ての気配と信念とを単なるコンセンサスの一員にする。それは神の放出物として、自我の自己主張の可能性を排除する。
彼にとっての真理は、我々、特にヨーロッパ精神を持つ我々にとっての真理と全く異質である。
個人の判断に基づく我々の認識論的方法は全て、彼にとっては狂気とのぼせ上がりである。その科学的結果は、その真の性質と目的において精神を混乱させ欺く邪悪な所業である。
この洞窟の世界の中にはMagianの究極かつ近寄りがたい秘密がある。自我が考え・信じ・知ることの不可能性こそが、これらの宗教の基礎の前提にある。

ファウストの世界観
「Wolfran von Eschenback、セルバンテス、シェイクスピア、ゲーテにとって、個人の人生の悲劇の線は、内側から外側へ、ダイナミックに、機能的に発展する」。
「…神が見せる、または見せたと言われる仮面の言葉が、殴っても空々しく聞こえるならば、神を疑うことさえする」オズワルド・シュペングラー

これまでのところでは、同意と愛、一夫一妻制、拡大血縁の重要性の低下に基づく個人主義的な核家族の出現は、単に私が述べた社会プロセスの結果に過ぎないと思う人もいるだろう。
しかし実際には、これらの変化が世界の他の地域より遥かに素早くかつ徹底的に発生したのである。
西洋世界は、個人主義の全てのマーカーが基本的な特徴である唯一の文化圏であり続けている。一夫一妻制、夫婦の核家族、国家に対抗する個人の権利としての代議制政府、道徳普遍主義、科学。
更に言えばこの文化は、これら特徴を幾つか備えたローマ文明の強固な基盤の上に築かれた。
よって私は、これらの傾向は西欧文化圏のユニークなものであり、民族的基盤が支えていると提唱する。
西欧人がユニークな生物学的適応を果たしているとまでは思わないが、全人類は適応の特徴の程度にそれぞれ違いがあり、ユニークな文化の進化を可能にするには十分な量の違いがあっただけである。
同様に、全ての人間は象徴表現や言語のような特徴的な精神的能力を備えているが、文化に大きな影響を与えるには十分な量の人種間のIQの違いが存在する。恐らく、少なくとも質的な違いをもたらすには十分な量の違いがある。

私は、最近の進化の過程で、ヨーロッパ人はユダヤ民族やその他の中東の人種集団と比べてグループ間自然選択を受けにくかったと提唱する。
これは元々Fritz Lenzが提唱したもので、氷河期の厳しい環境のために北欧人は少人数グループで進化し、社会的孤立の傾向があるというものだ。
この観点は、北欧人がグループ間競争に必要な集産主義メカニズムを持っていないことを示唆するものでは無い。集産主義メカニズムが比較的巧みではない、そして/またはメカニズム発現に、より激しいグループ間紛争が必要だと示唆している。

この観点は生態学の理論と一致する。生態学的に不利な環境下で、適応は他のグループとの競争よりも不利な物理環境に対処することに向けられる。そのような環境下では、拡大血縁ネットワークや高度集産主義グループに対する選択圧力は弱いであろう。
進化論的なエスノセントリズムの概念化は、イングループ競争でのエスノセントリズムの有用さを強調する。したがってエスノセントリズムは物理環境との格闘では全く重要でない。また、そのような環境は巨大なグループを支えられないであろう。

ヨーロッパ人グループは北ユーラシア・北極周辺の文化圏の一部である。この文化圏は、寒冷で生態学的に不利な気候に適応した狩猟採集民に由来する。
このような気候では男性が家族を養う圧力と一夫一妻制に向かう傾向がある。生態が、進化的に重要になる期間に一夫多妻制と大グループを支えなかったからである。
これらの文化では、男性と女性の両系統が双務的に重要になる親族関係が特徴であり、一夫一妻制の条件下で期待される以上に両親の貢献度が対等になると示唆される。
また、拡大血縁は重視されず、結婚は族外婚、つまり親族グループの外に向かって起こる傾向がある。
これらの特徴は全て、ユーラシア南部の旧世界中央部の文化圏の特徴とは反対である。この文化グループにはユダヤ人やその近縁の近東グループがある。

このシナリオは、北欧人が個人主義に向かいやすいことを示唆する。なぜなら彼らは拡大血縁に基づく巨大な部族グループを支えられない生態的環境に長期間住んでいた。
ミトコンドリアDNAによると、ヨーロッパ人の遺伝子の約80%は三~四万年前に中東からヨーロッパに到着した人々に由来する。
これらの集団は氷河期を生き延びた。四万年間北部の寒い曇りの環境で進化したヨーロッパ人は、金髪と青い目だけでなく環境に適応した気質と生活様式の嗜好を発達させたであろう。

これらの人々は農耕種族ではなく、狩猟採集民であった。経済生産のレベルは比較的低いため、狩猟生活では男性は女性を得やすい。
なぜなら、人間の脳に必要なエネルギー量は質の高い食事でのみ満たされるからである。
人間の脳は体重の2%しかないが、全エネルギーの20%を消費し、胎児期には70%を消費する。
これが、一夫一妻の心理的基盤であるつがいの絆(女性が育成し男性が養育する協力体制)を五十万年前から始めさせた。
狩猟には「相当な経験、質の高い教育、長年の集中的な実践」も必要だった。言い換えればこれは高投資の子育てである。
また人間の狩猟は、走力や体力よりも認知能力に左右されるため、知能も必要である。
狩猟のシナリオは複雑かつ常に変化する。どの動物種、個体も、性別・年齢・気候・地形などの内的条件に応じて固有の行動特性を示す。
これらの傾向は全て、単位面積当たりのエネルギーが少ない北方で強い。

歴史的証拠が示すところでは、ヨーロッパ人、特に北西ヨーロッパ人は、強力な中央政府が台頭して自分達の利害が保護された時、比較的早く拡大血縁ネットワークと集産主義の社会構造を捨てた。
中央の権威が台頭すると、世界の普遍的傾向として拡大血縁のネットワークが衰退する。
しかし北西ヨーロッパの場合では、この傾向は遅くとも中世後期までには早くも台頭し、それ以前に既に西欧特有の「単純世帯」は生まれつつあった。
単純世帯は、一夫一妻とその子供たちが基本である。
この世帯のタイプは、フィンランドを除くスカンジナビア・イギリス諸島・ネーデルラント・ドイツ語圏・北フランスで典型的である。
これはユーラシア他地域で典型的な、兄弟とその妻の二組以上の親族カップルから成る共同世帯構造とは対照的である。
産業革命以前の単純世帯は、結婚年齢は遅く、未婚の若者を使用人として働かせて富裕層の家庭の間をぐるぐる回らせることが特徴であった。
共同世帯は、男女とも結婚年齢は早く、出生率は高く、必要に応じて二つ以上の世帯に分離できることが特徴であった。

この単純世帯システムは、個人主義文化の基礎の特徴である。
個人主義の家族は拡大血縁の義務と制約から解放され、世界の他地域で典型的な息苦しい集産主義の社会構造からも解放され、家族自身の利害を追求できるようになった。
個人の同意と夫婦の愛に基づく結婚が早い時期に、親族関係と懸念事項に基づく結婚に取って代わった。

単純世帯の形成に向かうこの比較的強い傾向は、民族性に基づくであろう。
過酷な気候に適応した人々にとって、単純世帯は生態学的に合理的であるだけではない。以前に指摘したように、この傾向はゲルマン民族の間でより強い。
英仏海峡のサンマロとフランス語圏であるスイスのジュネーブを結ぶ「永遠の線」から北東に住むゲルマン民族の区分に対応して、フランス国内に大きな違いが存在することは興味深い発見である。
この地域は18世紀の農業革命以前から、成長する町や都市を養える大規模農業を発展させていた。
それを支えたのは町の熟練職人たちであり、中規模農家たちが形成する大きな階層であった。
彼らは「馬、銅のボウル、ガラスの杯、大抵は靴も持っていた。彼らの子供達は頬がふっくらしており、肩幅は広く、赤ちゃんまで小さな靴を履いていた。これら子供たちは誰も第三世界のくる病の膨れた腹をしていなかった。」
北東部はフランスの工業化と世界貿易の中心になった。

北東部は識字率でも南西部と差があった。19世紀初頭、フランス全体の識字率は約50%に対し、北東部は100%近く、少なくとも17世紀から差が生じていた。
更に身長でも顕著な差があり、18世紀の新兵のサンプルでは北東部の人々の方が2センチ近くも背が高かった。
Ladurieは以下のように指摘した。軍は南西部の背の低い人々をあまり受け入れないため、人口全体で見ればその差はもっと大きいであろう。
家族史家は以下のように指摘した。経済的に独立した核家族への傾向は北部で顕著であり、南東部に移るにつれて共同世帯への傾向が見られる。

これら調査結果は、民族の違いがヨーロッパでの家族形態の地理的違いに寄与していることを強く示唆する。
ゲルマン民族は進化の過程で資源が乏しい北欧で自然選択されたため、個人主義に向かう生物学的傾向が強く、核家族の社会構造へ向かう傾向も強いことが示唆された。
これらグループは拡大血縁グループにあまり魅了されず、拡大血縁ネットワークの衰退に伴って状況が変化すると、単純世帯の構造が素早く出現した。
この単純世帯の構造が比較的容易に採用されたのは、このグループがすでにそのユニークな進化の歴史によって、単純世帯システムに向かう比較的強い心理的素因を持っていたからである。

ゲルマン民族とヨーロッパ他地域の間のシステムの違いは重要ではあるものの、西欧とユーラシア他地域との間の全般的違いほど大きくはない。
単純世帯に向かう傾向と人口動態の変動は北西ヨーロッパで最初に生じたが、比較的早期に全ての西洋諸国に広がった。

西洋のユニークさのもう一つの要素として、単純世帯を特徴とする北西ヨーロッパの農民家庭では、若者を他の家庭の使用人に送り出す慣習があった。
工業化以前のイギリスでは30~40%の若者は他人の家庭に使用人として出向いており、使用人は20世紀まで最大の職業グループであった。
使用人を雇う慣習は、単に外部の人間を導入して誰かのニーズを満たすだけにとどまらない。
人々は時には自分の子供達を使用人に送り出すと共に、同時に縁のない使用人を受け入れた。
使用人になったのは貧しい土地を持たない人々の子供達だけではない。裕福な大農家でさえ子供たちを使用人としてよそに送り出した。
17、18世紀には、人々は結婚後早い段階で、自分の子供達が仕事を手伝えるようになる前に使用人を受け入れ、子供が十分成長して人手が余ったら子供をよその家庭に使用人として送り出した。

これは、深く根付いた文化的慣習が、結果として親族関係に基づかない高水準の互恵関係に結びついたことを示唆する。
この慣習はまた、非親族を世帯の一員に迎え入れるという、相対的なエスノセントリズムの欠如も物語っている。
これらの工業化以前の社会は、拡大血縁を中心に組織されたものでは無く、産業革命と近代世界にあらかじめ適応していたことが容易に理解できる。
ユーラシア他地域では、世帯は親族だけで構成される傾向が強かった。

興味深いことに、古典的中国のような性競争社会では、女性使用人は家長の側室になりやすく、世帯のリソースを直接生殖に回すことができた。
よって西欧モデルでは、裕福な男性はユーラシアの性競争社会よりもはるかに多くの非親族を養っていた。
過酷な気候で生きる狩猟採集社会が大抵、肉などのリソースの共有を目指す非常に巧みな相互扶助のシステムを持つことは興味深い。
工業化以前の西欧に非常に典型的な、非親族同士の相互扶助のシステムも、過酷な北方の気候で長期間進化してきた遺品の一つではないだろうか。

親族社会のしがらみから解放された単純世帯の確立の後には、西洋近代化の他の全てのマーカーが続いた。
個人が国家に対して権利を有する制限された政府、個人の経済的権利に基づく資本主義経済企業、個人主義的な真理の探究としての科学。
個人主義社会は共和制の政治制度と科学的探究の制度を発達させ、グループは最大限の透過性を持ち、個々のニーズを満たせない場合には離反される可能性が高いであろう。

 

個人主義の結婚。結婚の基礎である同意・愛・伴侶関係。

夫婦の同意に基づく単純世帯の台頭は、家族が拡大血縁のしがらみの中にある状況と比較して、結婚相手の個人的な資質がより重要になったことを意味した。
拡大家族が支配する状況では、結婚は一般的に血族婚になり、家族の戦略に左右される。
単純世帯システムでは、結婚相手の個人的特性がより重視される。知能、性格、心理的相性、社会経済的地位などである。

集産主義社会が結婚の際に家系や遺伝的血縁の程度を重視するのに対して、個人主義社会は個人的魅力、例えば恋愛や共通の利害を重視する傾向がある。
ジョン・マネーは、北欧人のグループが結婚の基礎として恋愛を重視する傾向が比較的強いことを指摘した。
Frank Salterは以下のように提唱した。北欧人グループは性行動に関して多くの個人主義的適応を持つ。それには寝取られを防ぐための社会コントロール機構よりむしろ、恋愛や遺伝特性へのより強い傾向がある。
心理的なレベルでは、個人主義の進化論的基盤には、集産主義文化のように家族の戦略や強制によって課されるのではなく、適応的行動が本質的にやりがいがある、恋愛のようなメカニズムが含まれる。
これは、自由に同意できる多かれ少なかれ平等なパートナー間の個人的な求愛と、女性の見合い結婚が成立するまで男性親族に隔離・管理される近東のpurdahの制度の違いである。

中世からパートナー間の愛情と同意に基づく伴侶結婚に向かう傾向が始まり、最終的には高位の貴族の結婚の決定まで左右するようになった。
「大半の社会とは違い、西洋の工業社会では男性と妻の感情の関係が第一優先される」
実際、これは東洋と西洋の階層社会の間で普遍的に異なる点である。
一夫一妻の結婚の基礎としての恋愛の理想化は、古代末期のストア派や19世紀のロマン主義などの西洋の世俗知的運動をも周期的に特徴づけてきた。
他の社会で配偶者間の愛情が存在しないという訳ではない。西洋社会ではそれがより重要であるというだけだ。

中世以来の西洋の結婚の特徴としての、結婚への個人の同意は、結婚相手の個人的な特徴をより重視する個人を生み出すであろう。
その効果の一つは、結婚相手の年齢の平準化である。結婚年齢が比較的平準であることと晩婚化は、西欧結婚システムの特徴である。
女性の結婚年齢は、西欧ではユーラシアやアフリカの他地域よりも高く、これは共同家族が特徴の西欧農民社会を含めても同じ傾向だった。
実際、1550-1775年のイギリスの大規模なサンプルでは、女性の平均結婚年齢は1675年まで26歳前後で変動していたが、1800年には24歳過ぎにまで低下し始めた。

単純世帯がもたらしたもう一つの結果は、愛情とつがいの絆が結婚の基礎になったことである。
結婚は、親族グループ間や親族グループ内での政治同盟、純粋な経済関係、単なる性的競争の側面としては重要性を失い、愛情を含む対人魅力に基づくようになった。
結婚生活での愛情は、単純世帯の台頭と共に文化的な規範となった。
西洋の求愛現象(ユーラシア・アフリカ文化の中でユニークな)は、将来の結婚相手が個人の相性を評価できる期間を提供した。
マルサスの言葉を借りれば、両性に「同類の気質を見出し、結婚生活が幸福より不幸を多く生むことにならないよう、強く持続的な愛着を形成する」機会を与えた。

 

ヨーロッパ人の個人主義と民族意識の低下

ここまでで私が描いたシナリオの要約は以下である。西ヨーロッパ人が比較的エスノセントリックでないのは、拡大血縁が比較的機能しない悪環境の下で長期間自然選択されてきた結果である。
西欧人は拡大血縁の束縛から解放され、原点回帰し、近代化の原動力となった単純世帯を容易に採用した。伴侶結婚、国家に対抗する個人の権利、代議制政府、道徳普遍主義、科学。
その結果、創造性、征服、富の創造などの、現代まで続く並外れた時代が到来した。
しかし、ユダヤ教に関する私の著作のテーマの一つは以下である。個人主義は、凝集的グループ戦略に対して貧弱で無力な戦略である。

西洋では、近代化に必要な前段階として拡大血縁グループが排除されたが、グループ間競争が全面的に排除されたわけでは無い。
19世紀以降、集産主義者で民族意識が強いユダヤ人たちと、西洋個人主義エリートたちとの間で競争が起きた。

人類学的には、ユダヤ人は旧世界中部の文化圏に由来する。
この文化圏は、西洋社会組織の特徴とは正反対である。Table 1に示すように、ユダヤ教は集産主義であり、エスノセントリズム・xenophobia(外国人憎悪)・moral particularism(道徳非普遍主義)に陥りやすい。

Table 1 省略

ユダヤ教に関する私の著作では、個人主義社会は、歴史的にはユダヤ教が代表する凝集的グループの侵略に対して特に脆弱であるというテーマが随所に登場する。
進化経済学者の最近の研究は、個人主義文化と集産主義文化の違いについて、興味深い洞察を提供する。
この研究の重要な面は、個人主義グループ間の協力の進化をモデル化する点にある。
人々は「ワンショットゲーム」で離反者を利他的に罰する。このゲームでは参加者同士は一度しか交流せず、交流相手の評判はゲームを左右できない。
この状況は、参加者は親戚関係のない他人であるため、個人主義文化をモデル化している。
驚くべき発見として、公共財の寄付を高水準で行った被験者は、寄付しない参加者を、罰するコストをわざわざ費やしてまで罰する傾向があった。
そして、罰せられた人は、以降のラウンドの参加者が前のと違うのを知っていたにもかかわらず、戦略変更してより多くの寄付をするようになった。
研究者たちは以下のことを提唱した。個人主義文化圏の人々は、free ridingに対するネガティヴな感情反応を進化させ、自分がコストを払ってでもフリーライダーを罰するようになった。これは”altruistic punishment”(利他的罰)と呼ばれる。

この研究は本質的に、個人主義の人々の間の協力の進化モデルを提供する。
彼らの結果は個人主義グループに最も当てはまる。なぜなら、そのようなグループは拡大血縁グループに基づいていないため、離反がより起きやすい。
高レベルの利他的罰は一般的に、拡大家族を基盤とする親族ベースの社会より、個人主義の狩猟採集社会で多く見られる。
彼らの結果は、ユダヤ人グループや他の高度集産主義グループのような、伝統社会では拡大血縁・既知の親族関係・メンバー間の繰り返しの相互関係に基づくグループには、ほとんど当てはまらない。
そのような状況では主体者は拡大血縁ネットワークに巻き込まれており、もしくはユダヤ人のように民族グループで固まっているため、協力者を知っており、将来の協力への期待も込みである。

よって、ヨーロッパ人は正にこの研究がモデル化した類のグループである。
彼らは拡大家族のメンバーとよりも見知らぬ人との協調性が高いグループであり、マーケットでの関係や個人主義に傾倒しやすい。

これは以下のような魅力的な可能性を示唆する。ヨーロッパ人同士を互いに離反させようとするグループにとっての鍵は、ヨーロッパ人自身が道徳的非難に値することを彼らに納得させることで、ヨーロッパ人同士の間で利他的罰を引き起こさせる点にある。
ヨーロッパ人は根っからの個人主義者であり、他のヨーロッパ人がフリーライダーであり道徳的非難に値すると見なすと、道徳的怒りでそのヨーロッパ人に対して容易に決起する。これは、狩猟採集民として進化した過去に由来する、利他的罰への強い傾向の発現である。
利他的罰の判断を下すのに、相対的な遺伝距離は無関係である。フリーライダーはマーケットにおいて見知らぬ人であり、つまり彼らは利他的罰を行う側とは家族・部族のつながりは無い。

ピューリタンは、利他的罰を求めるこの傾向の典型例として、非常に興味深く影響力のあるヨーロッパ人グループである。
ピューリタンの決定的特徴は、道徳問題としてユートピアの大義を追求する傾向である。彼らは’よりハイレベルの法’に対するユートピア的訴えや、政府の主要目標は道徳にあるという信念に左右されやすい。
ニューイングランドは「人間の信念を完成させ」、「沢山の’isms(主義)’の生みの親」になるのに最も適した肥沃な土地であった。
政治的代替案を、一方を悪魔の化身として、他方を道徳的に必要不可欠なものとして、極端に物事を対照的に考える傾向があった。
ピューリタンの道徳的熱情は、彼らの「深い個人的な敬虔さ」、つまり聖なる生活だけでなく厳格で勤勉な生活を送りたいという彼らの献身への熱意にも見て取れる。

ピューリタンは道徳的正しさを求めて、自分達の遺伝的いとこに対してさえ聖戦を繰り広げた。
これは、拡大血縁に基づくグループよりも、協力的な狩猟採集グループの間で多く見られる利他的罰の一形態であることが示唆される。
例えば、南北戦争につながった政治・経済の複雑さがどうであれ、ヤンキーの奴隷制に対する道徳的非難がレトリックを左右し、アフリカからの奴隷の代理人として英米人の近親者同士が行った大規模な殺戮はピューリタンの中で正当化された。
軍事的には南部連合との戦争は、アメリカ人の生命と財産にこれまでで最大の犠牲を強いた。
ピューリタンの道徳熱と、悪人への厳罰を正当化する傾向は、以下のコメントにも見て取れる。「ニューヨークのHenry Ward Beecher’s Old Plymouth Churchの会衆派牧師は’ドイツ人を絶滅させ…1000万人のドイツ兵の不妊手術と女性の隔離’を呼び掛けるほどだった」。

これらが現代西洋文明に特徴的な、現在見られるような利他的罰である。
一度ヨーロッパ人が自分達自身の民族が道徳的に破産したと確信したら、あらゆる罰の手段を自分達の民族自身に対して用いるであろう。
他のヨーロッパ人を包括的な民族・部族共同体の一部と見なすよりも、同じヨーロッパ人を道徳的非難に値する存在と見なし、利他的罰の標的と見なした。
西洋人にとっては道徳は個人主義的である。フリーライダーが共同体規範を侵害すると、利他的攻撃で罰せられる。

一方で、ユダヤ教のような集産主義文化に由来するグループ戦略は、親族関係やグループの絆が優先されるため、それら策略に対して免疫がある。
彼らの道徳は非普遍主義である。グループの利害のためならどのようなことも正当化する。
これらグループの進化の歴史は、見知らぬ人とではなく親族同士との協力が中心であったため、利他的罰の伝統を持たない。

よって、ヨーロッパ人を破滅させる最良の戦略は、ヨーロッパ人に自身の道徳的破産を確信させることである。
私の著作「The Culture of Critique(批判の文化): An Evolutionary Analysis of Jewish Involvement in Twentieth-Century Intellectual and Political Movements」の主題は、これこそがユダヤ人知的運動がやってきたことだと証明する点にあった。
彼らは、ユダヤ教はヨーロッパ文明よりも道徳的に優れており、ヨーロッパ文明は道徳的に破綻しており、利他的罰の標的に相応しいと訴えてきたのだ。
その結果、ヨーロッパ人は自身の道徳的堕落を一たび確信すれば、利他的罰の発作で自分達自身を破滅させようとする。
道徳的な猛攻が利他的罰の発作を誘発した結果として、西洋の文化が全面的に解体され、最終的に民族の実体のようなものさえ死滅するようなことが起きる。
こうしてユダヤ人知識人たちの間では以下の激しい努力が見られる。ユダヤ教の道徳的優越性と歴史上の不当な被害者の役割のイデオロギーを維持する努力。同時に、西洋の道徳的正当性を猛攻撃する継続的努力。

つまり、個人主義社会は、ユダヤ教のような高度集産主義・グループ最優先の戦略を持つ人々にとって望ましい環境である。
非ヨーロッパ系移民の問題が、米国のみならず西洋世界全体で深刻かつ争点だらけの問題となり、他地域では全くそうなっていないことは重要である。
ヨーロッパ起源の民族だけが、世界の他の民族に門戸を開いて、数百年占有してきた自民族の領土の支配権を失う危険にさらされている。
そして彼らは大部分、移民活動家たちが自身の民族的目標を達成するべく巧みに利用した道徳的反省に、引っ張られ誘導されていた。

西洋社会には個人主義ヒューマニズムの伝統があり、それが移民制限を困難にしている。
例えば19世紀には最高裁は、中国人排斥法を、個人に対してではなくグループに対して立法しているという理由で二度却下している。
移民制限の知的根拠を構築する努力の道には紆余曲折があった。
1920年まで、移民制限論は北西ヨーロッパ人の民族的利害の正当性を根拠としており、人種主義の思想を帯びていた。
これらの発想はいずれも、Israel Zangwill等のユダヤ人移民推進活動家が強調したように、人種・民族グループへの帰属が公的な知的是非を問われない共和制・民主主義社会の政治・道徳・人道イデオロギーとの調和が困難なものであった。
1952年のMcCarran-Walter act immigration actを巡る論争で、これら民族的自己利害の主張が「同化可能性」のイデオロギーに置き換えられたことは、反対派にとっては「racism(人種主義)」の煙幕に過ぎないと受け取られた。
結局この知的伝統は、本書で検討した知的運動の猛攻の結果として倒壊し、ヨーロッパ出身諸民族の民族利害を守る中心の柱も倒壊した。

ユダヤ人知識人の非常に顕著な戦略の一つは、社会の民族基盤が全般的に損なわれるほどの radical individualism(急進的個人主義)とmoral universalism(道徳普遍主義)の促進であった。
言い換えればこれら運動は、西洋社会がすでに個人主義と道徳普遍主義のパラダイムを採用しており、自民族に対する利他的罰を行う傾向が強い点を利用した。
これら運動は、ユダヤ教を強い凝集力のあるグループベースの運動として無傷で残したまま、ヨーロッパ人に残っていたグループ凝集の源泉を弱体化させた。
この戦略の手本はフランクフルト社会研究学派の取り組みである。左翼の政治イデオロギーや精神分析家たちについても同様であろう。
端的に言えば、非ユダヤ人グループ(特にヨーロッパ系)のアイデンティティは精神病の指標とされている。

拡大血縁の衰退と個人主義の台頭にもかかわらず、ヨーロッパ人はより大きな共同体の一員としての意識を完全に放棄してはいなかった。
米国のヨーロッパ人は20世紀に入っても、人種に基づく民族感覚を保ち続けていた。
この民族感覚、人種の一員であるという意識は、ダーウィン主義の学問が支えていた。ダーウィン主義者たちは、人種間の差異を確立された科学的知見と考えただけでなく、白色人種をユニークな才能を持つ人種と考えていた。
しかし、生物学の視点で民族感覚を見出そうとするこの最後の試みは急激に衰退した。The Culture of Critiqueで論じたような知的運動の結果、今日では学界で恐怖の目で見られている。

 

Conclusion

西洋の個人主義社会が、ヨーロッパ起源の人々の正当な利害を守ることができるかどうか、疑わしい。
現在の傾向から言って、個人主義を放棄できないなら、最終的にはヨーロッパ人の遺伝・政治・文化影響力はかなり減少していくと予想できる。
これはパワーの前代未聞の自主放棄である。進化論者は、どこかの段階で人口の大部分がそのような自主放棄に抵抗すると予想する。
抵抗する彼らは恐らく、我々の中のよりエスノセントリックな人々であろう。
皮肉なことにこの抵抗反応は、グループに奉仕する集産主義のイデオロギーと社会組織を採用し、ユダヤ教の一面を模倣するであろう。
ヨーロッパ人の衰退が進むか止まるかに関わらず、グループ進化戦略としてのユダヤ教が西洋社会の針路を左右し続けるであろう。

 

引用・参考文献等は原文を参照

“従来の前提”はユダヤ人の影響力の説明に失敗している: Japanese Translation of “The Default Hypothesis Fails to Explain Jewish Influence”

The “Default Hypothesis” Fails to Explain Jewish Influence 翻訳

“従来の前提”はユダヤ人の影響力の説明に失敗している

Abstract

ユダヤ人運動が最近の数十年で欧米で起きた変動で担った役割について、議論が続いている。

ここでは、ユダヤ民族の影響力に関連すると考えられている複数の問題に答える。ユダヤ民族の影響力と1965年の米国移民法制定のユダヤ民族コミュニティの役割をユダヤ人の高いIQと都市居住で説明する”default hypothesis”(従来の前提)を特に扱う。

その他に、ユダヤ民族のエスノセントリズム、近親婚と人種間結婚の扱い、ディアスポラユダヤ人がイスラエル・米国に対して移民するときの偽善性の問題を含む。

 

WW2後の米国には、影響力のある”ユダヤ人エリート”が出現した。彼らは、移民・公民権・アメリカ文化の世俗化等の幅広い問題に関してユダヤ人活動家やユダヤ人団体の間で事実上の合意を形成できた。

ユダヤ民族による移民推進運動は以下から構成された。

人間にとって人種は全く重要ではないと宣伝する知的運動。

反移民制限主義組織の設立と人員と資金提供。

著名な非ユダヤ人を反移民制限主義の組織に勧誘。

比較的均質な白人多数派への恐怖によって民族構成の現状維持を拒否。

議会や行政で主導権を確保。

 

米国内のWW2後のユダヤ人エリートの台頭と移民政策への影響力

 

Introduction

 

ネイサン・コフナス(2021)は、ケヴィン・マクドナルドの”The Culture of Critique”(1998/2002)等々の学術書や論文に対して、”アンチ-ユダヤ的文脈”だと非難している。

一般的にこの学問分野は以下のことを扱う。20世紀の特定の強力な知的・政治的運動が、ユダヤ民族の自己利益を促進する目的で形成されユダヤ人に主導されたのかどうか。

つまり、特定の運動に参加したユダヤ人の割合が高いかどうか、ユダヤ人全体がエスノセントリックかどうか、ユダヤ人の近親婚と人種間結婚の割合、多くのユダヤ人が特定の運動を意識していたかどうかは、この分野の研究を左右しない。

この論文の焦点は、強力な運動を主導したユダヤ人のユダヤ人アイデンティティ、セム主義批判との戦いをはじめとする彼らのユダヤ民族特有の関心とこれらの運動の原動力(民族的ネットワーク、カリスマ的人物を中心に凝集する能力、名門大学やメディアを通じた連携、組織化されたユダヤ人コミュニティの関与、運動に参加する非ユダヤ人とその動機)の説明にある。

 

ユダヤ民族コミュニティは明らかに一枚岩とは呼べないが、特定の時代には特定の問題に関する実質的な合意の形成もあった。

個々の有力なユダヤ人、もしくは別個の有力なユダヤ人知的運動が、特定のユダヤ人の知的運動を批判する場合もある。例として、1930年代からのスターリン主義左翼とトロツキスト左翼の決裂がある。

米国での親イスラエル・ロビーに反対するMondoweissやJewish Voice for Peaceもユダヤ民族の運動として合理的に検討しうる。

しかし、ユダヤ人運動がイスラエルに批判的な組織を成していることを立証するには、創始者や運動の主導者がユダヤ人としてのアイデンティティを持っているかどうか、自分達の運動がユダヤ民族の利益の促進につながると考えているかどうか、議論の必要がある。

例えばユダヤ人によるイスラエル批判は、米国の対イスラエル政策への強力なユダヤ人の影響を、ユダヤ人が不誠実だという認識(イスラエル建国後、米国のユダヤ人の間では主流の考えだった)を促進していると考えての行動かもしれない。

また、パレスチナ人に対するイスラエルの行動を、長期的にイスラエルの利益を害していると考えての行動かもしれない。(e.g.,Mearsheimer & Walt, 2008; a 2013 servey found 44% of U.S. Jews believe Israeli settlements hurt Israel [Pew Reserch, 2013])。

一方彼らは、イスラエル支援が米国の国益に反するとの見方あるいは道徳的見地から、ユダヤ人国家を維持するユダヤ人の利益に対して反対する可能性もある。

よってこのような研究課題は、コフナス(2021)がユダヤ人の知的・政治的運動への関与を説明するものとしてユダヤ人のIQと都市居住を持ち出す”default hypothesis”(従来の前提)を遥かに超えたものである。

このような運動が、強力なユダヤ民族のアイデンティティを持ちユダヤ民族の利害を追求する個人によって設立され主導されている場合、それは対立する双方がユダヤ人によって支配されているものの、ユダヤ人の利益に対する認識が異なるための対立とも言える。それは例えばクネセトの異なる派閥間のユダヤ人同士の対立に似ていると言える。

 

実際、default hypothesisはCofCで議論している運動や、もう一つのユダヤ人運動として挙げている新保守主義(MacDonald, 2004)とは無関係である。

ある運動において人口の割合に対するユダヤ人の割合が過剰であったとしても、(e.g., in 2005 Jews comprised around 12% of the board of the National Rifle Association(NRA)[Richman, 2005])、必ずしもその運動をユダヤ人運動と見なすべきではない。

CofCで分析した運動は、ユダヤ民族の利害を強く意識するユダヤ人によって設立・主導され(see also MacDonald, 2004, on neoconservatism)、大量の民族間ネットワークと相互引用が運動を支えており、非ユダヤ人はしばしば客寄せパンダの従属的役割に使われていた。

これらの運動は強い影響力を持ち、その中心のユダヤ人は影響力の核心部分であった。

default hypothesisは様々な分野でのユダヤ人の人口割合だけに着目し、3%(ユダヤ人の人口割合)以上のユダヤ人代表がいれば仮説の検証に用いており、CofCで扱った運動の核心を無視している。

 

CofCの方法論は、セム主義批判でない運動におけるユダヤ人の割合を決定しようとするのではなく、特定の時代においてユダヤ人の力がどこに向けられていたのか分析するものであった。

この二つの視点の違いは、以下のように説明できる。

ある問題についての次のシナリオを想像してほしい。一方には主要なユダヤ人活動家団体、ユダヤ人献金者、ユダヤ人活動家がいる。もう一方の側には3%以上のユダヤ人メンバーがいるが、彼らにはユダヤ人献金者やユダヤ人組織、ユダヤ人メディア、ユダヤ人活動家ネットワークの後援がない。

これでは、コフナスのdefault hypothesisの要件を満たすものの、その問題に関するユダヤ人の影響力の分析としては全く不十分である。

CofCは、ユダヤ人コミュニティの力がどこに向けられているか明らかにすることを重視する。

フィリス・グロスクルト(1991:137)は、フロイトの忠実な支持者による秘密委員会におけるアーネスト・ジョーンズが、たとえ彼がユダヤ人女性と結婚していてさえ非ユダヤ人の地位しか得られなかったことに言及している。

「委員会のユダヤ人メンバー全員にとって、ジョーンズは非ユダヤ人でしかなかった。他のメンバーは、彼が決してユダヤ人に所属できないことを何かあるたびに彼に気づかせた。委員会を設立してユダヤ人の一員になりたいジョーンズの夢は幻想に終わった。彼は永遠に、フェレットのような顔をガラスに押し付けて仲間になりたいと懇願するだけの魅力のない小男だった。」(CofC:112-113)

NRA、言論の自由の弁護運動、中絶反対運動、移民制限運動、米国での歴史的・現代的ポピュリズム運動における非ユダヤ人メンバーに対してはこのような発言は到底あり得ない。

または、左翼組織に所属する非ユダヤ人について考えてみよう。

ユダヤ人指導者の割合を引用しただけでは、ユダヤ人の影響力の大きさを適切に示すことはできない。なぜなら、才能があり教育を受け野心も強いユダヤ人急進派の特徴を考慮に入れていないからである。

また、ユダヤ人の支配の大きさを隠すためのお飾り・客寄せパンダとして非ユダヤ人を採用する努力も考慮しなければいけない。(Klehr, 1978:40; Rothman & Lichter, 1982:99)

Lyons(1982:81)は、大量の非ユダヤ人の労働者が「党の民族構成を多様化する」ために採用されたと感じていたという非ユダヤ人の共産主義者の話を引用している。

この情報提供者は、共産主義者が主催する青年会議に非ユダヤ人の代表として参加した自身の経験について以下のように話した。

ほとんどの参加者にとって、事実上全ての講演者がニューヨークユダヤ人であることが次第に明白になってきた。

ニューヨークのアクセントが強い講演者が、「ローワーイーストサイドからの代表」や「ブラウンズビルからの同志」を名乗っていた。

最終的には全国指導部が、きまりの悪さについて話し合うべく休会を宣言した。全国的な学生組織のはずなのに、どうしてニューヨークユダヤ人が完全に支配しているのだろうか?

結局、ニューヨーク代表に対して「よそ者」にも発言の機会を与えるよう頼むことで、彼らは事態の収拾を図った。大会はウィスコンシンで開催された。(CofC:73)

これは著者の個人的経験の話である。

1960年代にウィスコンシン大学で哲学の大学院生だった時代の個人的経験として、特にベトナム戦争に対する反戦運動の初期段階において、新左翼運動内のユダヤ人の割合が高すぎることは誰の目にも明らかだった。

その状況のせいか、1960年代の「Teach-in」で私は講演をするように誘われ、ウィスコンシンの小さな町の元カトリックがどのような経緯でこの運動に転向したのか、話すよう求められるほどだった。

運動の大多数の参加者の出自の地理(東海岸)と民族(ユダヤ民族)は明らかに懸念された。

ユダヤ人が支配する運動のスポークスマンに非ユダヤ人が採用される慣習は、本書の幾つもの章で扱っており、セム主義批判に対する伝統的な戦術でもある。(MacDonald, 1998b/2003:  195-200[see also below  regarding Jewish pro-immigration activism in the 1950s])

Rothman & Lichter(1982: 81)は、ウィスコンシン大学の新左翼の様子を観察したある人物の話を以下のように引用している。

「ウィスコンシン生まれの人々は少数でニューヨークユダヤ人が圧倒的に多いことに衝撃を受けた。ミネソタ大学も同じような状況だ。」

彼の手紙の相手はこう答えた。「あなたの認識通り、マディソンの左翼はニューヨークユダヤ人が支えている。」(CofC: 78, note 13)

 

フランクフルト学派(CofC: Ch.5)の重要人物は全員、強力なユダヤ人のアイデンティティを持っており、イスラエルの神学者・宗教史家ゲルショム・ショーレムは彼らを「ユダヤ人の宗派」と呼んだ。(Marcus & Tar, 1986: 344)

繰り返しになるが、これはNRAの説明には当てはまらない。

フランクフルト学派の主要な知的原動力は、伝統的なマルクス主義の階級闘争をパラダイムとして否定し、白人のエスノセントリスムを中心課題と見なすことであった。

それは、彼らが国家社会主義の台頭と彼らのユダヤ人の扱いを見た後に目指した地位であった。

 

同様に、ニューヨーク知識人についての言及。

 

ニューヨーク知識人達は、そのキャリアを完全にユダヤ人の社会的・知的環境の中で送った。

Rubenfeld(1997: 97)が、クレメント・グリーンバーグがニューヨークのアパートの社交会に招待した人々を並べた時、唯一言及された非ユダヤ人は画家のウィリアム・デ・クーニングだった。

Michael Wrezin(1994: 33)は、Partisan Reviewに寄稿していたトロツキストのDwight MacDonaldを、「パルチザンメンバーの中で卓越したgoy」と述べた。

他の非ユダヤ人として作家のJames T.Farrellがいたが、彼の日記はほとんどユダヤ人の社会環境の記録で占められ、彼の人生の大部分は延々と他のニューヨーク知識人との交流に費やされた。(Cooney, 1986: 248)

実際のところPodhoretz(1967: 246-248)は、ニューヨーク知識人を、パーティに全員同時に到着して自分達のイングループ内で社会を形成する「家族」と呼んでいる。(CofC: 220)

 

ボアズ人類学派に関しては、Gelya Frank(1997: 731)が指摘する通り、「ボアズ人類学派の初期におけるユダヤ人知識人の支配と、その後の世代の人類学者のユダヤ人アイデンティティが、この学問の歴史を語る上で軽視されてきた。」

ボアズとユダヤ人ばかりの彼の弟子たちが、人種の違いを無視したボアズ人類学派の理論を作り上げ、彼らが人類学の学会を支配した。

1919年にはボアズは「現在米国で行われている人類学の仕事の大半」がコロンビア大学の彼の生徒によって成し遂げられたと述べることができた。(in Stocking, 1968: 296)

1926年までに人類学の全ての主要部門はボアズの生徒で占められた。彼らの大部分はユダヤ人であった。

 

ユダヤ人が組織の3%を占めているかどうかだけに着目することは、したがってこれらの運動の適切な分析とは程遠い。

さらに、ユダヤ人の代表性を評価するには、アメリカのユダヤ人と非ユダヤ白人アメリカ人の間の非常に大きな人口の違いを調整する必要がある。

例として、ある組織を指導するのにIQ120が必要だとすると、白人人口(平均IQは100)の9.2%はIQ120以上であり、白人人口約二億人の内の二千万人弱である。

ユダヤ人の人口600万人、平均IQ111(Lynn, 2011)で考えると、29.4%の180万人がIQ120以上となる。

IQ120以上の人口は、非ユダヤ人白人:ユダヤ人で10:1を超える。

より高いカットオフを行う場合、これより比率は低くなるが、かなりの比率であることに変わりはない。(In all examples I am assuming a standard deviation of 15 for both samples)

IQ130以上で比べると7:1以上、IQ140以上で比べると約5:1になる。

つまり平均以上のIQの人口は、非ユダヤ人のアメリカ白人の方がユダヤ系アメリカ人よりも多い。

幾つかの影響力のある知的・政治的運動を検証するCofCの話に関して言えば、IQだけに基づいて無作為に運動の指導者が選ばれる場合には、扱った全ての事例でユダヤ人より非ユダヤ人の方が多くなるはずである。しかし実態は程遠い。

これらの運動は、ユダヤ人の利害に対する認識を促進しようとする、強いユダヤ人アイデンティティを持ったユダヤ人同士の相互補強の核を中心に設立された。新保守主義も同様である。(MacDonald, 2004)

逆にこれらの比率に対して、少なくとも1965年移民法以前の期間には、歴史的ポピュリスト運動(MacDonald, 1998a: Ch.5)や移民制限運動のリーダーとしてのユダヤ人は少なすぎた。(see below)

 

ユダヤ民族アイデンティティとユダヤ民族の利害の追求

 

ユダヤ人の影響力を分析するためには、必然的に運動の主導者たちのユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害の追求を立証する必要がある。

コフナス(2021)はCofCについて言及し、そのような主張は「結局、彼らがユダヤ人でありthe Holocaustを非難したという事実に基づいた嫌味の域を出ない。マクドナルドは、彼らの多くがイスラエルの国境開放を主張したり、ユダヤ人コミュニティの解散を要求したりしてユダヤ人の利害に反対していたことに全く言及していない。」

彼のこの発言は単なる誤りである。

 

ジークムント・フロイト

 

以下は、フロイトのユダヤ民族アイデンティティと精神分析運動に関する資料のサンプルである。(CofC: 111)

 

1931年の手紙でフロイトは自身を「狂信的なユダヤ人」と表現し、他のところでは「ユダヤ教とユダヤ民族の抗しがたい魅力、多くの暗い感情の力、文字で表現できる範囲を超えたその力、内に秘めたユダヤ民族アイデンティティの強烈な意識、ユダヤ人同士に共有される同じ精神構造の秘密」を見つけたと書いた。(in Gay, 1988: 601)

また他の機会ではユダヤ人アイデンティティに関連する「奇妙な秘密の憧れ」について記している。(in Gay, 1988: 601)

Gay(1988: 601)はフロイトが、ユダヤ人アイデンティティは彼自身の系統発生的な遺産[ユダヤ民族の歴史によってラマルク主義的に形成されたものである。単に他の人が彼をユダヤ人と見なしたからではない。]の結果であると信念を持っていた、と解釈する。

フロイトと彼の同僚は、ユダヤ人同士に対しては「人種的な親族」の感覚を、非ユダヤ人に対しては「人種的なよそ者」の感覚を持っていた。(Klein, 1981: 142; see also Gilman, 1993: 12ff)

 

私はこれらのことがフロイトのユダヤ民族アイデンティティを証明していると思う。

フロイトのユダヤ人の利害の感覚に言及すると、彼は「精神分析の土壌でユダヤ人とセム主義批判者の統合」(in Gay, 1988: 231)を達成したいとメシア的な希望を記した。

これは、セム主義批判を終結させるメカニズムとして創始者のフロイトが精神分析を考えていたことを明白に示す引用である。

この手のメシアニックな思想は、世紀末ウィーンにおいて「国家を超えた、民族を超えた世界」(Klein, 1981: 29)を実現しようとするユダヤ人知識人の間では一般的であった。

これらの知識人は「ユダヤ人の自己概念を更新する観点から、頻繁に彼らのhumanitarianismをアピールした。彼らは、20世紀における人類の運命はユダヤ人に握られているとの信念を共有していた。」(Ibid.:31)

 

コフナス(2021)は、フロイトが1929年にエルサレムで発生したユダヤ人の暴動を支持する書簡に署名しなかったことを挙げ、フロイトが民族的動機を持っていなかったと主張している。

しかし、この時代にはディアスポラユダヤ人の間でシオニズムは多数派意見では無く、また国家への忠誠心の問題により西洋でのシオニズム実行は「リスクのある戦略」でもありえた。(MacDonald, 2002c, 2003, 2018b)

あるいはフロイトは、シオニズム運動の大義は承認してはいたものの戦術に反対していたのかもしれない。いずれにせよ、「少なくとも1930年までにフロイトはシオニズムにも強く共感するようになった。息子のエルンストもシオニストであり、フロイトの子供達は誰一人キリスト教に改宗したり非ユダヤ人と結婚しなかった。」(CofC: 111)

そして最後に、シオニストのアイデンティティは、アメリカのユダヤ人が増え続けていることからも分かる通り、ユダヤ人のアイデンティティのリトマス試験ではないことは間違いない。

 

カール・マルクス

 

コフナス(2018)はマルクスについて、マルクスがanti-Semite(セム主義批判者)であったと主張し、(「マルクスは…きわめてアンチ-ユダヤ人の見解を持っていた」)そしてマクドナルドはマルクスのユダヤ人アイデンティティを巡る論争に気づいていなかったと仄めかしている。

このようにコフナスは、マルクスをanti-Semiteと見なす認識に対してCofCで展開した以下の議論を見落としている。

「マルクス自身は民族的にユダヤ人である両親の間に生まれたにもかかわらず、多くの人にanti-Semiteと見なされてきた。彼のユダヤ教批判(“On the Jewish question”[Marx, 1843/1978])は、ユダヤ教を根本的にエゴイスティックな金銭の追求として概念化した。ユダヤ教を、人間と自然を販売品と見なして世界支配を達成したと見なした。マルクスはユダヤ教を、未来の共産主義社会では終わりを迎えるであろう、人間の強欲さの抽象的な公理と見ていた。」(CofC: 53-54)

脚注ではこのトピックに関する学術的な議論を簡潔に説明している。「マルクスのユダヤ人気質は継続的に論点になっている(see Carlebach, 1978: 310ff)。マルクスは生涯を通じて実践的なユダヤ教徒やユダヤ民族の祖先をもつ人々と交流した。更に言えば、彼は他の人々からユダヤ人と見なされていて、敵対者達からは度々ユダヤ人気質を指摘された(see also Meyer 1989: 36)。…このような外部から強いられたユダヤ人アイデンティティはユダヤ人急進派の間では一般的かもしれない。またそれは、マルクスがユダヤ人としての自覚を保持し続けていたことも間違いなく暗示している。…欺瞞も関係しているかもしれない。Carlebach(1978: 377)は、マルクスが自分のユダヤ人気質を負債と考えていた可能性を示唆しており、Otto Rühle (1929: 377)は、マルクスが自分の著作への批判を防ぐべく、入念に自分自身のユダヤ人気質の否定を行ったことを示唆している。」

 

より最近では、Schlomo Avineri(2019: 48)の見解は後者のコメントと一致しており、マルクスがanti-Semiteであったというコフナスの主張に更なる疑念を投げかけている。

Avineriは、マルクスのアンチ-ユダヤ的発言の最も妥当な説明として、彼が強くユダヤ人解放を支持しており、ユダヤ人に法的平等を与える前にクリスチャンに改宗させよというブルーノ・バウアーの訴えに反対だったからだと論じた。

マルクスは、「彼自身のユダヤ人の出自が理由でユダヤ人の権利を支持していると非難されるのを避けるべく、一生懸命にユダヤ民族・ユダヤ教から距離を取った。」これは少なくとも、ユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害への心配を示唆している。

 

しかし、マルクスのユダヤ教に対する態度の問題全体は、コフナスが批判しようとしているCofC(Ch. 3)のトピックである1970年までの20世紀の左翼政治運動でのユダヤ人の役割を評価する上では重要な問題ではない。マルクスは1883年に亡くなっている。

 

CofCでの他の人物のユダヤ人アイデンティティとユダヤ民族としての利害追求の感覚に関する議論でのコフナスの異議について、更なる議論はMacDonald(2018a, 2018b)にある。

 

Core Issues: 1 エスノセントリズムと人種内・人種間結婚

 

コフナス(2021)には三つの中心的な主張がある。第一に彼は以下の誤った仮定を繰り返している。彼は「アンチ-ユダヤ人の文脈」はユダヤ人が一般的にエスノセントリックだと証明することに依存していると主張し、それに対する彼の反論は、現在の西洋社会での人種間結婚率である。

しかし現代の人種間結婚率は、CofCの主題(それより数十年前に影響力の強い知的・政治的運動の中にいたユダヤ人活動家が強いユダヤ人アイデンティティを持ち、その活動をanti-Semitismとの戦いに利するかどうかといったユダヤ人グループの利害で捉えていたかどうか)とは無関係である。

例えば、CofCで扱った全ての運動の主要なテーマは、エスノセントリズムの側面としてのユダヤ人の民族ネットワークが運動の成否の鍵になった点にある。

これは、ユダヤ人一般がエスノセントリックであるという主張とは全く関係がない。論題に挙がっているユダヤ人がその民族ネットワークによってエスノセントリックだと示されたに過ぎない。

同様にして、名誉毀損防止同盟(ADL)やアメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)のような主要ユダヤ人組織の現代の影響力を見極めようとするならば、主要人物のユダヤ人アイデンティティやユダヤ人の民族利害の追求の感覚を論証することになるであろう。

これらの人々の人種間結婚率や先祖に非ユダヤ人を持つかどうかは、興味深くはあるが分析にとっては重要にはならない。

同じように、ADLやAIPACの目標に反対するユダヤ人団体を調べ、その影響力の優位がどこにあるか検証することもできる。

 

現代の米国のユダヤ人コミュニティでの人種間結婚率は確かに高い。しかしユダヤ人を非ランダムの方法で互いに結びつけるユダヤ人の共同体構造を別としても、人口全体に対してユダヤ人人口は小さい(1.9%)のでユダヤ人同士が出会う確率が極めて低い(Dutton, 2020)ことを考えると、それはランダムとは言い難い。

最も、それ自体がユダヤ人のエスノセントリズムの究極的結果であるが。(e.g., programs like Birthright Israel and J-Date which are committed to promoting endogamous Jewish marriage)

実際のところ、米国内の混血でない純血ユダヤ人は「米国内の他のグループと比較して圧倒的に人種内結婚を好む」(Philips, 2013: 103)。

イングループへの選好が確認できないオッズ比を1とした場合、米国での純血ユダヤ人がユダヤ人と結婚するオッズ比は2085、混血ユダヤ人のオッズ比は50である。

比較して、白人ヒスパニックのイングループ選好のオッズ比は596、黒人は3525である。

さらに重要なことに、CofCの対象期間である1900-1970、アメリカの文化と人口動態が根本的に変えられた期間において、人種間結婚はほとんど無かった。

 

西欧文化は世界の他の文化と比較してユニークな個人主義であり(Henrich, 2020; MacDonald, 2019)、西欧文化は一般に古代社会から一貫して他のグループと同化する傾向が強かった(MacDonald, 2019)。一方、ユダヤ人グループは集団主義の強い社会構造を持ち、歴史的に他のグループへの同化に抵抗してきた(MacDonald, 1994/2002)。

ユダヤ人の歴史の大半を通じてユダヤ人の非ユダヤ人との結婚はほとんど無かったが、啓蒙時代以後の個人主義的な西欧社会を舵取りするユダヤ人達は、非ユダヤ人との接触の機会が自然と増えた(大学や職場で)。

その際のエスノセントリズムは、結婚相手を選ぶ際に重視される他の傾向の後回しになり、重要性が落ちただろう。

結婚は、身体的魅力、社会的地位、性格、共通の関心などの多くの変数に影響を受ける。

特に世俗的なユダヤ人の場合、非ユダヤ人と出会い交流する可能性が高まる。またこれは、正統派ユダヤ人やハシディック・ユダヤ人が独自の教育システムを守っている理由でもある。

米国の正統派ユダヤ人が非ユダヤ人の配偶者を持つ割合はわずか2%しかない。(Pew Research, 2016)

同様にして、個人主義的な西欧社会では、強いイスラエル・アイデンティティを持つユダヤ人の割合が減少している。(as assessed by age cohort)(Nortley, 2021)

 

この分野での研究に対するコフナスの批判に対し以前コメントしたように(MacDonald, 2018a)、20世紀初頭の数十年間のZionismの主要目的は、20世紀初頭にドイツで進みつつあった非ユダヤ人との結婚と同化の傾向を食い止めることだった(MacDonald, 1998b/2003: Ch. 5)。

この作戦はイスラエルでは実際に成功を収めている(e.g., Pew Research, 2016)。

さらに、米国のユダヤ人対象の2013年の調査では、60%以上のユダヤ人-非ユダヤ人カップルが子どものアイデンティティをユダヤ人として育てており、94%のユダヤ人はユダヤ人であることを誇りに思うと答えた(Pew Research, 2013)。

これもエスノセントリズムのマーカーである。私の知る限り、米国のユダヤ人活動家のコミュニティは圧倒的に民族的ユダヤ人である。

 

場合によっては、非ユダヤ人との結婚や改宗がユダヤ人コミュニティの利益になる。ユダヤ人コミュニティとの強い結束を維持しながら非ユダヤ人の名家と結婚することには利点がある。

例えば正統派ユダヤ人であるジャレッド・クシュナーはイヴァンカ・トランプと結婚し、クシュナーはトランプ政権の対イスラエル政策(イスラエルとバーレーンの国交正常化など)や他の領域に影響力を発揮できた(Crowley & Halbfinger, 2020)。

もう一つの例は、強いアイデンティティを持つ正統派ユダヤ人でpro-Israelのユダヤ人であるサーシャ・バロン・コーエンが、民族的にヨーロッパ人であるアイラ・フィッシャーと結婚したことである。

フィッシャーはイヴァンカ・トランプと同様に完全なユダヤ教徒への改宗を経ており、バロン・コーエンはADLで活動家の役割を続けている(ADL, 2019)。

 

これらの例は、人種間結婚がエスノセントリズムの欠如から生じるものとは限らず、人種間結婚は強いユダヤ人アイデンティティの維持や活動家人生と両立できることを示している。

現代の西欧社会での比較的高い人種間結婚率、低い出生率、様々なレベルでのユダヤ人アイデンティティは、非ユダヤ人家族、特に名家の非ユダヤ人家族との結束・周囲の文化との架け橋をもたらす。それはユダヤ人の利益に役立つ。(e.g., Lieberman & Weinfeld, 1978)

保守派と正統派ユダヤ人の間には互いに人種間結婚を圧倒的に拒絶しているため、このことは特によく当てはまる。

 

コフナスは、ユダヤ人の人種間結婚がユダヤ人にもたらす利益を指摘することと「アンチ-ユダヤの文脈」の重要な面とが何らかの形で矛盾すると信じている。

しかし、影響力のある知的・政治的運動へのユダヤ人の関与を評価する上で、人種間結婚が利益なのか損失なのかは重要ではない。

このトピックは、「アンチ-ユダヤの文脈」の一部であると主張される重要な著作(e.g., CofC)では全く論じていない。

繰り返すが、同化力のある西欧文化は人々を様々な方向に引き寄せる。それがもたらす結婚の幾つかがユダヤ人コミュニティに利益をもたらす場合がある。

そしていずれにせよ、ユダヤ人活動家コミュニティはその民族的地位や人種間結婚に関わらず、米国内での影響力が弱まったという兆候は無い。

重要なのは、主要人物のユダヤ人アイデンティティと本人が認識するところのユダヤ人の利害の追求を評価し、その運動の影響力を調べることである。

 

さらに、現代のユダヤ人の人種間結婚率は、コフナス(2018, 2021)が批判を試みている著作の主題を形成する1970年までの臨界期における、米国の文化や人口動態にユダヤ人運動が与えた影響を打ち消せるものでは無い。そしてその間のユダヤ人の人種間結婚は今より遥かに少なかった。

 

Core Issues: 2 ユダヤ人の偽善?

 

コフナス(2021)は、CofCは「リベラルなユダヤ人は非ユダヤ人・非ユダヤ人国家に対しては多文化主義を偽善的に提唱し、ユダヤ人・イスラエルに対しては人種の純粋さと分離主義を提唱する」と主張しているが、これは現代の改革派指導者の一部の声明とは矛盾すると訴えている。

1970年頃までの20世紀のユダヤ人の知的・政治的運動を分析したCofCのような著作を評価する上では、それは全く重要ではない。

 

さらに、結果がどうなっても普遍的な原則を貫くのではなく、文脈に応じて態度を調整するのは自然なことである。

ADLは最近、アメリカのメディア・パーソナリティのタッカー・カールソンがアメリカの有権者が移民にreplaceされつつあると言及したことを非難した。

「非白人の台頭に白人が脅かされるというwhite-supremacist(白人主義者)の教義であり、アンチ-セム主義で、レイシストで、有害だ」(see Moore, 2021)。

これに対してカールソンは、米国のヨーロッパ系先住民の人口の置き換えに対するADLの態度とイスラエル・パレスチナ紛争の一国家解決に対する態度との違いを強調した。

イスラエルに対しては、ADLは以下の合理的な声明を出している。

 

一国家解決案は現在の現実と歴史的な敵意を考えると実行不可能である。

歴史的に見てパレスチナ人の出生率は高く、パレスチナ難民とその子孫が世界中から流入するだろう。ユダヤ人はすぐに二民族国家の少数民族側になり、平等な代表権と保護が形骸化していくだろう。この状況下でユダヤ人は政治的・物理的に脆弱になる。

イスラエルが自主的に自国の主権と民族アイデンティティを転覆し、かつて自分達の縄張りであった場所で脆弱な少数派に転落するのを待つのは、非現実的であり容認できない。(ADL, n.d)

 

米国の人口動態の変動への懸念をADLが「antisemitic、レイシスト、有害」と呼んだことに関して、米国での人種間紛争の長い歴史、近年の人種間暴力の急増、メディアや教育システムを通じて白人アメリカ人を本質的に病理化するCritical Race Theoryの近年の隆盛(DiAngelo, 2018; Kendi, 2019)を考えると、白人が少数派に転落すれば白人がますます脆弱になっていくと考えられる。

 

コフナスは自身の発言の対象を現代の米国の改革派指導者に限定している。その意見は改革派コミュニティ全体の意見の反映とは限らず、ましてや米国のユダヤ人全体の合意とは限らない。

更に言えば、改革派ユダヤ人はイスラエルのユダヤ人人口の3%にすぎず(Lipka, 2016)(米国ユダヤ人の35%が改革派であるのと比較して[Pew Reseach, 2016])、最近ようやく最初の議員をクネセトに持てたことを考えると、イスラエルの政策に彼らはほとんど影響を与えない。

イスラエルの左翼が存在感を失う一方で(Weiss, 2021)、人種主義者・カハニスト・露骨なアンチ-アラブ主義の政党であるOtzma Yahuditもクネセトで一議席を持っている。

イスラエルでの改革派ユダヤ人の割合の低さは、改革派が本質的にはディアスポラ運動であり、西欧の同化環境に向けられた、なおかつ恐らくそれを反射したものであることを示唆している。

 

米国のユダヤ人とイスラエルのユダヤ人のそれぞれに移民に関して尋ねた調査データは、態度の二重性を示している。

Raijiman et al.(2021)は2011年にイスラエルのユダヤ人をサンプリングし、ユダヤ民族の移民に反対する者はわずか0.2%であったが、62%が非ユダヤ人の移民に反対し、41%が亡命者に反対していることを発見した。

「ユダヤ人移民への支持は、これらの人々を”ディアスポラから帰還した”移民と見なし、一方ではシオニズムの理念を実現させる者、もう一方ではイスラエルでのユダヤ民族の数的有利を確保する者と考えることによる。逆に、非ユダヤ人の移民と亡命者への支持は低かった。彼らは恐らく国家のユダヤ的性格への挑戦者と見なされている。」

 

イスラエルへの非ユダヤ人移民に対するアメリカユダヤ人の態度の調査やその逆の調査については知らないが、アメリカユダヤ人の考えにはイスラエルがユダヤ民族の国家だという概念が強力に根付いている。彼らが、非ユダヤ人の移民を大量に許した場合にもイスラエルがユダヤ人国家であり続けると考えるとは想像しがたい。

2018年の調査ではアメリカユダヤ人の80%が米国への移民が多いまま(34%)、または更なる増加(46%)を望んでいる(AJCommittee)。(米国への合法移民は年間約110万人であり、これは言い逃れようも無い多民族国家である)

更にアメリカユダヤ人は、いかなる民族の国外追放に対しても断固反対するはずなのだが、イスラエルのユダヤ人の半数はアラブ人の強制追放もしくは国外移送を主張している(Pew Research, 2016)。

これは少なくとも、移民や多文化主義に対するユダヤ人の態度はイスラエルと米国のどちらに住むかに依拠することを示す。

 

Core Issues: 3 米国の移民政策の形成でのユダヤ人の役割

 

一般的なCofCの主題は、WW2後の新しい左派の傾向を持つ実質的にユダヤ人から成るエリート達の台頭であり、その拠点はメディア・学界・政治文化である。

後者はメディア・学界の合意だけでなく、ユダヤ人の富の増大からの政治献金の影響も受けている。

ホワイトアングロサクソン・プロテスタント(WASP)のエリートの崩壊は、Eric Kaufmann(2014)の「アングロ・アメリカの興亡」(critiqued by MacDonald, 2015-16)のテーマであり、Hollinger(1996: 4)は1930年代から60年代の「ユダヤ人によるアメリカの学術界の民族・宗教的な人口動態の変容」、また米国社会の世俗化の傾向やコスモポリタニズムの思想の推進におけるユダヤ人の影響を指摘した。

Hollinger(1996: 160)は、「40年代の文化戦争での一つの勢力は、世俗的で、ますますユダヤ的で、明白に左派の知識人で、主に哲学と社会科学のコミュニティの人々だった」と指摘した。

LipsetとLadd(1971)は1969年から、六万人の学者を調査したデータを用いて、60年代はエリート大学でユダヤ人学者が台頭する決定的な時期であり、彼らが一般的に非ユダヤ人の教授より左翼傾向を持っていたことを示した。

ユダヤ人は一般的には教員の12%を占めていたものの、アイビーリーグ大学の若手教員(50歳未満)の25%を占めており、この比率はそれ以前の数十年と比べて遥かに高かった。

更に、自分自身をリベラルまたは左翼と考えるユダヤ人学者は74.5%おり、非ユダヤ人学者での40%未満と比べて著しく高かった。

60年代に学生の急進的政治活動を認めていたユダヤ人学者は59.1%と過半数であり、それに対し非ユダヤ人学者では40%程度であった。

またユダヤ人学者は、より多くのマイノリティの学者と学生を採用するための基準の緩和に賛成する傾向が強かった。

 

ユダヤ人学者は非ユダヤ人学者よりも出版数が遥かに多く、つまり影響力が大きい。

学術界はトップダウン型の組織であるので、これは重要である。トップの人々が次世代の学者を育成し、新しい学者の採用を取り締まるからである(MacDonald, 2010)。

例えばHerskovits(1953: 23)は、「コロンビア大学でのフランツ・ボアズの教授職の40年間は、彼の教育・育成に継続性を与えた。最終的には彼は、米国の人類学の重要な専門家集団の中核を構成し、米国の主要な人類学部門の殆どを担うことになる学生の大部分を育成することが可能になった。その教え子たちは再び同じように学生を育て、教師が学んだ伝統が受け継がれた…。」

CofCは本質的に、この新しい左派の学術的・知的エリートの影響力のある幾つかの構成要素の詳細を提供する。

 

この新しいエリートの台頭は、より広い文脈での議論なしに移民政策のような一つの問題だけを分析することの無意味さを示唆する。

むしろそれは、アフリカ系アメリカ人の公民権や女性の権利、公共の場での宗教(Hollingerの「アメリカ社会の世俗化」)、白人の人種的アイデンティティと利害の合法性、コスモポリタニズム、中東での外交政策、その他諸々の公共政策での死活問題が、この新しいエリートの態度と関心の影響を受けることこそを示唆している。

よって、65年の移民法や公民権運動は、学術界及びメディアの人種に対する態度と切り離して議論することはできない。

CofCは人種に対する学術的見解の著しい転換でのユダヤ人知識人の役割(Ch. 2)と1965年の移民に関する議会での討論でどれほどボアズ人類学派イデオロギーが支配的になっていたか(Ch. 7)を論じている。

以下に述べるように、この時期にはこの人種イデオロギーがメディアで支配的になっていた。(Joyce, 2019)

この時期にはテレビ局とハリウッドスタジオの全てはユダヤ人が所有しており、人種に基づく移民制限論者の言論が著名雑誌に載り大手出版社が出版していた20年代からの大きな転換を示している。

更に、ユダヤ人の影響力は54年から68年の決定的な時期(see below)の公民権運動やアメリカ文化の世俗化の主要な力であった。

「ユダヤ人公民権団体は戦後の米国の政教分離に関する立法や政策で歴史的な役割を果たした」(Ivers, 1995: 2)。

 

(もし真実であればだが)コフナスが「アンチ-ユダヤの文脈」と呼ぶものの重要な側面を深刻に危険に晒すであろう唯一の主張は、米国の移民政策の変化でのユダヤ人の役割に関する話である。

コフナスが65年移民法についてのHugh Davis Graham(2003)のコメントのより広い文脈を持ち出すのは正当であるが、上で述べ以下でも詳述する通り、この法律のより広い文脈はユダヤ人運動の他の側面から決定的な影響を受けている。

更に、結論はGraham(2003: 57)の「移民法改正の内容で最も重要だったものは、20年代にまで遡るこの運動の中核の推進力であり、人種や民族の割り当てに長い間反対運動を続けてきたユダヤ人組織だった。

…ニューヨークのユダヤ人政治指導者、特に知事だったハーバート・リーマンは、40年代に先駆的に州の差別禁止法を成立させた。重要なこととして、[24年の北西ヨーロッパからの移民を優先する法律の出身国規定のために]これらの法令や行政命令が、人種・肌の色・宗教に’出身国’を加えて、これらを差別の根拠にすることを禁止した点にあった。」

同様にOtis Graham(2004)はこう述べた。

「新しく、より’リベラル化された’政策体制にするよう圧力をかける連合体の政治的中核は、民族的ロビイストで構成されていた。…1924年の移民制限法以前に移民した民族の代弁者を名乗り、その最も有力だった者たちは中東欧から来たユダヤ人であり、彼らは大陸でのファシズムとanti-semitismの台頭を深く懸念しており、避難所に永遠の関心を持っていた(see also Graham, 2004: 67)」。

 

したがって、マクドナルドの移民の扱い(CofC: Ch. 7)に対する批判は、Graham(2003)が論じたようなより広い文脈に対しユダヤ人が重要な影響を及ぼしたかどうかを考慮しなければならない。

コフナスは人種に対する学術界の見解の大転換におけるユダヤ人知識人の役割(CofC: Ch. 2)や、議会での討論でボアズ人類学派イデオロギーがいかに支配的になったか(CofC: 253-254)を無視している。

彼はまた、1890年代から1965年までのユダヤ人の移民推進運動の資料(CofC: 259-293)を無視しており、50年代から60年代の公民権運動へのユダヤ人の関与についてのマクドナルドの要約(CofC: 255-258)も無視している。

 

1924年の移民制限法に至るまでのユダヤ人の活動に関するCofCの資料は、最近Daniel Okrent(2019)によって裏付けされた。

古いドイツ系ユダヤ人コミュニティは、より洗練されていないユダヤ人移民に対して嫌悪感を示しながらも、東欧や南欧からの移民が国民一般からの人気を失った後もずっと米国のオープンな移民制度を維持するのを助けた。

移民制限派のリーダーであるヘンリー・カボット・ロッジ上院議員は、グローバー・クリーブランドの大統領二期目の時代(1893-97)、友人に手紙を書き「昨日クリーブランドに影響が及んだ。次に会った時に説明するが、それは克服するのが非常に困難だった」。

他の人に対して彼は「これらの勢力は企業でも政治派閥でもないと言った」。(in Okrent, 2019: 72)

オクレントは、彼らが「まず間違いなく米国の金満で影響力のあるドイツ系ユダヤ人コミュニティのメンバーだろう」(73)と述べ、例えばジェイコブ・シフは「グローバー・クリーブランドに識字テスト実施に対する拒否権を発動するように個人的に嘆願した」(Ibid.)と指摘した。(出身国に注目が向く前に、移民制限論者は移民制限の手段として識字テストを推進した)

 

25年間にわたってロッジとIRL[移民制限リーグ]、彼らの同盟者たちは富裕なドイツ系ユダヤ人が支配する幾つもの影響力の強い組織と戦うことを強いられた。…彼らは集団となって手ごわく粘り強い反対勢力を形成していた。

1890年代の、組織化され資金力があり人脈もあり移民のために働くユダヤ人達の出現により、ロッジと仲間たちはボストンの名家のエリート達がこれまで遭ったことも無いような強力な反対勢力に直面した。(Okrent, 2019: 72, 73)

 

この影響のせいか、世論は1905年までには移民反対になったにもかかわらず、1920年代まで移民は制限されないままだった。(Neuringer, 1971: 83)

コーヘン(1972: 40ff)が物語るように、20世紀初頭に移民制限に反対したAJCommitteeの努力は、当時のアメリカユダヤ人の上層のごくわずかの層だけで構成されていたにもかかわらずユダヤ人組織が公共政策に影響力を有していたことの、驚くべき実例である。

1907年の移民法の影響を受けた全てのグループの中で、ユダヤ人は移民可能人数の点では最も得るものが少なかったものの、法案を作成する際に遥かに大きな役割を担った(Cohen, 1972: 41)。

非ユダヤ人の移民グループは一つに結束できておらず組織化も貧弱であったため、重要な推進者にはならなかった。(Neuringer, 1971: 83)

1917年の比較的効果の薄い制限主義の法案までのその後の期間、制限主義者が再び議会で努力を重ねた時には「ユダヤ人だけが立ち上がった」(Cohen, 1972: 49)。

ユダヤ人の影響力がWW2後よりはまだはるかに小さく、60年代の移民論争の時代(既にWASPエリートが実質的ユダヤ人エリートに取って代わられた時代)よりはまだ著しく小さかったにも関わらず、このような影響力を発揮していたことは注目に値する。

 

Graham(2003)が65年移民法成立の文脈の一部として言及した公民権運動に関しては、ユダヤ人の活動が決定的であった。

WW2後、AJCommitteeやAJCongress、ADLなどのあらゆるユダヤ系の市民組織がアフリカ系アメリカ人問題に関与していた。

「専門的な訓練を受けた人材、設備が充実したオフィス、広報のノウハウによって彼らは変革をもたらすためのリソースを持っていた」(Friedman, 1995: 135)。

60年代にはユダヤ人は公民権運動のグループの資金の2/3から3/4を負担した(Kaufman, 1997: 110)。

「ユダヤ人の支援は法的にも資金的にも公民権運動に一連の法的勝利をもたらした。…’これらの法律の多くは実際にはユダヤ人機関の事務所でユダヤ人スタッフが書き、ユダヤ人議員が法案提出し、ユダヤ人有権者によって採決の圧力がかけられた’というAJCongressの法律家の主張には殆ど誇張は無い」(Levering-Lewis, 1984: 94)(CofC: 256)。

 

この努力は住宅事情・教育・公共雇用に至るまでの偏見に対する多面的な法的挑戦であった。州および国の立法機関における法律の立案とその成立を確保する努力、メディアから発せられるメッセージを形成する努力[see also Joyce, 2019]、学生と教師に向けた教育プログラム、学術界の知的主流を再構築する知的努力があった。

移民政策へのユダヤ人の関与や近現代のユダヤ人の政治的・知的活動の多くの事例と同じく[CofC: Ch. 6]、インターグループ関係運動はしばしばユダヤ人の明白な関与を目立たせないよう作用した。(e.g., Svonkin, 1997: 45, 51, 65, 71-72)(CofC: 257)。

 

反制限主義の最終的な勝利に特に関係があるのが、24年と52年の移民法の出身国規定に反対する1945年から65年のユダヤ人の活動に関する一節、1965年移民法の背景を形成したユダヤ人の活動に関するCofCの資料である(CofC: 273-292)。

この資料は、基本的にはユダヤ人の活動が65年移民法のより広い背景を形成したことを非常に明確に示す。ここではこの資料を局所的に整理し、より最近の研究でより詳しく述べられていることを簡単に要約する。

 

人種に関する知的な見解の形成

 

ユダヤ人とユダヤ人組織は、人間社会における人種的・民族的違いの重要性を否定するための知的努力を主導した。

65年移民法の知的背景を創造したユダヤ人の役割は、20年代以降米国の人類学界を支配したボアズ人類学派の運動が、人種に関する学術界の見解の形成に成功したことに依拠していた(CofC: Ch. 2; see above)。

例として「真意と狙いの両方において[ボアズ人類学派は]、明白にantiracistの科学であった。」(Frank, 1997: 741)

 

John Higham(1984)が指摘したとおり、このような見解の優勢は移民制限主義を最終的に打ち負かす上で重要な要素だった。

65年の討論について、NYタイムズの記者は「議員達は人種主義者として見られるのを望んでいない」(in Graham, 2004: 92)と述べた。

nativismは「知的な敬意を剥奪された」(Bennett, 1995: 285)。よって45年から65年までの移民論争で、人種に関するボアズ人類学派の考えが支配的であったことは驚くことではない。

 

例として51年の議会への声明の中で、AJCongressはこう述べた。「我々の中で最も偏見的な人物であっても、知能・道徳性・性格が地理や出身地と無関係であるという科学の発見を受け入れなければならない。重力の法則と同様に無条件に。」

声明は更にこの主題に関するボアズの人気の著作の引用と、ボアズの弟子のプリンストン大学教授Ashley Montagu(恐らくこの時代に最も人種という概念に公然と敵対した人物)の著作の引用へと続く。

Montaguは元の名をイスラエル・エレンベルグと言い、WW2の直後[7000万人から8500万人が死亡]、人間は生来攻撃的では無く協力的であるという理論を主張し、人間の間には普遍的な兄弟愛が存在すると主張した。(see Shipman, 1994, 159ff)

1952年にはボアズのもう一人の弟子マーガレット・ミードはPresident’s Commission on Immigration and Naturalization(PCIN)(1953: 92)に先立って「あらゆる人間集団のあらゆる人類が全く同等の潜在能力を持つ。…我々の人類学の現在の最良の証拠は、どの人間集団のもほぼ同じ潜在能力の分布を持つことを示唆している」と証言した。

別の立会人は、アメリカ人類学会執行委員会が「全ての科学的証拠が、全ての人々が生得的に我々の文明を獲得・適応可能だと示している。」という提案に全会一致で賛同したと述べた(PCIN, 1953: 93)。

 

65年までには、ジェイコブ・ジャヴィッツ上院議員(Congressional Record 111, 1965: 24469)は移民法案の審議中に堂々と「良心の命令と社会学者が教えてくれる教訓の双方が、移民法の出身国規定は間違っており、肌の色で人の優劣を話すことには何の合理的根拠もないと訴えている」と述べた。

知的革命とその公共政策への適用は完了した(CofC: 253-254)。

 

更に、以下で詳細に述べるが、著名なハーバード大学の歴史家・社会的知識人であるオスカー・ハンドリンの反制限主義の戦略には、社会科学者の見解を「米国への移民希望者の’人種’を区別することは可能であり、かつ必要」(Handlin, 1952: 4)という趣旨に変えることが含まれていた。

‘人種’に恐ろしい引用符を使用することはボアズ人類学派の人種観を反映しており、白人のエスノセントリズム(フランクフルト学派の主要目標[CofC: Ch. 5])の知的な根拠を傷つけるものである。

Petersen(1955)は「コメンタリー」(AJCommittee発行)の記事の中で、ユダヤ人が中心の社会科学者のグループの作品から引用した。

まず、Horace Kallen(1915, 1924)が多文化・多元的社会を嘆願する文章の引用から始まり、「いつか立法されるであろう、現在とは異なった移民政策の学問的合法化に先鞭をつける」(86)。

次に西部と南部のポピュリスト(24年と52年の移民制限派にとって重要な支持母体だった)を非合理的なanti-Semitesに仕立てるイメージ戦略に影響力を発揮したハーバード大学の歴史家リチャード・ホフスタッターの引用である。

彼はNugent(1963: 22)に「都会化されしばしば学術的な知識人・エリートの指導権を脅かすポピュリスト運動への捻くれた視点。そして行動科学由来の概念の使用。」が特徴だと評された、歴史に対する「コンセンサス」アプローチを開発した。

彼がポピュリストを非難した文章を引用し、「均質なヤンキー文明の維持を望んでいる」(Hofstadter, 1955: 34)。

 

NY知識人(CofC: Ch. 6)はこの種の都会エリートの典型であった。例えば、高い影響力を持つ左翼雑誌「Partisan Review」は「NY知識人達、つまりユダヤ民族アイデンティティと米国の政治・文化制度からの深い疎外感を抱く編集者や寄稿者が支配するグループ(の陳列棚であった。)(Cooney, 1986: 225ff; Shapiro, 1989; Wisse, 1987)…

彼らは自分達を、疎外され軽んじられていると感じていた。それは伝統的にユダヤ人が行ってきた非ユダヤ人文化からの分離政策と疎外感の現代版である。’彼らは、自分達が米国に属しているとも、米国が自分達に属しているとも感じなかった'(Podhoretz, 1967: 117; emphasis in original)。実際のところPodhoretz(Podhoretz, 1967: 283)は1950年代に「ニューヨーカー」編集者から’Partisan Reviewのタイプライターには’alienation’という特別なキーがあるのかどうか’尋ねられた」(CofC: 216-217)。

 

最後に、Joyce(2019)は、AJCommitteeのリサーチ・ディレクターでありフランクフルト学派社会調査研究所(see CofC: Ch. 5)に所属するSamuel H. Flowermanを中心としたWW2後の米国メディアでの世論操作キャンペーンの説明をした。

Flowermanはマックス・ホルクハイマー(社会調査研究所の所長)と共同編集で、AJCommitteeから「Studies in Prejudice(偏見の研究)」シリーズを出版し、大きな影響を及ぼした。

Flowermanはユダヤ人知識人・社会科学者のネットワークを結集した。大学やメディア(ハリウッドのスタジオ、米国中の全てのテレビ局、大手新聞[例えばNYタイムズやワシントンポスト]は当時ユダヤ人が所有していた)で重要な地位を占めるユダヤ人が多数集まった。

この努力は、「イングループの基準を積極的に再形成することで、同質集団の圧力を改変しイングループのエスノセントリズムに敵対させる」目的で米国のマス・コミュニケーションの支配を目指していた。

それは「米国の白人の世論を軟化させて変質させる目的で行われたユダヤ人の共同事業」であった(Joyce, 2019: 6, 11; see, e.g., Flowerman, 1947)。

 

反移民制限派の組織化

 

ユダヤ人とユダヤ人組織は、45年から65年まで活動した最重要の反移民制限主義の複数の組織を組織化し、主導し、資金を負担し、活躍した。その中にはNational Liberal Immigration League、the Citizens Committee for Displaced Persons、the National Commission on Immigration and Citizenship、the Joint Conference on Alien Legislation、the American Immigration Conference、そしてPCINが挙げられる。

「これら全ての団体は移民法を研究し、情報を広め、議会で証言を行い、その他の効果的な様々な活動を立案した。…即時の劇的な効果はなかったものの、[AJCommitteeの]志を共にする組織と連携した粘り強いキャンペーンにより、最終的にケネディ・ジョンソン両政権を突き動かした(Cohen, 1972: 373)。」

PCINへの言及として、

 

AJCommitteeはトルーマン大統領が設立したPCINの審議にも深く関与し、PCIN設立以前に証言した個人や組織への証言の提供やデータやその他の資料の配布なども行っていた(Cohen, 1972: 371)。それらの勧告は全て最終報告書に盛り込まれた(Cohen, 1972: 371)。

経済的能力を移民の基準として重視することを禁止したり、出身国規定の廃止、「先着順」世界中のあらゆる民族に国境を解放すること等が盛り込まれたが、報告書は唯一の例外として、AJCommittee等のユダヤ人グループが推奨する数よりは移民総数を低く抑えることを勧告した。(CofC: 281)

 

PCINの議長はPhilip B. Perlmanであり、スタッフにHarry N. Rosenfield (Executive Director)やElliot Shirk (Assistant to the Executive Director)を筆頭にユダヤ人が高い割合を占めた。

その報告書はAJCongressによって全面的支持を受けた(see Congress Weekly Jan. 12, 1952: 3)。その議事録はEmanuel Celler議員の協力とユダヤ人学術活動家(see below)のOscar Handlinのエッセイを盛り込んで「Whom We Shall Welcome (PCIN, 1953)」という報告書として印刷された。

 

これらの取り組みの一環としての非ユダヤ人のリクルート

 

この取り組みの一環として、同情的・共感的な非ユダヤ人、特に著名な非ユダヤ人がこれらの組織にリクルートされた。

ユダヤ人は西欧社会では少数派であるため、遅くとも二十世紀初頭以降には、ユダヤ人活動家コミュニティは自分達の活動にとって有益となる有力かつ影響力を備えた非ユダヤ人をリクルートする戦術を常に採用した(MacDonald, 1998b/2003: Ch. 6)。

例えば55年にAJCommitteeは有力な市民を集めてNational Commission on Immigration and Citizenshipを組織したが、メンバーの大半は「キャンペーンに威信を与えるため」の非ユダヤ人だった(Cohen, 1972: 373)。

「政策変更を支援するべく、米国のユダヤ人グループは本やパンフレットを大量出版・大量配布し、元気のある移民を支持する著名な政治家をリクルートする野心的なキャンペーンを始めた」(Tichenor, 2002: 205)。

この取り組みの重要な部分は、上院議員で後の大統領ジョン・F・ケネディをリクルートし「A Nation of Immigrants (1958)」に連名させ、上院議員で後の副大統領、民主党大統領候補のヒューバート・ハンフリーに「Stranger at Our Gate (1954)」を書かせたことであった(Tichenor, 2002: 205)。

ケネディは元ADL全国理事のベン・エプスタインにリクルートされ(Greenblatt, 2018)、本はADLから出版され、歴史家のArthur Mann(オスカー・ハンドリンの下でハーバード大学で博士課程[Ngai, 2013])をプロジェクトに提供し(Graham, 2004:82)、ケネディ・ジョンソン両政権で影響力を持ったMyer Feldmanがゴーストライターを務めた(Tichenor, 2002: 205)。

 

活動家のユダヤ人コミュニティにとって65年移民法は非常に重要である一方で、移民法改正の最も著名なスポンサー達は「公の場では、その法改正がさも重要では無いかのように受け取られるよう全力を尽くした。一般市民が米国への移民の量と民族多様性を高めるのに反対していることを、政府の政策立案者は重々承知していた。…[しかし]実際には60年代半ばの政策の逸脱は、移民のパターンを劇的に改変し、それにつれて国そのものも劇的に変貌した。移民法改正後数年で年間移民数は激増した。(Tichenor, 2002: 218)」

Tichenorは、chain migration[移民連鎖](see below)と流入民の民族多様性が米国を根本的に変貌させたと指摘する。

 

24年と52年の移民法で定められた民族バランス現状維持の原則を否定する

 

24年移民法を巡る争いの頃でさえ、ユダヤ人活動家は議会の公聴会で民族バランス現状維持に対し明確に反対した。

「米国の人口が一億人を超えたばかりの頃、ルイス・マーシャル[AJCommittee関係の有力弁護士で反移民制限主義ロビイストの指導者]は’この国には今の人口の十倍を受け入れる余地がある’と述べ、「精神的・道徳的・肉体的に不適格で政府の敵となり社会のお荷物になり得る」者を除き世界中のあらゆる民族を割り当て制限なしに入国させるよう提唱した」(CofC: 263)。同様にラビ・スティーブン・ワイズはAJCongressやその他複数のユダヤ人組織を代表し、24年移民法での下院の公聴会において「米国外のあらゆる人々の公平・公正・差別無しで考慮される権利」(Ibid.)を主張した。

 

Graham(2004: 80)は移民に関するユダヤ人のロビー活動は「ユダヤ人に門戸を開くことだけでなく、米国におけるファシスト体制誕生の可能性をより低くする目的で、西ヨーロッパ人の多数派の地位を破壊するのに十分な数の多様な移民の流入を目指した。」

活動家ユダヤ人コミュニティ側にあった恐怖と不安という動機はこのように独特で、24年と52年の移民法の出身国規定の廃止を促進する他のグループ・個人とは異なっていた。このような考え方は、米国の民族バランスの変更の要求を必然的に伴った。

このようなユダヤ人活動家の恐れと不安は以下の文章に表れている。

 

Svonkin (1997: 8ff)は、WW2後にセム主義批判がごくわずかまで減少したという証拠に直面してさえ、「気が休まらない」不安の感覚が米国のユダヤ人の間で蔓延していたことを示す。

その結果、「45年以降のユダヤ人のインターグループ関係運動の機関[AJCommitteeやAJCongresss、ADL等]の主要目標は、米国でのセム種族批判の大衆運動の出現の阻止だった」(Svonkin, 1997: 8)。

70年代の著作でIsaacs (1974: 14ff)は、米国のユダヤ人の間で蔓延する不安と、セム種族批判に見える可能性のあるものへの彼らの過剰な神経質について書いている。

70年代初頭にセム主義批判というテーマで「著名な公人」にインタビューしたIsaacsは、「Do you think it could happen here?[あなたはそれがここでも起こり得ると思いますか]」という質問をした。

「’それ’を定義する必要は全く無かった。ほとんど全ての場合で回答はほぼ同じだった。’あなたが歴史を知っているなら、それが起こり得ると考えるだけでは駄目で、恐らく起こるだろうと考えなくてはならない。’あるいは’もしかしたらという問題では無く、いつ起こるかの問題だ’」(Isaacs, 1974: 15)。

 

65年移民法成立後のずっと後で、著名なユダヤ人社会科学者・民族活動家のEarl Raabは、米国の民族構成を変えることにおける米国の移民政策の成功について非常にポジティブな見解を述べた。

ユダヤ人向け出版物でRaabは、米国の移民政策が北西ヨーロッパに偏っていたのを、ユダヤ人社会が主導して変えさせたと述べた(Raab, 1993: 17)。彼はまた、現代の米国でセム主義批判を抑制できる一つの要因として「移民の結果、民族の異質性が高まり、偏見を持つ政党や大衆運動が発展することはより難しくなった」と断言した(Raab, 1995: 91)。

このように、アメリカ白人がユダヤ人に背を向けるかもしれないという恐怖は65年移民法成立後もずっと続いていた。Elliott Abrams (1999: 190)は、「米国のユダヤ人コミュニティは、根本的には米国の暗い未来像にしがみついており、セム主義批判が蔓延して常にセム種族批判の噴火が起きそうな土地として米国を見ることに頑なに拘っている」と指摘した。

 

52年にPCINは、24年移民法が人種バランスの現状維持に成功したと指摘した。人種バランスを突き崩す上で、すでに割り当て外移民(主に共産主義圏からのヨーロッパ系移民)は多数であり、北西ヨーロッパは割り当てを満たせていないため、出身国規定は主要な障壁では無いと述べた。むしろレポートは、現状の人種バランスを突き崩す上での最大の障壁として移民の総数の不足を挙げた。

 

このように[PCIN]は米国の現状の人種バランスを突き崩すことを望ましい目標と見なし、そのために移民の総数を増やすことを目指した(PCIN, 1953: 42)。Bennett (1963: 164)が指摘するように、PCINの観点からは、移民の総数を減らす24年移民法は「[PCIN]にとってはどの人種が新たに米国市民権を獲得しようが、とにかくそれは素晴らしいことだったため、極めて悪法だった」。

これに呼応して52年移民法の擁護者達は、この問題を根本的には民族間紛争の一つであるとして概念化した。Pat McCarran上院議員は、出身国規定を破壊することは「一世代二世代の間に、この国の民族・文化構成を変える方向に向かう」(in Bennett, 1963: 185)と述べ、結果的に正しい予想だった(CofC: 281)。

 

前述の通り、Emanuel Celler議員は、米国の民族バランスを変更することを望ましい目標と見なすレポート「Whom We Shall Welcome (PCIN, 1953)」の発行に関与した。

Cofnas (2021)はこれらの証拠に反して以下のように主張する。「この立法の起草者達でさえ、その法の直接の結果の幾つかには驚いている。Graham (2003: 94–95)によれば、Emanuel Celler自身はヨーロッパからの移民の激減に悩んでおり、アイルランド・イギリス・スカンジナビア諸国からの移民増加を許可する法案を提出した。しかし彼は自らが提出した法案が引き起こした’意図しなかった不公平’に苦しんでいた。」

 

しかし、PCINレポートの内容とCellerの発行への関与を考慮すると、Cellerが米国の民族バランスの変更を訴えていなかったとは考えにくい。

Cellerがヨーロッパの一部からの移民を増やしたいと考えていたことは間違いなくこれと両立し得る。もしCellerが24年と52年の移民法のように民族バランスの現状維持を明確に再確認する法案を提唱していたのなら、遥かに説得力があっただろう。しかし24年・52年移民法こそが彼が40年以上熱心に反対してきたものである。

Cellerがよく知る通り、出身国規定の撤廃こそが民族バランスの現状変更のために不可欠だった。それさえ達成すればあとはPCINの提唱通りに移民の絶対数を増加させるだけであり、実際そうなった。

 

この問題に対するユダヤ人のコンセンサスを更に示すものとして、当時米国で最大のユダヤ人組織であったAJCongresssは、52年移民法に関する上院公聴会で、24年移民法は米国の民族バランスを維持するのに成功したと証言し、一方で「その目的は無価値だった。1920年時点の人口構成は神聖不可侵なものでは無い。20年に我々の民族が完全な頂点に達していたと考えるのは愚かであろう。」

この期間中AJCongressのニュースレターCongress Weeklyは、出身国規定を「人種間に優劣が存在するという神話」(Oct. 17, 1955: 3)に基づくものであるとして繰り返し非難し、「人種や出身国を無視して、必要性やその他の基準に」(May 4, 1953: 3)基づいた移民を提唱した。

AJCongress代表のDr. Israel Goldstein (1952a: 6)は、「出身国規定は今の時代ではあり得ない…我々の国の経験から言って、今となっては我々米国民の多様性こそが我々の強みであることに疑いの余地はない」(Goldstein, 1952b: 5)と書き残した。これは米国の学術界・メディア・政治体制が広めているマントラの前兆である。“Diversity is our greatest strength.”(多様性こそが我々の最大の強み)。

 

ハーバードの歴史家・有名知識人のOscar Handlinのような著名なユダヤ人知識人たちは、移民促進の本(e.g., The Uprooted [1951/1973]) や記事を出版した。Handlin(1952)の記事“The immigration fight has only begun,”(移民法改正の戦いは始まったばかりだ)は、民主党が多数の議会がトルーマン大統領の拒否権を覆して52年の移民制限主義の法案を通した直後にCommentary誌(AJCommitteeが出版)に寄稿された。

移民促進勢力でのユダヤ人のリーダーシップと共に、前述の20世紀初頭以降のユダヤ人以外のグループの無関心の反映をも示すコメントで(Neuringer, 1971: 83)、Handlinは他の「ハイフン付きアメリカ人」が移民法改正の戦いに無関心であることに不満を述べた。

彼は’we’という言葉を繰り返し使い、「もし我々が武装したマッカラン議員一味を倒すことはできなくとも、我々は彼らの武器を無力化するために多くのことができる」と述べた。

これらは、リベラルな移民政策に対してユダヤ人が統一された関心を寄せていることをHandlinが信じていたことを示し、また、65年移民法の文脈の一部としてGraham (2003)が指摘し、Cofnasも言及したように、52年移民法がその後時間をかけて「削り取られていく」ことの予兆でもある。

 

Handlinは明らかに民族バランスの現状維持を拒否しており、「米国の人口構成が現状のまま維持できると思うのは幻想だ」(Handlin, 1947: 6)と主張した。

そして彼は24年移民法の討論会で制限主義者が次のような正統性の主張には全く触れることは無かった。

「劣等な種の大群は、人種に関する新しい知見[20年代にエリートの間で一般的になり、メディアでも広まった人種間の差異の理論への言及]が広まった後ですら、その教訓を完全に無視して自由に米国内に流入している。彼らはアングロサクソンと乱雑に混ざり合って必ず人種的劣化をもたらす」(1951/1973: 257)。

Handlinは24年の議会討論で制限主義者が用いた実際の議論を無視した。出身国規定はあらゆる民族に対して公平だった。異なる民族グループは移民に対して利益が対立するという進化論の暗黙の了解かつ全面的に正当な前提に立ち、民族バランスの現状維持(CofC: 263)を打ち出したからだ(例えば、パレスチナ人の帰還の権利を巡ってイスラエルで争うパレスチナ人とユダヤ人)。

 

Handlinは65年移民法の通過までの数十年に渡って重要人物であった。Ngai (2013)は彼の重要性について以下のように述べた。

 

Handlinの移民政策に関する考えは、戦後の改革の過程に反映しており、また実現された。彼は、移民を米国の経済・民主主義発展の中心に位置づける米国史の新しい解釈を広めたことで評価されているかもしれない。

即席の政治改革のフレームワークを作る際に、彼は移民の歴史についての規範となる理論を打ち出した。我々は「移民の国」理論としてよく知る理論は、学術的にも大衆の言論空間でも数世代にわたって生き延び、おそらく我々の現在の世代でも生き延びる(Ngai, 2013, 62)。

 

出身国規定の撤廃への彼の長期間の改革への貢献は、過小評価されるべきではない。

彼の著作は学術的にもジャーナリズム的にも、改革のためのエピステーメー(時代の流行の考え方)を供給し、また古い政策を批判し新しい政策の輪郭を定義するフレームワークと理屈を供給した。

Handlinはヨーロッパ系アメリカ人の民族グループだけに民族としての声と正当性を与えたのではない。

彼はまた、彼らに米国史のマスターナラティヴの主人公の位置を与え、多元主義と集団生活こそが米国の民主主義の支柱であると主張した。

したがって、改革の底意は単に目先の政治的利害の問題にとどまらない。米国の民主主義が歴史的使命として行き着く終着点の話でもある。それはWW2後のアメリカニズムの歴史的必然でもある(Ngai, 2013, 65)。

 

24年・52年移民法に組み込まれた民族バランス現状維持を「削り取る(Chipping-away)」

 

Handlinが推奨し、Graham (2003)が65年移民法への文脈の一部だと指摘した「削り取り」に関して言えば、65年以前の割り当て外移民の大半は共産主義圏からの難民であった。

これらの移民の大多数はロシア・ポーランド・チェコスロバキアからの非ユダヤ人であり、民族的にはヨーロッパ人であり(Graham, 2003: 54)、「20年代の法は民族的に緊迫した国に必要な休息を与えた」(Graham, 2003: 48)ことを利用して米国文化に同化した。

50年代には、これらの同化したヨーロッパ人グループは国の人口動態のバランスを変えるものとは見なされておらず、共産主義の過激な左翼の国からの難民も同様に扱われた。とはいえ、後者は20年代には最大の懸念の的であった(especially regarding Jewish immigrants [CofC: Chs. 3 & 7])。

アメリカ人達も、彼らを冷戦時代の共産主義に対する米国文化の優位性の傍証だと見なして歓迎した。例として、ハンガリーのJózsef Mindszenty枢機卿の拷問と殺害(彼は追い出されるまでの15年間ブダペストの米国大使館に住んでいた)は、アメリカ人の特にカトリックにとって衝撃だった。

 

よって、50年代に実際に起きた移民現象は、65年以降の移民現象とは様子がかけ離れていた。

そのような移民は確かに20年代に支配的だった考え方を反映してはいなかったものの、その論理的根拠は、何の根拠も必要としていない65年以降の移民よりは遥かに合理的だった。65年以降は、国のために役立つスキルを持つかどうかの要件さえ優先順位が低くなってしまった。

実際のところ「削り取り戦術」は、移民が家族を呼び寄せるのを割り当ての例外として特別に認めさせることを主要目標にした。「家族は一緒に」の原則は、24年移民法の討論にまで遡るユダヤ人の取り組みの中心課題だった(Neuringer, 1971: 191)。

この点は、下院の移民制限主義勢力のリーダーであったFrancis Walter議員が、52年の討論会で米国の移民政策の基礎として有用な技能より家族の再会を優先させようとしたユダヤ人団体の特別な役割を指摘した際にも強調された(Congressional Record March 13, 1952: 2284)。

 

Bennett (1963: 244)は、家族を再会させるという61年移民法の側面について述べ、「血縁・結婚関係や家族が一緒に暮らすという原則の優先が、移民のゲートの‘open Sesame’になった」。Bennett (1963: 256)はまたこう指摘した。「割り当て超過の移民に対しても、行政上の不許可の撤回、ステータスの修正、民間法案、52年の[the McCarran-Walter Act of 1952]の法適用除外が与えられ、割り当ての例外の拡大が頻繁に繰り返され、国の民族的様相の変化を加速させ不可避なものにしている」(257)。

65年移民法は割り当ての例外として家族の呼び寄せを認め、家族のchain migration(移民連鎖)を許したため、移民総数を増加させるためのtailor-madeだった。

「家族優先の原則は新しい移民へのテコ入れであり長期滞在者ばかりをもたらし、国の将来を担う移民の流れを弱めた」(Graham, 2004: 91)。

(例として、一世代・二世代以上に遡る一族の市民、ましてや建国当初からのアメリカ人は、海外に親戚を殆ど持たないであろう。)

つまり、ある一人の移民が自分の肉親を呼び寄せ、彼らが市民権を獲得すれば、その兄弟姉妹を割り当ての例外で更に呼び寄せることができ、またその配偶者や子供が呼び寄せられ、延々と連鎖する。

 

議会と行政のリーダーシップ

 

ユダヤ人政治家は議会で反移民制限主義を主導しており行政府でも有力だった。

議会で最も注目すべき人物は、Celler議員(24年移民法の議会の討論でも反制限主義のリーダー)、Jacob Javits上院議員、Herbert Lehman上院議員であり、いずれもADLの主要メンバーだった。

Graham (2003: 57)は議会でのユダヤ人のリーダーシップを指摘した後、こう述べた。「あまり目立たないが、同様に重要だったのは、大統領と各省庁のスタッフであった主要なアドバイザーの努力である。これらには、トルーマン政権のJulius EdelsonやHarry Rosenfield、アイゼンハワー政権のMaxwell Rabb、ケネディ・ジョンソン政権では大統領補佐官のMyer Feldman[ケネディの「A Nation of Immigrants」のゴーストライター]、国務長官補佐のAbba Schwartz、司法副長官のNorbert Schleiのような上級政策顧問が該当する」。

Schleiは62年から66年まで司法省の法務局長を務め、65年移民法案の起草に関する最重要人物であった(New York Times, 2003)。

Graham (2004: 88)も、ケネディ・ジョンソン政権下で移民問題に関与した重要人物としてFeldman、Schlei、Schwarzに言及している。

 

移民政策でのユダヤ人のコンセンサス

 

この期間、組織化されたユダヤ人コミュニティの大多数が反制限主義の態度を維持し続けた。

48年に国や地方のユダヤ人団体の長いリストを代表して議会で証言したSimon Rifkind判事の言葉を借りると、「ユダヤ人の宗教的見解であり、極左から極右までのユダヤ人グループが一致している見解」。

Cofnas (2018, 2021)は、ユダヤ人はその知能の高さゆえに様々な問題に関して両サイドで常に過剰に重要になってしまうという“default hypothesis(従来の前提)”を提唱している。

この仮説は、24年・52移民法の出身国規定が覆されるまでの65年までの重要な時期の移民問題に関して、完全に偽である。

それ以来長い時間が過ぎた。私は24年・52年移民法を支持するユダヤ人組織・著名ユダヤ人を一度も見たことが無い。65年移民法の制定に反対したユダヤ人組織・著名ユダヤ人も見たことが無い。

Joyce (2021)は、現代アメリカでの移民推進活動においてもユダヤ人が引き続き強力な役割を担っていることを示す。

上述の通り、現在に至るまで移民に関する事実上のユダヤ人のコンセンサスが存在する。

 

結論

 

私は、ユダヤ人達と組織化されたユダヤ人コミュニティが65年移民法可決のために不可欠であったと結論付ける。

これまで典型的であった通り、ユダヤ人の活動主義はエリートの機関と政治家を対象としており、最終的に殆どのアメリカ人の意見が反映されないままトップダウン方式で改革が発生した。

Graham (2004: 88)が述べるように、「移民問題について、多くの課題において見られるpublic debateのパターンが浮かび上がってきた。草の根のオピニオンは焦点を外され、矮小化され、効果の低い道を力強く進む間に、エリートのオピニオンメーカーは取り組むべき課題を選び、そのリベラル的解決法を決定し実行できた」。

 

Minor Issues

 

ユダヤ人と左翼勢力

 

ユダヤ人が左翼になる傾向がある理由について、Cofnasはユダヤ人の歴史に対する理解を欠いたまま単にこう述べている。「最近の歴史では、左翼より右翼の方があからさまにanti-Semiticであったため、ユダヤ人の政治への関与は左派に偏っていた」。

彼はそれにより自分の話を明示されてもいない詳細不明の時期に限定し、政治的スペクトラムの左翼にいない著名ユダヤ人知識人・活動家を見つけることが困難な60年代以前の米国を無視し、その期間にユダヤ人コミュニティの力がどこに向いていたか無視するだけでなく、ユダヤ人左翼の他の動機(例えば、多文化主義がユダヤ人の同化を防止してくれるという確信)も無視し、その後数十年に渡るユダヤ人のネオコンへのモチベーションをも無視した。

ネオコンはユダヤ人保守派の中で最重要のグループである。

彼らの動機は、移民問題などの社会問題に関しては共和党を左傾化させる一方で、米国の外交政策に親イスラエルの方向で影響力を行使することだった(MacDonald, 2004)。

実際、ネオコンユダヤ人が70年代まで民主党に所属したのにカーター政権期に離脱した理由は、カーターがイスラエル・パレスチナを公平に取り扱い、67年の国境線への復帰を提唱したからであった(see MacDonald, 2004)。

それまでは米国のユダヤ人の中には知的・政治的右派の有力代表者はいなかった。

その後トランプ大統領の台頭に伴って、大量のネオコン(例えばMax Boot、Bill Kristol、Jennifer Rubin)が共和党を捨てたが、これはトランプのポピュリストのレトリックと彼の不干渉主義の外交政策の提案が原因であろう。

 

また、ユダヤ人の政治的態度が、ある意味では非ユダヤ人と同様に、社会階層と相関していないことにも注意すべきである。

経済的利害と政治的イデオロギーの間のギャップは少なくとも20年代から存在する(Liebman, 1979: 290ff)。

更に言えば、60年代のユダヤ人新左翼の急進派学生たちは、高学歴かつ裕福な家族の出身が不釣り合いに多かった(Rothman & Lichter, 1982)。

ユダヤ人知識人だけでなく、裕福なユダヤ人が民主党の献金者の基盤を形成し続けており(e.g., Debenedetti, 2019; OpenSecrets.org, 2021)、ユダヤ人有権者は彼らの社会階層の高さと米国社会でのエリートの地位にも関わらず、民主党を強力に支持し続けてきた(MacDonald, 2002b)。

 

このことは、ユダヤ人が左翼に惹かれる理由を説明するには、他の理由を、特にユダヤ人が自分達自身と社会全体をどう考えているのかを探る必要があることを示す。

左翼ユダヤ人の間のユダヤ人アイデンティティの取り扱い(e.g., CofC: Ch. 3)は、ユダヤ人アイデンティティが複雑であり、自己欺瞞的であることを示す。

例えばNorman Podhoretz(2010)の「Why Are Jews Liberals?」にあるような共通のテーマは、ユダヤ人の歴史に対する“lachrymose”(涙もろい)な捉え方である。

このようなユダヤ人の歴史認識は、ユダヤ人教育やユダヤ人の自己認識でも定着している。

この認識によれば、西洋でのユダヤ人の歴史はポグロム、排除、追放の歴史である。ローマ帝国による第二神殿の破壊、中世のユダヤ人追放、19世紀後半のロシアのポグロムを経て、ホロコーストで最高潮に達する歴史である。

前述の通り、ユダヤ人批判運動への恐れは、米国の移民政策の形成にユダヤ人が関与した主な動機であり、anti-Semitismへの懸念が他の有力なユダヤ人知識人運動の動機となったことも充分に文書化されている(CofC: passim)。

 

単にIQが比較的高いということだけでは、米国でのユダヤ人運動の一面として指摘される敵対的な文化を説明できない。

米国のユダヤ人がメディア、文化の作製、社会科学や人文科学での情報量、政治プロセスに非常に強い影響を持つ(MacDonald, 2002b)のに対して、東南アジアの華僑は地域経済で圧倒的な地位を支配し高い平均IQを持つ(MacDonald, 2002a)にもかかわらずユダヤ人のような特徴を示さない。

華僑は東南アジア諸国で文化的エリートを形成してはおらず、メディアの所有や敵対的文化の構築に集中してはいない。

 

社会におけるユダヤ人の割合は、ユダヤ人運動の成功に不可欠だったであろうか?

 

Cofnas (2021)は、ユダヤ人の割合が非常に少ないスウェーデンのような西欧諸国も、移民へ門戸を開き多文化主義に帰依していると指摘する。

彼が挙げる活動家(特に重要なのはDavid Schwarz)に加えて、スウェーデンのメディア(書籍、雑誌、新聞、テレビ、映画)で長年圧倒的な存在感を示してきたBonnier一族の役割についても言及するべきであろう(Bonnier Group, 2021)。

 

しかし、全体像が物語っている。

Eckehart (2017)は以下のように述べた。64年から68年の間のスウェーデンの著名新聞・雑誌において移民とマイノリティ政策に関する17個の明確な討論があり、全部ででは118個の記事から構成されていた。

Schwarzはこの内の37個、つまり全体の31&を単独または共同で執筆した。

また、Schwarzは討論の内の最低12回以上を主導していた一方、二回以上討論を主導した人物は他に一人もいなかった。

他のユダヤ人の寄稿も加味した場合、スウェーデンの人口の1%未満に過ぎない最も小さいマイノリティグループのユダヤ人が46個の記事を執筆しており、全体の39%を占めていたことが分かった。

そして、全てのユダヤ人寄稿者が例外なく多文化主義の立場を取っていた。

ユダヤ人がこの問題の両側のリーダーシップを取っていなかったことは明白で、default hypothesisはここでも破綻している。

 

更に言えば、マイノリティはマジョリティよりも動員力が高いという点では民族間競争で有利である(Salter, 2006)。

動員力とは、例えば金銭、時間、労力を寄付するなどで大義のために自己犠牲を支払うのを厭わないことである。

リソースが限られている小さなグループであっても、その構成員を激しく動員でき、敵が数で勝ってはいても無関心である場合、不釣り合いな影響力を行使できる。

これは、米国の65年移民法についての上述の資料から当然わかることである。

ここ数十年のオーストラリアの場合、裕福なオーストラリアユダヤ人の後押しを受けるIsi and Mark Leiblerが、対イスラエル政策から移民問題、言論の自由の制限に至るまでの幅広い問題に関してオーストラリア政府への巨大な影響力を行使していた(Cashman, 2020; Gawenda, 2020; Sanderson, 2021)。

Sanderson (2013)はまた、70年代にオーストラリアで多文化主義の政府政策を推し進めたWalter Lippmannの効果的な活動にも触れている。彼の動機の少なくとも一因には、同化がユダヤ人コミュニティを衰退させるという懸念があった。

 

また、マイノリティの影響力は個人主義文化に対して特に効果的であり、スカンジナビア社会はその歴史的な家族の在り方や政治構造が示す通り、地球上で最も個人主義的な文化を持つ(MacDonald, 2018c, 2019)。

個人主義者は、他者を競合する他のグループのメンバーとして捉える傾向が弱い。

彼らは独立した個人としてのみ他者を捉える傾向が遥かに強く、比較的エスノセントリズムが弱い(Henrich, 2020; MacDonald, 2019, 2020, 2021)。

そして、個人主義文化の社会的結束は、血縁・人種・民族アイデンティティからよりも「モラル共同体」から供給される(MacDonald, 2019, 2021)。

現代の西洋のように、例えば多文化主義イデオロギーに異論を唱えれば有罪と見なされ、追放・失職の罰則を食らう恐れがあるようなモラル共同体のことである。

現代の西洋文化において、このようなモラル共同体は、ユダヤ人が過剰に多すぎるエリートの学術・メディア文化によってトップダウン方式で作製されている(MacDonald, 2002b, 2019)。

前述の通り、WW2後のユダヤ人の主な取り組みは、白人のエスノセントリズムと利害追求を政治的・社会的辺境に追いやる文化の作製に向けられていた(see also CofC: Ch.5)。

 

最後に、スウェーデンは比較的小国で地政学的に重要性の低い西洋の社会であるため、西洋の全体的な傾向に左右されやすい。

米国はWW2以降間違いなく西洋世界のリーダーであったので、米国で始まったトレンドがスウェーデンの知識人や政治家にポジティヴに受容されることは全く不思議では無い。

例えば、西洋の学術文化は国際的かつヒエラルキーが強いため、例としてボアズ人類学派の改革がエリート大学で発生して米国の学術界の標準になった場合、西洋の学術文化全体にそれが拡散するのは避けられなかったはずで、前述の米国の例と同じくそれは結果的に移民政策に反映されただろう。

例としてSanderson (2013: 7)は、人種についてのボアズ人類学派の見解が「非白人グループに対してオーストラリアへの移民の門を開け放つ上で決定的な武器」だったことを示し、ユダヤ人学者やその他ユダヤ人活動家が伝統的な白豪主義政策への抵抗を推進する上で主要な役割を果たしたことを論じている。例えば、The Australian Jewish Newsの全国編集長のDan Goldberg (2008)が「ユダヤ人は白豪主義に対する聖戦を主導した」と誇らしげに認めた記事を引用している。

また、Cofnasのdefault hypothesisと再度矛盾するものとして、Rubenstein (Rubinstein, 1995: 7)は以下のように指摘する。

「政治的には、ユダヤ人コミュニティは幾つかの目標に向かってコンセンサスあるいは事実上のコンセンサスを持って団結している。特にイスラエル支援、anti-Semitismとの戦い、多文化主義への支援、ユダヤ人デイスクール教育を通じた同化の阻止に向かってコンセンサスがある。」

 

MacDonald (CofC: 294)は以下のように述べる。「西洋世界での移民政策の大変動はほぼ同時期(1962–1973)に発生した。どの国においても、その変化は市民の大多数の姿勢よりもエリートの姿勢が反映されたものだった。…一貫したテーマとして、移民政策はメディアを支配するエリートによって制定されており、全ての主要政党の政治リーダーは移民への恐怖が政治的議題に上がって来ないよう全力を注いできた。」

上述の通り、Graham (2004: 88)を引用すると、公共政策へのトップダウン方式の影響力が60年代のユダヤ人の移民法改正運動の中枢であり、その傾向は他の公共政策問題でもますます顕著になってきた。

初期の数十年間(CofC: Ch. 5)にユダヤ人知識人が支持したanti-populismとトップダウン型のエリート支配が実を結んだ。

 

White Advocacy(白人の利益の弁護)を目指す運動にユダヤ人は歓迎されるべきか?

 

Cofnas (2021)は、親白人運動のリーダーの大多数がユダヤ人に対する敵意を表明している以上、ユダヤ人達がそれに参加しないのは驚くことではないと主張する。

私の見解は以下である。ユダヤ人自身が、白人の利益に反して米国を変貌させたユダヤ人コミュニティの役割と力を認め、ユダヤ人コミュニティの力が白人への弁護に向くよう尽力するのであれば、ユダヤ人の親白人運動への参加は許容されるに違いない(MacDonald, 2016)。

更に言えば非ユダヤ人は以下の歴史に気を付けるべきだ。ユダヤ人は過去に、白人系民族が彼ら自身の利害に関する合理的感覚を得ることを犠牲にさせつつ、ユダヤ人の利害と互換性を持たせる方式でwhite advocacy運動に影響を及ぼそうとした(Joyce 2016, Joyce, 2021)。

 

White advocacyにユダヤ人が共感していないことをanti-Jewishの物語のせいにして非難することは深刻な問題である。

white advocatesは自分達が収奪されたことに関する歴史的な、かつ現代も続くユダヤ人の役割を無視しなければならないのだろうか?

多くのユダヤ人は、白人が収奪されてきた歴史について正直に議論することを必ず脅威に感じるだろう。

その歴史を客観的に説明するだけでユダヤ人達の支配的な役割は明白だからである。

しかしユダヤ人達の役割に対して沈黙すれば、これらのグループにある種の非歴史的な現在を生きるよう強いることになる。それは、過去について現実的な議論、客観的方法で過去を理解する試みを妨害し邪魔することである。

よって、これらの親ヨーロッパ人運動は、ユダヤ人運動を含め、私の知る限り他の全ての民族主義運動と大きく距離を取ることを強いられる。

民族アイデンティティと民族への献身は歴史への感覚と深く絡みついている。例えば、上述の通りユダヤ人の歴史はlachrymose(涙もろい)観点で支えられている。

「政治とは、単なる現在、未来を支配する目的の激しい肉体的闘争では無い。過去の記録を支配するための知的闘争である」(Johnson [Johnson, 1988: 481], describing the philosophy of history of Frankfurt School intellectual Walter Benjamin [b. 1892– d. 1940])。

 

Conclusion

 

私は以下のように結論付ける。Cofnasの「anti-Jewish的文脈」への批判は事実に基づいていない。また、米国のユダヤ人の変革への影響力を説明する中でユダヤ人アイデンティティとユダヤ人の利害の重要性を否定する論拠には、多くの理論的誤りがある。

更に言えば、CofnasがWW2後の重要な数十年間でのユダヤ人コミュニティの態度や行動の歴史的変化を正当に評価した形跡は無い。

また、Cofnasが特定の時代と場所、特にユダヤ人活動家コミュニティの間で、特定の態度が事実上のユダヤ人のコンセンサスを形成してきた度合いについて正当に評価した形跡も無い。

加えてCofnasは、戦後にユダヤ人達がアメリカ文化の新しいエリートの不可欠な要素として現れた時期に、ユダヤ人活動家コミュニティの中でどのようにして事実上のコンセンサスが形成されたか正当に評価してもいない。そのコンセンサスは、白人のエスノセントリズム、移民問題、公民権運動、コスモポリタニズム、社会の世俗化等に広く影響を及ぼしただけでなく、それらが標的にされる背景そのものを作り出した。

そして、ユダヤ人の影響力を調べる場合、特にユダヤ人の異なる派閥が各々異なる方向に公共政策を動かそうとする場合には、特定の時代でどの派閥がより強力なのか、どの派閥がより幅広いユダヤ人コミュニティを代表しているのか、見極める必要がある。Cofnasの分析ではそれが全く欠落している。

 

the default hypothesisが破綻している理由を特に幾つか挙げる。

 

・CofCの対象期間、つまり西洋にとって変革期である時期、移民制限主義やポピュリスト運動に参加したユダヤ人達やユダヤ人組織は存在しなかった。この期間にユダヤ人組織・活動家たちは一様に移民推進派であり、ユダヤ人知識人達はポピュリズムを激しく非難していた。

 

・上述の通り「60年代以前の米国では…政治的スペクトラムの左側にいない有力ユダヤ人知識人・活動家を見つけるのは殆ど不可能だった」のであり、私はCofnasがその期間にユダヤ人コミュニティの力がどこに向いていたのか無視していることを指摘する。

彼はまた、ユダヤ系アメリカ人の保守派の中で最重要グループであるユダヤ人ネオコンが移民推進派であり、アメリカユダヤ人の大多数の態度に沿って社会問題に関して共和党を左傾化させてきたことを無視している。

 

・60年代のスウェーデンの移民問題に関する極めて重要な討論では、全てのユダヤ人寄稿者が多文化主義を支持した。同様にオーストラリアでも、多文化主義やその他の問題についてユダヤ人のコンセンサスが存在する。「特にイスラエル支援、anti-Semitism(セム主義批判)との戦い、ユダヤ人デイスクール教育による同化の阻止」(Rubenstein, 1995: 7)。

 

・the default hhypothesisでは、ユダヤ人から始まりユダヤ人が支配する有力な運動の内部力学と動機について書くのを避け、純粋に統計的な分析しかしていない。しかし、これらの運動の動機と内部力学の理解は、間違いなく追及する価値のある課題である。

 

Cofnasの説明は、これら全ての領域で欠陥がある。彼はユダヤ人の歴史と活動に対する極めて不十分な見解を形成している。

批判の文化の抄訳

Praeger版1998年の序文

 

本書はユダヤ教を進化論的視点から見た第三巻で最終巻である。

第一巻A People That Shall Dwell Alone:Judaism as a Group Evolutionary Strategy(MacDonald 1994;以下PTSDA)では進化論の枠組の中でユダヤ教を論じ、

第二巻Separation and Its Discontents:Toward an Evolutionary Theory of Anti-Semitism(MacDonald 1998a;以下SAID)ではセム主義批判を進化論の中で論じた。

 

民族紛争は二冊を通じて繰り返し扱ったテーマであり、本書も同様である。

しかし、前作では広い歴史の幅でユダヤ人と非ユダヤ人の流血を伴うダイナミクスとして民族紛争を論じるのが中心だったが、本書ではより狭い範囲、20世紀に焦点を絞る。

強いユダヤ人のアイデンティティを持つ人々がユダヤ人の利益を考えて主導した、幾つかの非常に影響力の強い知的政治的運動に着目した。

ボアズ人類学派、精神分析学、左翼の政治イデオロギーと行動、社会学のフランクフルト学派、ニューヨーク知識人達。

加えて、特に北西ヨーロッパ出身の非ユダヤ人の利益を損なうアメリカの移民政策を形成したユダヤ人の努力についても論ずる。

 

重要なテーゼとして、これら全ての運動は、西洋社会を公然と或いは分からないように変革して、セム主義批判を絶えさせてユダヤ人集団の存続に資するようにする方法だと見なされる可能性がある。

理論レベルでは、これらの運動はユダヤ人と非ユダヤ人では文化の構築や公共政策に異なる関心を持つという事実の結果に見える。

 

このプロジェクトは明らかに非常に広範囲であり、私は進化生物学、心理学、歴史学の分野から、

ハイラム・カトン、ポール・ゴットフリード、ジョン・ハルトゥング、ラルフ・ライコ、J.フィリップ・ラッシュトン、フランク・ソルター、グレイド・ホイットニー、デイヴィッド・スローン・ウィルソンらから多大なる手助けを得た。

この他にも大勢の方から手助けを得たが、残念ながらここには載せきれなかった。

また、このシリーズの編集者シーモア・W・イツコフには、初期原稿への助言と出版への役割に対して特に感謝したい。

最後に、この非常に困難なプロジェクトに最後まで付き合って頂いたグリーンウッド出版の学術研究開発担当ディレクターのジェームズ・サビンに感謝する。

 

ペーパーバック初版の序文

 

中略

 

変化と持続:欧州出身のアメリカ人の民族意識の弱体化とユダヤ人の自民族中心主義の持続から抜粋

 

その根底にあったのは、ヨーロッパの人々の民族意識の希薄化である。1920年代の移民論争と50年代60年代の移民論争を比べると興味深い。

20年代の移民制限論者は、ヨーロッパ出身の民族が征服して植民した土地に対して、恥じることなくその独占権を主張していた。

ある国への所有権は、植民地化してその国の政治的・経済的文化を樹立した民族に帰属するという、民族的利益追求を訴える議論が堂々と多数存在した。

道徳的自負を持ったこの種の移民拒否(今日ではその言葉自体が病的な意味を付与されている)は、CofCの270ページの引用にあるコロラドの議員で著名な移民制限論者ウィリアム・N.ヴェイルの発言に確認できる。

 

1940年代を経由し、そして間違いなく、60年代を経由した後には、そのような主張をすれば人種差別主義者であると見なされるだけでなく、知的にはネアンデルタール人と見なされるようになった。

実際、ベンダースキー(2000)は、そのようなレトリックが1930年代にはますます困難になっていったことを示している。

この変化は、「The Rising Tide of Color Against White World-Supremacy(白人の世界的優越に対して台頭する有色人種の波)」やコリアーズ、フォーラム、サタデーイブニングポストその他の大衆向けメディアへの多数の著作で知られる人種理論家ロスロップ・ストッダードのキャリアに見て取ることができる。

ストッダードはユダヤ人を、非常に知性が高くヨーロッパ人と人種的に異なる存在として考えていた。また、ユダヤ人の存在がボルシェビズムの成功に不可欠であったと考えていた。

しかし、彼は1930年代後半には陸軍大学校での講義でユダヤ人について言及することを完全にやめた。

ボアズ人類学派は学界の論争で完全勝利をおさめ、人間の行動を説明するために人種に言及する理論は異端に追いやられた。

ルーズベルト政権がアメリカを国家社会主義ドイツとの戦争に向かわせる中で、ストッダード自身も、人気がある影響力のある作家の地位から安全保障上のリスクの地位へと追いやられた。

 

ユダヤ人に対する考え方の変化を示すもう一つのものとして、WW2前夜のアイオワ州デモインでのチャールズ・リンドバーグの発言への反応がある。

リンドバーグの戦争不介入の訴えは、現代戦の破壊力が欧州文化の自殺になる恐怖と同時に、第二次欧州大戦が白色人種の自殺になるという彼の信念からだった。

WW2勃発直後の1939年、彼は大衆メディア向けの記事でWW2について”支配的な人々の間の力を求める戦争であり、盲目的で果てしない自殺行為になる。

西洋諸国はWW1と同様に過去のどの戦争よりも力を使い果たす可能性が高く、どんな結果であれ白色人種は必ず敗者であり、他の人種が利益を得る戦争である。

白色人種が生き残れたとしても我々の文明を更に暗黒時代に導くものになる”(Lindburgh 1939,65)と述べた。

リンドバーグは、他の人種に対する白色人種の支配を維持するために白人が団結して長期的な真の脅威である無数の非白人の群れを防ぐ必要があると考えた。

彼はノルディシストではなく、長期的にはロシアが東の中国人に対する白い防波堤になると構想していた。

彼は”チンギスハンや劣等人種の侵入を食い止められる人種と武器の西の城壁;英国の艦隊とドイツの空軍、フランスの陸軍、そしてアメリカ”(p.66)の人種同盟を提唱した。

 

しかし、共産主義下のソ連は忌まわしかった。

”残酷で無慈悲で野蛮なソ連よりは、英国や欠点だらけのドイツとの同盟の方が百倍も望ましい。

アメリカのソ連との同盟は、全てのアメリカ人、全てのクリスチャン、全ての人道主義者によって反対されるべきだ。”(in Berg 1999,422)

リンドバーグは、ソ連の残虐行為がナチスドイツのより酷いと明確に認識していた。

 

リンドバーグは1941年9月11日の有名な演説で、ユダヤ人がルーズベルト政権と英国に並んでアメリカを戦争に連れて行く主要な勢力だと訴えた。

彼は、ナチスドイツに対するユダヤ人の反応は”いかなる民族にも激しい敵を作るような”迫害を考えれば理解できると述べた。

一方彼は、ユダヤ人が持つ”この国に対する最大の脅威は、映画、報道、ラジオ、政府に対するユダヤ人の大きな所有権と影響力にある”とも述べた。

そして最も物議をかもしたのは、

”英国とユダヤ民族の指導者たちは、彼らの視点からは理解できるが我々の視点から望ましくない理由で、つまり不介入主義に反する形で我々を戦争に巻き込もうとしている”との発言であった。

 

リンドバーグの演説は、アメリカの歴史上で有名人に対しては他に類を見ない罵倒と憎悪の嵐で迎えられた。

一夜にして彼は文化的な英雄から道徳的な面での最下層民にされた。

メディアや政府に対するユダヤ人の影響力は、昔も今も測定は難しいが、相当なものであり、当時の反ユダヤ主義の感情の共通の関心であったことは確かである。

1936年に発行された小冊子の中でフォーチューン誌の編集者は、メディアに対するユダヤ人の影響力の主な源泉は、二大ラジオ局の支配とハリウッドの支配にあると結論付けた。(Editors of Fortune 1936)

彼らは、”アメリカ国内での意見形成と嗜好を操作する道具の半分はユダヤ人の手の内にある(p.62)”と指摘した。

これは、ユダヤ人が人口の2~3%に過ぎず、そのほとんどが移民一世や二世であることを考慮すると驚異的である。

この時期の主要メディアのユダヤ人による支配のリストを簡単に挙げると、

 

ニューヨークタイムス(スルツバーガー家の最有力紙)

ニューヨークポスト(ジョージ・バッカー)

ワシントンポスト(ユージーン・マイヤー)

フィラデルフィアインクワイアラー(M.L.アネンバーグ)

フィラデルフィアレコードとカムデンクーリエポスト(J.デービッド・スターン)

ニューアークスターレッジャー(SIニューハウス)

ピッツバーグポストガゼット(ポール・ブロック)

CBS(ウィリアム・パーレイの主要なラジオネットワーク)

NBC(デービッド・サーノフ)

主要なハリウッドの映画スタジオ全部

ランダムハウス(ベネット・サーフの最も重要な出版社)

 

大衆音楽で圧倒的地位にあり、数千万のリスナーを持ちラジオ番組でボブ・ホープと並び視聴率王であったウォルター・ウィンチェルは、介入への反対について

”非良心的であり、一種の反逆になる”(Gabler 1995,294)と話した。

この”介入主義の旗手”ウィンチェルはユダヤ人であった。

彼はこの時期ADLと緊密な関係にあり、ADLから非介入主義者やナチス同調者の活動の情報を入手し、それを放送や新聞のコラムに使っていた。(Gabler 1995,294-298)

 

映画業界が実際にナチスに反対し、介入を支持するプロパガンダを行ったのは疑いの余地が無い。

1940年5月、ワーナーブラザーズスタジオは、ルーズベルトに次のように語った。

”個人的に、映画業界としてはトーキングスクリ-ンを活かして、途方もない犠牲を払っているヨーロッパの自由な人々の大義の価値をアメリカ人に伝えることに全力を尽くしたい。”(in Gabler 1988,343)

1940年後半に、ジョセフ・ケネディはハリウッドのエリート達に対して、戦争促進と反ナチス映画の製作をやめなければセム主義批判が台頭するリスクがあると説教した。

リンドバーグのデモイン演説の直前、ジェラルド・ナイ上院議員は、ハリウッドの外国生まれのオーナー達が

”海外の特定の原因に対する暴力的な敵意”(Gabler 1988,344-345)を抱いていると訴えた。

映画業界の代表者達は、自分達がルーズベルト政権に支援されているのを自覚して、”アメリカに国家的危機を意識させる”ことを熱心に正当化した。

 

ハ-バード大学の歴史家ウィリアム・ランガーはアメリカ陸軍大学校での講義で、アメリカでのナチスドイツに対する嫌悪感の高まりが、メディアにおける”ユダヤ人の影響力”によるものだと発言した。

 

もし私がユダヤ人であるならば、ほとんどのユダヤ人が感じるのと同じようにナチスドイツについて感じるだろうし、ニュースがそのようなユダヤ人の嫌悪の色合いを帯びるのは、アメリカの最も重要な新聞の幾つかがユダヤ人の支配下にあるから当然であろう。

例えばニューヨークタイムズを読むと明らかに、ドイツでちょっとしたトラブル(なにしろ人口7000万人を抱えるドイツでは当然である)があるたびに、それが大げさに取り上げられている。

そしてそれ以外のニュースは控えめに取り上げられるか、軽蔑と共に後回しになる。

そのため、あなたがそこから得る情報はドイツ人を理解する上で何の役にも立たないであろう。(Bendersky 2000,273)

 

また、シカゴ・トリビューンの非ユダヤ人のオーナーであるロバート・マコーミックが、個人的にはアメリカの反ドイツ政策の背後でユダヤ人が重要な役割を果たしていると懸念を持っているにも関わらず、”ユダヤ人の扱いに慎重”であったことも興味深い。(Bendersky 2000,284)

このことは、ユダヤ人のパワーに対する懸念、つまり広告収入への悪影響の懸念がマコーミックにのしかかっていたことを示す。

結局のところ、当時メディアにおけるユダヤ人のパワーが大きかったというリンドバーグの意見に同意するのは合理的だと思われる。

勿論これは、当時のメディアをユダヤ人が支配していたとか、他の影響が重要ではなかったということを意味するものでは無い。

 

また、ルーズベルトがユダヤ人顧問サミュエル・L.ローゼンマン、フェリックス・フランクフルター、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアから反ドイツ人の影響を受けていることをたびたび米軍将校達が懸念していたことにも注意したい。

彼らは、ユダヤ人の利益追求と英国の影響によって、アメリカがドイツとの戦争に突き落とされるのではないかと心配していた。

フランクフルターとモーゲンソー・ジュニアは二人とも強いユダヤ人アイデンティティを持っており、ユダヤ人グループの利益を巧みに擁護していた。モーゲンソーはシオニズムとユダヤ人難民への福祉を熱心に推進した。

二人ともアメリカの対独戦争参戦を支持し、モーゲンソーはWW2の期間中とその後のドイツ人達への過酷な待遇の擁護者として良く知られるようになった。

 

さらにこの時期、ユダヤ人が特定の問題に対して大きな影響力を持つようになっていったことは疑いの余地は無い。

例えば、シオニスト組織は政府に対して強く圧力をかけた。(e.g.,Bendersky 2000,325)

WW2の間に彼らは、”大声での外交”を行い、何千もの集会、有名人(同情的な非ユダヤ人の著名な役割を含め)の講演による晩餐会、手紙によるキャンペーン、会議、ロビー活動、好ましくない記事を掲載した新聞への脅迫、

新聞にニュース記事としてのプロパガンダの挿入、政治家やウィル・ロジャースのような非ユダヤ人の有名人に支援の見返りの金銭を支払う等々のことを行った。

1944年までに、”何千もの非ユダヤ人の組織がシオニズムに有利な声明を出すようになるだろう。”

1944年には、国務省と陸軍省のユダヤ人国家建設への強い反対にもかかわらず、共和党と民主党の双方の政策にシオニスト寄りの強い内容が盛り込まれた。

 

中略

 

共産主義へのユダヤ人の関与 から抜粋抜粋

 

”赤の戦士たちよ、奴らを打ち負かせ!力の限り奴らを攻撃しろ!今すぐ!今この時に!今!…

赤軍の兵士たちよ、奴らを虐殺し、奴らの腐敗して悪臭を放つ棺桶の蓋が持ち上がるのをもっと強く踏みつけろ!”

(イサク・ババル、シンシア・オジクによればボルシェビキ革命のプロパガンダを請け負う”鋭敏な意識を持つユダヤ人”)

 

CofCで問題提起したものに関連する別の最近の進展として、The Black Book of Communism Crimes,Terror,Repression(共産主義下の犯罪、恐怖、弾圧に関わった危険人物リスト)(Curtois et al.1999)の出版がある。

この本は、私がCofCの第三章で展開した考えを拡張させた。

私は、ソビエト政権の真に恐ろしい本質と、共産主義の台頭と維持にユダヤ人が果たした役割の両方について充分に強調できていなかった。

 

中略

 

Culture of CritiqueからCulture of Holocaustへ から抜粋

 

CofCではユダヤ人の知的・政治的活動が支配する”Critiqueの文化”について論じているが、一世紀前に支配的であったもの、ヨーロッパの伝統的文化形態に代わる新しい文化の決定的な要素については十分に注意を払っていなかった。

この新しい文化の中心には”The Holocaust”と称される、西欧社会における極めて重要な歴史的・文化的イコン(聖遺物)の高みに押し上げられた、WW2時のユダヤ人の苦難の体験がある。

CofCの出版以降、現代の生活におけるThe Holocaustの政治的・文化的機能について二冊の本が登場した。

ピーター・ノヴィックの「アメリカ人の生活におけるThe Holocaust」と、ノーマン・フィンケルシュタイン「The Holocaust Industry(ホロコースト産業/業界)」である。

ノヴィックの本は二つの内ではより学術的なもので、The Holocaustが民族紛争の帰結を象徴するものとして卓越した地位を占めていることを指摘している。

The Holocaustの重要性は自然発生的ではなく、主要メディアに干渉できる個人のユダヤ人達とユダヤ人組織による高度に集中した資金力豊富な努力によって発生した、と彼は主張した。

 

私達はただの”啓典の民”ではなく、ハリウッド映画やテレビのミニシリーズ、雑誌記事、新聞のコラム、コミック、学術シンポジウムの民でもある。

The Holocaustに対する高い関心がアメリカのユダヤ人の間で広まった時、ユダヤ人がアメリカのメディアや世間の意見を形成するエリート達の間で占める重要な役割を考えれば、それが文化全体に広まるのは当然で、避けられないことであった。(Novick 1999,12)

 

The Holocaustは当初、1967年と1973年のアラブ・イスラエル戦争の後に。イスラエルへの支持を集めようとして宣伝されたものであった。

”ユダヤ人組織は、(描かれている)イスラエルの困難は、世界がThe Holocaustを忘れてしまったせいで生じていると主張した。

The Holocaustの枠組みは、イスラエルを批判する正当な根拠を見当違いなものとして受け流し、その善悪が複雑であるという可能性を人々に考えさせることさえ阻止することを可能にした。”(Novick 1999,155)

イスラエルに対する脅威が鎮静化すると、The Holocaustはユダヤ人アイデンティティの主要な源泉として、またユダヤ人に対する同化と人種間婚姻の要求をはねつけるために用いられるようになった。

この期間中には、The Holocaustはセム主義批判への対抗手段として非ユダヤ人達に対しても促進された。

近年では、ユダヤ人組織が主導し、数千人のThe Holocaustのプロフェッショナルが動員された大規模な教育活動(いくつかの州では公立学校の必修科目にも)が行われ、”寛容と多様性は善であり、憎しみは悪であり、全体の教訓としては’人間に対する人間の非人間性’”を伝えることが目的とされている。

The Holocaustはこのように、マイノリティの民族グループ(本来の意味ではユダヤ人グループ)に向けられた暴力に対する道徳的反発を生み出すための象徴としてだけでは無く、西欧社会への多民族の大量移民に反対する人々を黙らせるための道具としても、ユダヤ人の民族利益のための手段になっている。

CofCで説明したように、多民族の大量移民を促進することは、ユダヤ人グループの19世紀後半以降の悲願であった。

 

ユダヤ人のHolocaust活動家は、”The Holocaustの理解の不可能性と説明の不可能性”を主張した。(Novick 1999,178)

これは、その発端・動機に関する全ての理性的あるいは合理的な議論を消して、民族対立に基づく暴力のその他多数の事例と比較されるのを阻止する試みであった。

”多くの戒律に厳格なユダヤ人でさえ、ユダヤ教創始の神話について、自然主義に基づいて合理的な学問的分析で議論するのを受け入れることがしばしばある。

しかし、The Holocaustの’説明不可能な謎’に関しては、理性的・合理的な研究は不適切で畏れ多いものだとして受け入れたがらない”

The Holocaustの活動家であるエリー・ヴィーゼルは、”The Holocaustの宗教的意義は’シナイでの啓示と同等のもの’である。

The Holocaustの’神聖さを減らそうとする’とか’神秘性を減らそうとする’試みは、彼曰く、分かりにくい形態でのセム主義批判である”

The Holocaustは他と比較しようのない不可知なものとして扱われており、ユダヤ人組織とイスラエルの外交官は協力して、アメリカ議会がアルメニア人虐殺を記念するのを阻止した。

”ユダヤ人はThe Holocaustの特殊性、とにかく’比較されてはならないこと’を認識していた。The Holocaustは何かに匹敵されることは絶対に無かった;比較され得ないものは何か比較対象を持つことは無い”

ADL代表のエイブ・フォックスマンは、The Holocaustは”単なる虐殺の一例では無く、神に選ばれた子供たちの生活、ひいては神自身に対するほぼ成功した試み”だと述べた。

これはThe Holocaustの宣伝とユダヤ人のエスノセントリズムのより先鋭化した形態の間の深い関係をよく示している。

 

その結果、アメリカのユダヤ人達は自分達自身を”絶対的な犠牲者”とはっきり定義できるようになった。(Novick 1999,194)

このような傾向の表れとしてThe Holocaustの活動家サイモン・ウィーゼンタールは、ユダヤ人がいつ、どこで、誰に迫害されたかを一年365日分編集したカレンダーを作成した。

The Holocaustの意識は、被害者意識の究極的な表現であった。The Holocaustは、セム主義批判の当然かつ必然的な終着駅を象徴するようになった。

”セム主義批判の事件に対しては過剰な反応など存在せず、その蔓延する危険に対しては危険の誇張など存在しない。

アメリカ社会にセム主義批判の危険な兆候があるという考えを嘲笑する人は’The Holocaustの教訓’を学んでいない。”

 

ユダヤ人はThe Holocaustの宗教図において絶対的な被害者として描かれているが、非ユダヤ人の大半は潜在的あるいは実際のセム主義批判者として描かれている。

”道義的に正しい非ユダヤ人”は容認されているが、その選抜基準は厳格である。彼らは、ユダヤ人の命を救うために自分自身や家族の命を危険に晒していなければならない。

”道義的に正しい非ユダヤ人”は、”最高の、最も稀な形態の自己犠牲的な勇敢な行為”を見せなければならない。(Novick 1999,180)

そのような人物は極めて稀であり、それ以外の理由で”道義的に正しい非ユダヤ人”について話すユダヤ人は、激しい批判に晒されることになる。

つまり、”非ユダヤ人に対する猜疑心の促進”というユダヤ人の要塞化されたメンタリティーを補強しているのである。

ある著名なユダヤ人フェミニストは、このような態度を典型的に示している。”自意識の強いユダヤ人は皆、非ユダヤ人の友人に’自分をかくまってくれないか?’と尋ねることを切望しているが、良い返事が返ってこないのを恐れて躊躇している。”

 

ユダヤ人の間では、The Holocaustに関する意識は非常に高い。1998年の調査によると、ユダヤ人のアイデンティティにとって”The Holocaustの記憶”は”極めて重要”か”とても重要”として挙げられていた。

シナゴーグへの出席やイスラエルへの旅行等の、その他の何よりも遥かに多く挙げられていたことが明らかになっている。

確かに、アメリカのユダヤ人にとって、ユダヤ人としてのアイデンティティはアメリカ人としてのアイデンティティなどより遥かに重要である。

”近年、アメリカのユダヤ人がアメリカへの忠誠心よりもユダヤ人グループへの忠誠心を優先させることが、許されるだけにとどまらずむしろ賞賛されるようになってきている”(Novick 1999,34)

 

しかし、The Holocaustへの関心はユダヤ人の間でだけ高いものでは無く、アメリカの文化的聖遺物としても制度化されている。

アメリカ中に点在するThe Holocaust記念博物館や、公立学校におけるHolocaustに関する必修コースの急増に加えて、現在ではThe Holocaustの研究に関する寄付講座を持つ大学も増えてきている。

”アメリカ国内にある全てのThe Holocaust関連施設を考慮すると現在では、その記憶を生かしておくことだけに専念する数千人のフルタイム雇用のThe Holocaustの専門家達が存在していることになる。”(Novick 1999,277)

 

この取り組みは大きな成功を収めている。1990年の調査では、大多数がThe Holocaustを”歴史上最悪の悲劇”であったとする意見で一致している。

最近では、文化的聖遺物としてのThe Holocaustの主な推進力は、多文化主義の承認である。

調査対象者の8割から9割は、マイノリティの権利を守ることの必要性に同意し、”ほかのみんなと一緒に歩く”のを拒むことこそがThe Holocaustから引き出される教訓であると答えた。

回答者達はまた同様の割合で、”The Holocaustが二度と起こらないためには、The Holocaustの話を人々が繰り返し聞くことが重要である”とも答えた。

 

このような取り組みは、”ユダヤ人についての批判的な議論が事実上不可能なドイツでは恐らくこれ以上に効果的であった。

保守的であれリベラルであれ現代のドイツ人が、ユダヤ人、The Holocaust、そして戦後のドイツ社会へのその影響について、狭く定義された体系化された信仰の範囲外に出た発言をすれば、職業的・社会的な自殺になる危険がある。”(Anderson 2001)

ユダヤ人知識人の創作物に関する議論が、非ユダヤ系ドイツ人をほぼ排除することで、ドイツ人全体の知的生活を支配するようになった。

ヴァルター・ベンヤミン、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ハンナ・アーレント、パウル・ツェラン、ジークムント・フロイトなど、これらユダヤ人知識人の多くはCofCの主題である。

””ショア・ビジネス”は現代のドイツの文化的・政治的生活の定番となっている。ドイツ人は、The Holocaustとその記憶を維持する継続的な責任についての議論で生計を立てており、

ベルリンの歴史的中心部でユダヤ人の死者を追悼する巨大な記念碑を建てる運動、あるいはアメリカの学者ダニエル・ゴールドハーゲンのドイツの国民性に対する粗野で歴史に反する暴言を聞くために群がることを好む。”

学者達は、知的評論の正常な基準の感覚を完全に喪失しており、ナチズムによるユダヤ人犠牲者のアイデンティティを多かれ少なかれ持つようになった。

 

例えば、The Holocaust詩人であるパウル・ツェランは、他の全ての20世紀の詩人達を過去のものにし、文化の中心的人物となった。

彼の作品はもはや合理的な評論を飛び越えてどこかに行ってしまっており、ある種の馬鹿らしい神秘主義に包まれている。

”率直に言って、私はドイツでツェランの名前が神聖不可侵で手に負えないオーラをまとっていることを問題視している。彼の名前が知的議論の切り札のように機能し、議論を封じたり他の主題を排除するのは問題だ。”

カフカのようなユダヤ人作家は、評論の対象を超えてどこかに行ってしまった知的な巨人と見なされている。カフカの作品についての議論は彼のユダヤ人としてのアイデンティティに焦点が当たっており、1924年に亡くなったにもかかわらずThe Holocaustと関連付けて語られる。

ユダヤ人作家のものであれば、大したことのない作品でも文学の正典の最上位のものとして扱われている。一方で、トーマス・マンのようなドイツ人は主に、上流社会で受け入れがたいユダヤ人観を持っていたという点でのみ論じられる。

アメリカではドイツ人の学者達は、ユダヤ系ドイツ人の作品、迫害や虐殺を扱うようなコースばかりを押し付けられる。

ドイツ人の文化としてのドイツ文化は、The Holocaustの文化に完全に取って代わられて消滅したと考えてもおかしくは無い。

 

ノヴィックと同様に、フィンケルスタイン(2000)も”The Holocaust業界”を機能主義の観点から扱い、ヨーロッパの政府や企業からユダヤ人組織に資金を提供させる手段として、また、イスラエルの政策やアメリカのイスラエル政策への支援を正当化するための手段として機能していると主張した。

またフィンケルシュタインは、The Holocaustを活用することで、ユダヤ人グループは全米で最も裕福で強力な集団でありながら被害者としての地位も主張できるようになったと述べた。

ノヴィックはまたこのように指摘した。The Holocaustのイデオロギーは、その他の何とも比較されない力と、説明されることを拒む力にこそ存在する。

しかしフィンケルスタインは、The Holocaust業界が、セム主義批判的な態度や行動は完全に非ユダヤ人の不合理な嫌悪から生じたものであり、利害の衝突とは無関係だという考えを助長していることも強調している。

例えばエリー・ウィーゼル”2000年間…我々は脅かされてきた…何のために?何の理由もなく”(in Finkelstein 2000,53)”。

(対照的に、拙著「Separation and its Discontents」(MacDonald 1998a)での大前提は、歴史を通じたセム主義批判的な態度や行動は利害の対立にしっかりと根ざしているというものである)

フィンケルスタインは、イスラエルの作家であるボアス・エブロンの言葉を引用して同意している。

”The Holocaust認識”は”公式の、プロパガンダ的な洗脳教育であり、スローガンと誤った世界観の押し付けであり、その真の目的は過去の理解では全く無く、現在の操作にある。”

 

フィンケルスタインは、エリー・ウィーゼルの言葉を引用して、The Holocaust業界を支えるメディアの役割を指摘する。

”私は気分を良くしたいとき、ニューヨーク・タイムズのイスラエルに関する記事を読む。”

スルツバーガー家が所有するニューヨーク・タイムズは、”The Holocaust産業の主要な宣伝媒体としての役割を担っている。この新聞は、ジャージー・コジンスキー、ダニエル・ゴールドハーゲン、エリー・ウィーゼルのキャリアを促進する主要な役割を果たした。

報道の頻度では、The Holocaustは毎日の天気予報の次に多い。典型として、ニューヨーク・タイムズの1999年版インデックスにはThe Holocaustのエントリーが273個もある。これと比較して、アフリカのエントリーは全体を合わせて32項目しかない。”(Finkelstein 2001)

The Holocaust業界は、物分かりの良いメディア以外にも、アメリカ政府に対する権力を利用して、外国政府、特に東欧の政府に圧力をかけている。

 

現代のユダヤ人の倫理的態度に蔓延するダブルスタンダード(そして、歴史を通じてユダヤ人達の宗教作品に見られる同様の倫理的ダブルスタンダードを反映している)を痛烈に示唆するものとして、

フィンケルスタインは、イスラエルのバラク首相を含む50か国の代表が出席した2000年の1月のThe Holocaust教育会議について述べている。

この会議では、国際社会は虐殺、民族浄化、人種差別、外国人排斥に反対する”厳しい責任”を負っていると宣言した。

会議終了後、記者がバラク氏にパレスチナ難民について質問した。”バラクはこう答えた。絶対に、イスラエルに来る一人の難民も受け入れない。我々は難民に対する道徳的、法的、その他の責任を負うことは無い。”

 

ユダヤ人とメディア”物の見方・考え方”の形成 抜粋

 

どう考えても、ユダヤ民族はアメリカのメディアにおいて強力な影響力を持っており、他のどの特定の集団の力よりもはるかに大きい。

人口に占めるユダヤ人の割合の少なさを考えると、アメリカの大衆メディアにおけるユダヤ人のオーナーシップと影響力の大きさは驚異である。

1980年代に行われた調査では、映画界のエリートの代表例の60%がユダヤ人であった。(Powers et al.1996,79n13)

マイケル・メドベドはこう指摘した。”大衆文化におけるユダヤ人の権力と卓越性の現実を否定する試みは無意味である。各主要映画スタジオで最も影響力の強い製作幹部をリストアップすれば、その大部分は明らかにユダヤ人の名前である。

ティンセル・タウンのニュースレポートを追ったり、主要な映画やテレビ番組のクレジットを見れば、このユダヤ人の役割は明らかである。”

 

メディアのオーナーシップは常に流動的であるが、現在のアメリカにおけるユダヤ系民族のメディアのオーナーシップについては以下のように正確に描写できる。

 

最近、America On LineとTime Warnerが合併して、世界最大のメディア企業が誕生した。新会社の最高経営責任者は、かつてTime Warnerのトップであったゲラルド・レヴィンである。AOL-タイムワーナーは、

テレビ(Home Box Officeなど)

音楽(ワーナー・ミュージック)

映画(ワーナー・ブラザーズ、Castle Rock Entertainment、New Line Cinema)

出版(タイム、スポーツ・イラストレーテッド、ピープル、フォーチューン)を保有する。

 

第二位のメディア企業は、マイケル・アイズナーが率いるウォルト・ディズニー・カンパニーである。ディズニーは、

映画(ウォルト・ディズニー・スタジオ傘下のウォルト・ディズニー・モーションピクチャーズグループには、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、タッチストーン・ピクチャーズ、ハリウッド・ピクチャーズ、キャラバン・ピクチャーズ、ミラマックス・フィルムズ)

テレビ(Capital Cities/ABC(ABCテレビネットワークのオーナー)、ウォルト・ディズニー・テレビジョン、タッチストーン・テレビジョン、ブエナビスタ・テレビジョン、ESPN、ライフタイム、A&Eテレビジョン・ネットワーク)および一億人以上の加入者を持つケーブルテレビ・ネットワーク、

ラジオ(3400以上の関連会社と主要都市の26の基地の所有権を持つABCラジオネットワーク)

出版(7つの日刊紙、フェアチャイルド・パブリケーションズ、およびダイバーシファイド・パブリッシング・グループ)等を保有する。

 

第三位のメディア企業は、同じくユダヤ人のサムナー・レッドストーンが率いるバイアコムである。バイアコムは、

映画(パラマウント・ピクチャーズ)

テレビ(CBSテレビネットワーク、MTV{とりわけ文化保守主義者による批判の焦点}、ニコロデオン、ショータイム、テレビ局13社、テレビネットワーク3社の番組)

出版(サイモン&シュスター、スクリプナー、フリープレス、ポケットブック)

ビデオレンタル(ブロックバスター)

加えて衛星放送、テーマパーク、ビデオゲーム等を傘下に収めている。

 

もう一人の主要なメディア界の実力者は、世界ユダヤ人会議の議長でもあり、シーグラムの財産相続人であったエドガー・ブロンフマン・シニアの息子であるエドガー・ブロンフマン・ジュニアである。

2000年の12月にフランスのヴィヴェンティと合併するまで、映画製作会社であるユニバーサル・スタジオと世界最大の音楽会社であるユニバーサル・ミュージック・グループ(ポリグラム、インタースコープ、アイランド・デフジャム、モータウン、ゲフィン・DGCレコーズを含む)を率いていた。

合併後、ブロンフマンは新会社ヴィヴェンティ・ユニバーサルの取締役副会長に就任し、ブロンフマン一族とその関連団体が同社の筆頭株主となった。ブロンフマン・シニアは新会社の取締役に就任している。

 

ユダヤ人が所有する他の主要なテレビ会社には、ニューワールド・エンターテインメント(レブロン化粧品も所有するロナルド・ペレルマンが所有)、

ドリームワークスSKG(映画監督スティーブン・スピルバーグ、元ディズニーピクチャーズ会長ジェフリー・カッツェンバーグ、レコード業界の大物デヴィッド・ゲフェンが所有)などがある。

ドリームワークスSKGは、映画、アニメーション作品、テレビ番組、音楽を製作している。

スピルバーグは、ユダヤ人の民族活動家でもある。シンドラーのリストを製作した後、スピルバーグはアメリカ議会からの助成金を受けて「ショアの生存者のための基金」を設立した。

また、イギリスの軍事史家でThe Holocaustの修正主義者であるデイヴィッド・アーヴィングが起こした名誉毀損訴訟に対するデボラ・リプシュタット教授の弁護に資金提供した。

 

印刷メディアの世界では、ニューハウス・メディア帝国は、Cleveland Plain Dealer、Newark Star-Ledger、New Orleans Times-Picayuneなどの大規模かつ重要な新聞を含む26の日刊紙を所有しており、

12のテレビ放送局と全米最大のケーブルネットワークを含む87のケーブルテレビシステムからなるニューハウス・ブロードキャスティング、

週2200万部以上の発行部数を誇る日曜特集のパレード、ニューヨーカー、ヴォーグ、ヴァニティ・フェア、ブライド、GQ、セルフ、ハウス&ガーデンなどの20余りの主要雑誌、そして完全所有するコンデナスト・グループから構成されている。

 

週間発行部数230万部のニュースマガジン「U.S.ニュース&ワールドレポート」は、モーティマー・ザッカーマンが所有し発行している。

ザッカーマンは、ニューヨークの全米六位のタブロイド紙デイリーニュースのオーナーでもあり、アトランティック・マンスリーの前オーナーでもある。

ザッカーマンはユダヤ民族活動家である。最近、アメリカの主要なユダヤ人団体の統括組織であるConference of Presidents of Major American Jewish Organizationsのトップに就任した。

U.S.ニュース&ワールドレポートのコラムでイスラエル擁護を訴え、自身が会長を務めるアメリカ・イスラエル友好連盟の活性化にも貢献している。

 

アメリカのメディアで著名な別のユダヤ人活動家として、1974年からThe New Republicのオーナーを務めるマーティン・ペレツがいる。

ペレツはそのキャリアを通してユダヤ人の目的遂行、特にイスラエルの目的遂行に献身的に尽くしてきた。

1967年のアラブ・イスラエル戦争中、彼はヘンリー・キッシンジャーに”dovishness stopped at the delicatessen door”と語り、彼のスタッフの多くは、全ての問題が”ユダヤ人にとって何が良いか”という基準で決定されることを恐れていた。(Alterman 1992,185,186)

実際にある編集者は、TNRで使用する資料をイスラエル大使館から入手するよう指示されていた。

”TNRのオーナーは単なるイスラエルへの執着を超えている。彼自身そう言っている。

しかしさらに重要なのは、ペレツはイスラエルの批評家、イスラエルの批評家になろうとする人々、そしてイスラエルについて聞いたことが無いがいつか批評家になるかもしれない誰かを知っていそうな人々に執着している。”(Alterman 1992,195)

 

ウォールストリート・ジャーナルは、アメリカで最大の発行部数を誇る日刊紙で、他の24の日刊紙と週間金融誌バロンズを発行するニューヨークの企業、ダウ・ジョーンズ・アンド・カンパニーが所有している。

ダウ・ジョーンズの会長兼CEOは、ピーター・カンである。カンはWSJの会長と発行人を兼任している。

 

スルツバーガー家は、ボストン・グローブを含む33の新聞を所有するNew York Times Co.を所有している。

また、12の雑誌(それぞれ500万部以上の発行部数を誇るマッコールズとファミリーサークルを含む)、7つのラジオおよびテレビ放送局、ケーブルテレビシステム、書籍出版社3社も所有している。

ニューヨーク・タイムズ・ニュースサービスは、ニューヨーク・タイムズのニュース記事、特集、写真を、他の506の新聞社、通信社、雑誌社に供給している。

 

ニューヨーク・タイムズをユダヤ人が所有している事実は、20世紀初頭からアメリカで最も影響力が大きかった新聞であるだけに、なおさら興味深い。

スルツバーガー家に関する最近の著書(Tifft & Jones 1999)にあるように、当時も、New York World(Joseph Pulitzerが支配)、Chicago Times-Herald and Evening Post(H.H.Kohlsaatが支配)、

New York Post(ジェイコブ・シフの一族が支配)など、ユダヤ人が支配する新聞がいくつか存在した。

1896年にアドルフ・オックスは、イシドール・ストラウス(メイシーズ百貨店の共同経営者)、ジェイコブ・シフ(投資銀行家として成功し、ユダヤ民族活動家でもあった)らユダヤ人実業家数人の強い支援を受けてニューヨーク・タイムズを買収した。

”シフをはじめストラウスのような著名なユダヤ人達は…アドルフが’ユダヤ人に広く貢献できる’と信じていたので、アドルフに成功してほしいとはっきり願っていた”(Tifft & Jones 1999,37-38)。

オックスの義理の父は、AJCongressと世界ユダヤ人会議の議長であり、アメリカにおける改革派ユダヤ教の創始者である高名なラビ、スティーブン・ワイズであった。

 

このメディアの所有のパターンにはいくつかの例外はあるものの、その場合でもユダヤ民族は主要な管理の役割を果たしている。

例えばルパート・マードックのニューズ・コーポレーションは、フォックス・テレビジョン・ネットワーク、20世紀フォックス・フィルム、フォックス2000を所有している。

ただし、ニューズ・コーポレーションのアメリカにおける映画・テレビ・出版事業の全てを含むFox Groupの社長兼CEOはピーター・チャーニンである。

マードックは心の底からユダヤ民族愛好家である。彼はウィリアム・クリストルが編集するネオコンの最高峰の雑誌ザ・ウィークリー・スタンダードの発行人である。

”マードックの最も親しい友人やビジネスアドバイザーは、裕福で影響力のあるニューヨークのユダヤ人で、親イスラエルの活動に熱心であった。そして彼自身、イスラエルに対する独立した強い共感、すなわちオックスフォード時代に遡るユダヤ国家との個人的結びつきを保持している。”(Kiernan 2001)

同様に、NBCはゼネラル・エレクトリックの傘下ではあるが、NBCの社長はアンドリュー・ラックであり、NBCニュースの社長はニール・シャピロであり、二人ともユダヤ人である。

もう一つの例外は、ドイツに本拠を置くベルテルスマン出版グループである。このグループは世界最大の一般書籍の出版者であり、雑誌、新聞、音楽も所有している。ベルテルスマンの影響力のほとんどはアメリカ国外のものであるが、最近ランダムハウス出版社を買収した。

 

例外を認めたとしても、ユダヤ人がアメリカのメディアにおいてきわめて強力な地位を占めていることは明らかであり、その地位は他のどの人種・民族よりも遥かに強力である。

ユダヤ人が人口の2.5%を占めているに過ぎないことを考えれば、ユダヤ人の手にメディアの力が驚くほど集中している事実はさらに異常である。

アメリカのメディア・エリートに占めるユダヤ人の割合を59%と見積もると(Lichter et al.1983,55)、その不釣り合いな代表性の程度は2000%を超える計算になるだろう。

このような異常な格差が偶然に生じる可能性は事実上0である。

ベン・スタインは、ハリウッドのトップの地位の60%がユダヤ人で占められていることを指摘し、”ユダヤ人はハリウッドを支配しているのだろうか?もちろんそうだろう。そしてそれがどうした?”と述べた。

ユダヤ人のメディアの所有権と管理は製品に何か影響を及ぼすだろうか?

ここで筆者は、メディアが好む態度と意見は広くユダヤ人コミュニティが一般に抱いているものであり、メディアはユダヤ人のポジティブなイメージと、伝統的なアメリカやクリスチャンの文化のネガティブなイメージとを提供する傾向があることを示したい。

 

多くの学者が指摘しているように、文化の創造においてメディアの重要性はますます高まっている。

20世紀以前は、文化の創造者は主に宗教、軍事、ビジネス機関であった。20世紀を経る中でこれらの機関の重要性は低下し、一方でメディアの重要性は増してきた。(軍隊におけるこの変容についてはBendersky 2000を参照)

そして、メディアが聴衆の態度や意見を形成しようとすることに疑いの余地は無い。

culture of critiqueが存続していることを示す一端は、メディア・エリートが西欧文化に対して非常に批判的な傾向を持つ事実である。

西欧文明は失敗し、滅びゆく文化として描かれるが、最悪の場合には他の文化と比較して病的で邪悪なものとして示される。

これらの見解は、1960年代の文化の革命の以前からハリウッドでは一般的であったものの、非ユダヤ人の文化保守派の影響もあってメディアで頻繁に表明されることはなかった。

 

恐らく、ユダヤ人とユダヤ人組織が擁護してきた最も重大なものは、アメリカ合衆国が民族的文化的に同質であってはならないとする文化的多元主義であろう。

CofCで述べたように、ユダヤ人組織とユダヤ人の知的運動は、最も緩い移民政策を強力かつ効果的に推進する力として様々な形で文化的多元主義を正当化してきた。

メディアが描く文化的多元主義は、白人の非ユダヤ人で構成される均質なキリスト教文化よりも道徳的に優れ、かつ容易に実現できるものとされて、悪いように描写されることは一切ない。

文科的多元主義に反対するキャラクターは愚かで偏屈なものとして描かれる。(Lichter et al.1994,251)

その古典的代表は、ノーマン・リアのオールインザファミリーのテレビシリーズに登場するアーチー・バンカーである。

人種的民族的調和からの逸脱が、白人の人種差別の結果として描かれている。(Powers et al.1996,173)

 

テレビや映画を絶対的に支配するユダヤ人が、映画の中でポジティブに描かれるのは当然であろう。

ユダヤ人をテーマにした映画やテレビ番組も多い。

ハリウッドは”The Holocaust Industry”の振興に重要な役割を果たしており、スピルバーグのシンドラーのリストや、

ジェラルドグリーン脚本で監督マーヴィンチョムスキー、ハーバートプロドキンとロバートバーガー製作の四部構成のテレビHolocaust(1978)等がある。

ユダヤ人グループはこの二つをこれでもかと宣伝した。

1978年のThe Holocaustの宣伝は躍進を遂げた。ADLはこの目的のために16ページのタブロイド紙ザレコードを1000万部配布した。

ユダヤ人グループは主要新聞に圧力をかけて、脚本に基づいた小説を掲載させ、The Holocaustの特別な折込広告を入れさせた。

シカゴサンタイムズ紙は、地元の学校に数十万枚のThe Holocaustの折込広告を配布した。

アメリカユダヤ人委員会AJCはNBCと協力して、視聴者向けのThe Holocaust教育ガイドを数百万枚配布し、

教科書にはこの計画に関連した教材が採用され、教師が授業でThe Holocaustについて教えやすいよう工夫されていた。

ユダヤ人グループは全米協会評議会と協同して他の宣伝・教育資料も用意し、宗教指導者のための特別試写会も行った。

このシリーズが始まった日は”Holocaust Sunday”と定められて、全国の都市で様々なイベントが用意された。

全米キリスト教・ユダヤ教会議NCCJでは、この日に着用する黄色い星を配布した。

ユダヤ人の子供向けの学習案内には、The Holocaustがキリスト教によるセム主義批判の結末だと書いてあった。また、ユダヤ人のアイデンティティが弱いユダヤ人への非難が含まれた。

この大規模な宣伝は、その目的の多くを達成した。多くの州や自治体でHolocaust教育が導入され、国立Holocaust記念博物館へのプロセスが始まり、イスラエルへの支持も大きく強化された。

 

一般的に、テレビはユダヤ人を”敬意、相対的な深遠さ、愛情、善意と共に描写し、これら番組のユダヤ人キャラクターははっきりユダヤ人と分かるようにされ、大抵ユダヤ教との強い関連も描かれる”(Pearl&Pearl 1999,5)

例えば、オールインザファミリーと続編アーチーバンカーズプレイスでは、労働者階級の欧州人を愚かで偏屈な人物として描写する一方で、ユダヤ人をとてもポジティブに描いた。

12年間の最終回までに、宿敵のアーチーバンカーでさえ自宅でユダヤ人の子どもを育てるようになり、黒人系ユダヤ人(ユダヤ教が民族的意味を含まないことを示唆するキャラクター)と仲良くなり、

ユダヤ人パートナーとのビジネスを始め、シナゴーグの会員になり、ユダヤ式葬儀で親友を讃え、バルミツワーの儀式に参加し、シナゴーグを破壊から守る運動に加わった。

リベラルな政治活動化ノーマンリアが製作したこれらの番組ではこのように、非ユダヤ人がユダヤ教の儀式に参加し、”それを尊重し、楽しみ、学びがある”姿を描くテレビの一般的傾向を明らかにする。

それらが頻繁に登場し積極的に関与することは、これがアメリカの日常生活の正常な一部であるというステレオタイプを人々に植え付けた。

ユダヤ教の儀式は”喜ばしい気高いものであり、それを見る人々にも力と調和と充足感とアイデンティティの感覚を授けるもの”として描かれた。

 

テレビはユダヤ人問題について、主流のユダヤ人グループの見解に沿ったイメージを提示する。

”セム主義批判を、あらゆる場面で戦われなければならない常に醜い忌まわしいものとして描写している”

セム主義批判の合理的な説明がされることは決してない。セム主義批判は絶対的で不合理な悪としてのみ描写される。

メアリータイラームーアのような好感の持てるポジティブな非ユダヤ人のキャラクターがセム主義批判との戦いを導くのも定番のストーリーだ。

これは、非ユダヤ人がユダヤ人が支配する運動の著名なスポークスマンに採用されるCofCで指摘したパターンを彷彿とさせる。

また、セム主義批判はコミュニティ全体の共通の懸念だという暗示も含まれている。…

 

イスラエルに関しては、”全体として、大衆向けテレビはイスラエルについて、ディアスポラを感情的に強く引き付けるユダヤ人の故郷であることや、敵に囲まれて永続的な危険に晒されていること、

その生存のために絶えず命懸けの戦いをしなければならないために、治安と情報の分野でしばしば異常な(時には不正な)手段を強いられているように描く”(Pearl&Pearl 1999,173)

非ユダヤ人は、イスラエルとその英雄主義と業績に対して深い賞賛と尊敬の念を持っているように描写される。

イスラエルはホロコースト・サバイバーにとっての楽園であるとされ、クリスチャンはホロコーストの償いのためにイスラエルに対する義務を負っているように描かれることもある。

 

映画では、ジェフ・ゴールドブラムが世界を救う”頭脳派ユダヤ人”を演じる「インデペンデンス・デイ」や、ジャド・ハーシュが堅苦しいWASPの白人一家を助けるユダヤ人精神科医を演じる「普通の人々」のように、ユダヤ人が非ユダヤ人を助けるという共通のテーマがある。(Bernheimer 1998,125-126)

CofC第一章で取り上げた「アダムス・ファミリー・バリュー」もこのジャンルの一例である。

Bernheimerは、”多くの映画においてユダヤ人は、非ユダヤ人を引き上げ、啓発する道徳的模範であり、ユダヤ文化によって深く根付いた価値観を体現して人間性を他人に分け与える役割を果たす”と指摘した。

この「非ユダヤ人を救うユダヤ人」のテーマは、精神分析と急進的左翼ユダヤ人を特徴づけるものでもある。

「精神分析ユダヤ人は非ユダヤ人を神経症から救う使命を感じており、急進的ユダヤ人は世界を資本主義の弊害から救う使命を感じている。」

 

一方では一般的に、キリスト教は邪悪なもの、クリスチャンは精神病質者として描かれる。

マイケル・メドベドは、伝統的な家族、愛国心、伝統的な性生活に対するハリウッドのしつこい攻撃(CofCのハリウッドバージョン)に言及している。

しかし、最も明白な攻撃対象はクリスチャンの信仰である。

 

伝統的な価値観に対する戦争の中でも、組織化された信仰に対する攻撃では娯楽産業が明らかに最前線に立っている。

他のどの問題よりもショービジネスのエリート達と一般大衆の感覚が劇的に乖離している。

何度も何度も、プロデューサー達は普通のアメリカ人の宗教感覚をわざわざ傷つけてきた。(Medved 1992/1993,50)

 

メドベドは、キリスト教をポジティブに描いた1970年代以降の映画を一本も見つけられなかった。いくつかの例外は美術館の作品の歴史的記念品だけだった。

キリスト教が否定的に描かれた作品ならば幾らでもある。例えば、モンシニョール(1982)ではカトリックの神父が魅力的な修道女を誘惑する等の考えうるすべての罪を犯し、その後彼女の死にも関与した。

アグネス(1985)では、心を病んだ若い修道女が修道院で出産し、赤ん坊を殺害、血まみれの小さな死体をトイレに流した。

ハリウッド映画には、ミザリーの残虐な悪役キャシーベイツが身に着けた小さな金の十字架にロブライナー監督が繰り返し焦点を当てるなど、微妙なアンチクリスチャンのシーンも多い…

 

もう一つのメディアの傾向として、小さな田舎町を偏見とセム主義批判者で溢れていると描写する。

メディアコメンテーターのベン・スタインは、アメリカの田舎に対するメディアの敵意について語った。

 

”典型的なハリウッドの作家は東部の大都市、大抵はブルックリン出身の(ユダヤ人の)民族的背景を持つ。

彼はこう教えられて育つ。田舎町の人々は自分を嫌っており、自分とは異なっており、自分を狙っている(つまり、田舎の人々はセム主義批判者である)。

その結果として、彼はチャンスの度にテレビや映画で田舎の小さな町を悪く描く…

 

テレビ番組や映画は「ありのままの姿」を伝えることは無く、代わりにアメリカの知識人社会の中ののきわめて強力な小さい一部分、つまり大衆向け映像メディアの脚本家達、その物の見方考え方のみを私たちに与える…

その結果、異常で驚くべきことが起こっている。国の或る一つの文化が、その国で未だに強い魅力を持ち広く実践されている生き方に対して戦争を仕掛けた…

小さな田舎町に対する愛情はアメリカの奥深くにあり、何百万人と言うアメリカ人がそれらの町での生活を大事にしている。

しかしこの国の大衆文化は、小さな田舎町への憎しみを連日テレビ画面や映画スクリーンに吐き出している…

テレビ番組や映画はアメリカの民俗的文化であるが、非常に多くのアメリカの民衆の生き方を軽蔑しながら存在している…

アメリカ人は自分達の文化が根底から病気で暴力的で堕落していると聞かされ、そのメッセージは彼らにその文化の将来に自信をほとんど持たせてくれない。

またそれらは、彼らに自国を恥ずかしいものとして感じさせ、自分の社会が衰退しているのも当然だと思わせる”(Stein 1976,22)

 

これは、ユダヤ人の非ユダヤ人への態度と非ユダヤ人のユダヤ人に対する態度の両方において、社会的アイデンティティが非常に重要であることを示す良い例である。

アウトグループはネガティブに描かれ、イングループはポジティブに描かれる。

 

メディアへの影響力が、メディアでのイスラエルの描かれ方に大きな影響力も持つことは間違いなく、これはフィンケルスタイン(2000)のThe Holocaust Industryの主要テーマである。

イスラエルのコラムニストのアリ・シャビットは、1996年にレバノン南部の軍事衝突で100人以上の民間人が殺害されたことについてこう述べた。

”我々は単純な傲慢さから彼らを殺害した。ホワイトハウス、議会、そして多くのアメリカメディアが私達の手にわたった現在、レバノン人の命などユダヤ人の命と比べれば軽く見られるだろう”

アリエル・シャロンがイスラエルの首相として選出されたことは、対照的なもう一つの研究を提供する。

シャロンの首相選出された時と、イェルク・ハイダーの自由党がオーストリアの議会で充分な役割を果たすのに十分な程の議席を獲得した時とで、メディアの反応には大きな違いがあった。

ハイダーの当選を受けて、イスラエルを含む数か国は駐オーストリア大使を召還した。世界中の政治家がオーストリアを非難し、ハイダーがオーストリア政府に参加することを容認できないと表明した。オーストリアとの貿易を差し止めるという脅迫も飛び出した。

これらの原因となったのは、ハイダーが、WW2の間にドイツ側で戦った人の中にはSSの中も含めて多数の立派な人たちがいたと発言したからである。

ハイダーはまた、1930年代のヒトラーの経済政策の中の幾つかは理にかなっていたとも発言した。

そしてハイダーはオーストリアへの移民流入を遮断することを訴えていた。

ハイダーはこれらの発言について謝罪したが、彼の党の選挙での躍進の結果として彼はオーストリア中で排斥され迫害され、彼個人に対するメディアの継続的な警告の弾幕が張られた。

 

これを2001年のアリエル・シャロンのイスラエル首相への選出と比較してみよう。

1982年の9月、イスラエル国防相だったシャロンは、レバノンのベイルート郊外のサブラとシャティーラ難民キャンプで、女性と子供を含む700人から2000人の虐殺の作戦指揮を執っていた。

ニューヨークタイムズのジャーナリストであるトーマス・フリードマンは、”壁に並べられ、手足を縛られた20代から30代の若者の集団が、犯罪組織がやるようなやり方で皆殺しにされた”のを目撃した。

イスラエル軍の指揮官同士の無線通信は傍受されており、彼らは難民キャンプでの”掃討作戦”の実行について話し合っていた。

殺戮の実際の下手人はイスラエルに支援されたレバノン人クリスチャンだったが、イスラエルは虐殺が実行された二日間にわたって難民キャンプを閉鎖した。

この事件を調査するために組織されたカハン委員会は、シャロンがこの虐殺の間接的な責任を持つとし、シャロンは個人として犯罪責任を負っていると結論付けた。

 

シャロン当選に対するアメリカメディアの反応は、控えめに言っても地味なものに過ぎなかった。禁輸措置の脅迫がなされることなど無く、駐イスラエル大使の召還もなかった。

ロサンゼルス・タイムズは、シャロンが”過失から学んだ”というコラムを忠実に掲載した。2001年の6月にシャロンは、虐殺の生存者の証言に基づいてベルギーで戦争犯罪人として起訴された。

また、シャロンの側近で、2001年10月に暗殺されるまでイスラエルの観光大臣であり、強力な安全保障内閣のメンバーであったレハバム・ゼヴィが、パレスチナ人を”寄生虫”と表現し、イスラエルの占領地域からパレスチナ人を追放しようと提案したことも注目に値する。

ゼヴィは、パレスチナ人がイスラエルに不法に住んでいると述べ、”寄生虫を駆除するのと同じ方法で、イスラエル市民でないものを取り扱うべきだ。私達はこのガンが体に広まる前に止めなければいけない。”と述べた。

 

ユダヤ人組織とインターネットでのセンサーシップ

 

CofCで私は、”アメリカで民族紛争が激化するにつれて、多文化主義のイデオロギーにテコ入れするために、規格に準拠しない思想や行動に対する警察国家の自暴自棄な統制がますます試みられるようになることが予想される”と書いた。

上述のように、ユダヤ人がアメリカ社会におけるアウトサイダーから完全なインサイダーへと移行する中で、”the culture of critique”から”the culture of the Holocaust”とでも呼ぶべきものへと移行が始まっているのである。

確立されたエリートとしての地位と同時に、ユダヤ人組織は今や思想犯罪を検閲する運動の最前線を占めている。

 

インターネットは主要メディアの統制の主要な空白地帯であるが、ユダヤ人組織はインターネット検閲に挑戦する主導権を握っている。

Simon Wiesenthal Center(SWC)と3000を超える”インターネット上のヘイト・サイト”を挙げた”デジタル・ヘイト2001”と称するCDを配布している。

サイモン・ウィーゼンタール・センターとADLは共に、AOLなどのインターネット・サービス・プロバイダやヤフーなど人気のあるウェブサイトに圧力をかけて、加入者が不許可のウェブサイトにアクセスするのを制限しようと試みてきた。

最近、ヤフーはSWCによって”ヘイト・サイト”に指定された39のインターネットクラブを削除した。

インターネットオークションのサイトは、ナチスの記念品を販売したとして抗議に晒されている。

Amazon.comとBarnesandnoble.comは、ヒトラーの我が闘争を販売したとして非難を受けてきた。

ADLはまた、”Poisoning the Web:Hatred Online”という報告書を発行し、アメリカ議会に”インターネット上のヘイトの規模と影響に関する包括的な調査”を開始するよう促している。

 

アメリカ国内のオンラインサービスも、言論の自由に関して憲法上で保証していないフランス、ドイツ、オーストリア、カナダのような外国政府からの圧力を受けている。

例えば、ヤフーがアメリカ国内に本拠地を置いているにも関わらず、フランスのある裁判官は、同社のオンラインオークションを通じてナチスの資料をフランスの人々に配信することはフランスの法律に違反していると判決を下した。

ヤフーはフランスのサイトを別に作り、そこではヤフーの幅広いサービスとは異なってフランスの法律を順守しているにも関わらず、違法性が認定された。

ヤフーは、フィルタリング技術を使用して、政治的に敏感な素材がフランス国内のコンピューターに表示されないようにするか、そうでなければ一日につき13000ドル相当の罰金を払えと命じられた。

ドイツの裁判所は、外国人が他の国のウェブにコンテンツを投稿した場合でも、そのコンテンツがドイツ国内の人々にとってアクセス可能である限り、ドイツの法律が適用されると認定した。

このケースでは、オーストラリア人が自分のウェブサイトにホロコースト修正主義的な内容を掲載した場合、ドイツ国内では収監される可能性があるという判決が下された。

理論的には、この人物にその犯罪について裁判を受けさせる目的でドイツがオーストラリアに身柄引き渡しを要求することは可能である。

 

ユダヤ人組織は、ユダヤ主義批判の資料の配布を犯罪とするヨーロッパ諸国の法律を強力に支持してきた。

例えばADLはドイツ政府に、ユダヤ主義批判の資料を配布したアメリカ市民を逮捕しろと圧力をかけた。

ゲイリー・ラックはデンマークで逮捕され、ハンブルクの検察官の令状でドイツに引き渡された。彼は懲役四年の刑を言い渡され、刑期を終えたのち国外追放された。

 

この種の政府による検閲は、フランスやドイツのような国では有効であるが、憲法で保障された言論の自由の伝統が強いアメリカでは成功しない可能性がある。

その結果、アメリカでインターネットを検閲しようとするユダヤ人の努力の主な焦点は、AOLやヤフーなどの民間企業に圧力をかけて、ユダヤ人組織が認めていないサイトへのアクセスをブロックするソフトウェアを使わせることにあった。

ADLは、特定のウェブサイトを選別して遮断することができる自主的フィルター・ソフトウェアであるADL HateFilterを開発した。

しかし、最大手のISPであるAOL社はADLのガイドラインに沿った基準を設定して遵守していることを明らかにしたものの、Earthlink社などの他のISPはADLに協力しておらず、AOL社が拒否しているウェブサイトを提供する独立したウェブホスティングサイトが出現しているとADLは述べている。

 

インターネットはハイテク・コミュニティによって言論の自由のための避難所として長い間宣伝されてきたため、ADLとSWCは苦戦を強いられている。

最近ADLが発表したインターネットに関するレポートの結論には、ある種のフラストレーションが表現されている。

 

オンライン過激主義との戦いは、技術的にも法的にも非常に困難である….仮にサイトをインターネットから排除することが電子技術的には可能であったとしても、この媒体の国際的な性質が法的規制を事実上不可能なものにしている。

そしてアメリカでは憲法修正第一条が、言論の形式に関係なく言論の自由の権利を保障している。結果として、政府、企業、善意の人々はこの問題に対処するための代替的な方法を探し続けている。

 

ユダヤ人組織が、インターネット上のユダヤ主義批判の書き込みを検閲するためのあらゆる努力をしていることは明らかである。

インターネットからユダヤ主義批判のあらゆる資料を取り除くという彼らの目標実現はかなり困難であるが、長期的には非常に高い政治的利害関係があるため、多大な努力が投入されることは確実である。

アメリカでは、ADLやSWCのような組織による既存のISPへの圧力が失敗した場合、これらの企業はユダヤ系メディア企業による買収の標的になり、ユダヤ主義批判に関するウェブサイトへのアクセスが沈黙のうちに遮断されるようになり得る。

AOLは最近、既に全米規模の大規模ISPであるCompuserveと合併している、ユダヤ人が支配するメディア企業であるタイム・ワーナーと合併した。

上で示したように、AOL-タイム・ワーナーは、インターネット上での政治的意見の表現を制限せよというユダヤ人活動家組織の圧力に従った。

 

禁止されているウェブサイトの唯一の選択肢は、独自のインターネット・サービス・プロバイダーを開発することであると思われる。

これらのプロバイダーは、恐らく支援を受けてのものか比較的高価なものになり、非ユダヤ系ヨーロッパ人の民族主義運動やその他政治的に正しくないとされる表現に取り組む人々への、すき間市場を埋めることになる。

この状況は、放送・印刷メディアの現在の状況と似ている。

全てのメインストリーム・メディア(MSM)は事実上検閲されているが、アメリカン・ルネサンス(ジャレッド・テイラーが発行する白人の人種意識に基づくニュースレター)のような小規模な出版物は、繁栄はしなくとも存在し続けることは可能である。

 

しかし、そのような出版物が届くのは、人口のごくわずかな割合に過ぎない。彼らは基本的にMSMから無視されており、既に意見を共にしている人々の間にしか行きわたらない。

同じようなことがインターネットでも起こる可能性がある。サイトが存在するとしても、大多数のインターネット利用者にとっては視界に映ることも無く、気に留まることも無く、存在しないのと同じである。

大企業によるインターネットの事実上の検閲は、政府が関与しておらず、いかなる政策も既存のまたは潜在的な顧客を怒らせないための経営判断として正当化できるため、憲法修正第一条に違反することは無い。

 

結論

 

CofCは20世紀をユダヤ人の世紀、つまりユダヤ人とユダヤ人組織が極めて重要な出来事の全てに深く関与した世紀として理解する試みである。

ユダヤ人の視点から見た20世紀は躍進の世紀であった。

19世紀後半にはユダヤ人の大部分が東欧に住んでいたが、多くのユダヤ人は貧困にあえぎ、敵対的な人々と思いやりのない政府に包囲されていた。

一世紀後、イスラエルは中東での地位を確立し、ユダヤ人達は米国で最も裕福で有力なグループになり、他の西欧諸国でもエリートの地位を獲得した。

急進的な左翼でのユダヤ人の主要な役割は看過されるようになり、ナチスによるユダヤ人の犠牲は道徳的な試金石の地位を獲得し、

大規模な非白人移民、多文化主義、その他のユダヤ人の目的を推進するメインウェポンである。

それに反対する者達は知的政治的言論での辺境に追いやられて、彼らを完全に黙らせる強力な運動が現在進んでいる。

 

これは驚くことではない。ユダヤ人の人口は、グループ進化戦略としてのユダヤ教の中核を成す二つの特質によって、常に居住する社会に大きな影響を及ぼしてきた。

高い知性(富を獲得するための知性の有用さも含む)と、高度に組織化された集団で協力し合う能力である。(MacDonald 1994)

このことは、ユダヤ人が充分な人数存在する社会で、エリートかつ強力な集団となる結果を歴史上何度ももたらしてきた。

それは、15世紀のスペインや古代のアレクサンドリアと同じく、20世紀のアメリカとソ連においても繰り返された。

実際、最近のデータによるとユダヤ人の一人当たりの所得は非ユダヤ人のほぼ二倍に達し、これは黒人と白人の間の所得格差よりも大きい。

ユダヤ人は人口の3%未満に過ぎないものの、フォーブス誌の最も裕福な400人のアメリカ人の1/4以上を占めている。

大学年齢のユダヤ人の87%が現在高等教育機関に在籍しているが、人口全体では40%に過ぎない。

ユダヤ人達は間違いなくアメリカ社会でエリートグループである。

 

私の認識では、アメリカのユダヤ人コミュニティは、ユダヤ人組織が西欧諸国(現在は主に非ヨーロッパ系の大量移民の擁護に成功することで)

とイスラム世界(イスラエルによるパレスチナ人の扱いによって)で引き起こした大規模な混乱を無視して、アグレッシブに前進しているようだ。

その信念が正当化される理由が何であろうが、アメリカのイスラエル支援は、アラブ世界ではどう考えても感情的に説得力を持つ問題である。

人命の損失、経済的混乱、イスラム世界での憎悪と不信、国内での市民生活の自由の喪失等、アメリカがすでに支払ってきた莫大なコストに直面しても、イスラエル支持が維持されるのか。

これがアメリカでのユダヤ人の権力の真の試練となるであろう。

これを書いている時点で、ユダヤ人組織がアメリカ国内でのユダヤ人への反発に備え、またブッシュ政権がイスラム世界をなだめるためにイスラエルに対してパレスチナ人に譲歩するよう圧力をかけていることに、

ユダヤ人の間では懸念がある。(e.g.,Rosenblatt 2001)しかしあらゆる兆候が、911の結果によってイスラエルに対するアメリカの政治文化に根本的変更は無いことを示している。

 

一章 非ユダヤ文化へのユダヤ人の根源的評論:導入と理論

 

1500年間、ユダヤ人社会は知識人を生み出すよう設計されてきた…社会全体で知識人を後押ししてきた…富裕なユダヤ商人は賢者の娘と結婚した…

1800年ごろ、この古代から続く高効率の社会マシーンは突如その生産を切り替え始めた。その全ての生産をラビの研究の閉回路に投入する代わりに…大半の割合を世俗の分野に解き放った。

これは世界史の重大な事件である。(ユダヤ人の歴史、ポール・ジョンソン 1988,340-341)

 

Separation and Its Discontentsでの主要なテーマは、特定の姿のユダヤ主義(ユダヤ教)を合理化し、歴史を解釈し、セム主義批判と戦うためにイデオロギーを操作する点にあった。本書は多くの点でこの延長線上にある。

しかし、本書で論じる知的活動や政治活動は、通常はより広い知的および政治的世界で生じており、特定の姿のユダヤ教を合理化するためにはデザインされていない。

むしろそれらは広い意味で文化評論の努力として、時には特定のユダヤ人の利益に適合する形で、社会のより広い文化を変革する試みとして特徴づけられるかもしれない。

 

「シオンの長老たちの議定書」に描かれた非ユダヤ人の文化を弱体化させる一枚岩のユダヤ人の「陰謀」の話をするつもりはない。

啓蒙時代以降、ユダヤ教は決して一枚岩の運動では無かった。

その時代にどのように彼ら自身を守り利益を獲得していくかについてユダヤ人同士で相違があったのは明らかである。

本書で論じる運動(ボアズ人類学派、政治的急進主義、精神分析学、フランクフルト学派、ニューヨークの知識人たち)は、ユダヤ人コミュニティの多くが関係を持たない少数のユダヤ人が推進した。

しかし、これら運動を支配していたのは強烈なユダヤ人アイデンティティであり、運動を始めたのもユダヤ的なアジェンダからであった。

 

従って、ユダヤ主義(ユダヤ教)が一枚岩だとかユダヤ人コミュニティの全領域がこれらの運動に関与したと言うつもりはない。

ユダヤ人は政治的ラディカリズムや社会科学の運動を支配したり重要性を持つ可能性があり、全体の内のほんの少数であってもユダヤ人のアイデンティティがこれらの運動と高度に親和し、促進する可能性もある。

つまり、非ユダヤ人文化に対するユダヤ人の全体的な影響の問題は、多数派のユダヤ人が非ユダヤ人文化の変革を支持しなかったかどうかの問題とは切り離すべきだ。

 

この区別は以下の点で重要である。セム主義批判者は、政治的急進主義へのユダヤ人の関与を、

富裕なユダヤ人資本家やメディア、学界等へのユダヤ人の包括的な集団戦略の一部分だと暗黙的明示的に想定していることが多い。

 

一方、ユダヤ人が多くの政治的ラディカリズムを主導していることに対するセム主義批判を和らげようとするユダヤ人は、その関与者はユダヤ人内の少数派であり、非ユダヤ人も関与していると頻繁に訴える。

例えば1930年代から40年代におけるAmerican Jewish Committeeはその指摘に対し、ほとんどのユダヤ人は急進派ではないと繰り返し強調した。

とはいえ、この時期のAJCはユダヤ人社会の急進主義と戦う努力を見せた。(e.g.,Cohen 1972)

 

(1)ユダヤ人のアイデンティティが急進的政治運動と親和性があるのか、また関与を促進するか

(2)ユダヤ人が急進的政治運動の主要な部分を占めるか

(3)急進的な運動(または本書で触れた他のユダヤ人の知的運動)におけるユダヤ人の優位性から生まれる非ユダヤ人社会への影響力

これらが声明の真偽とは別として、一枚岩のユダヤ人達のグループ進化戦略としてのユダヤ主義の帰結と受け取られる可能性を

AJC自身暗に認識していた。

 

同様に、1930年代以前のほとんどのユダヤ人があからさまなシオニストではなかったからといって、

ユダヤ人のアイデンティティがシオニズムと無関係だとか、

ユダヤ人がシオニズムに支配的影響力を持たなかったとか、

シオニズムが非ユダヤ人社会に影響を与えなかったとか、

一部の非ユダヤ人が熱心なシオニストにならなかった等とは証明できない。

 

政治的急進主義は啓蒙時代以降にユダヤ人が利用できる選択肢の一つであり、ここではユダヤ教が一枚岩の集団を形成しているとまで言うつもりはない。

ユダヤ人が非ユダヤ人よりも急進的な政治の選択肢を好むこと、いくつかの急進的運動をユダヤ人が支配していたことは、それゆえこのプロジェクトに深い関係がある。

 

これらの運動に一部の非ユダヤ人が関与していたことも驚くことではない。理論レベルでは、私の考えは再び社会的アイデンティティ理論の進化論的解釈に基づいている。(see SAID,Ch.1)

非ユダヤ人は、社会的アイデンティティとイングループ・アウトグループ競争に基づく理由で、ユダヤ人が魅了される政治的知的運動に同じように惹き付けられることがある。

例えば、アフリカ系アメリカ人の知識人は、白人への敵意とそこから生じる遺伝的劣等感への対応として、左翼の知的運動や、IQの人種間格差を環境のせいにする理論に多少なりとも依拠してきた。

 

同じように、セム主義批判は多くのユダヤ系知識人のモチベーションになってきた。社会的アイデンティティにおける理論的に原始的なものとして自尊心の動機付けの役割を思い出してほしい。

かなり多くの人々が、何らかの理由で自らを特定の社会政治システムの犠牲だと感じると、そのシステムを批判し、他の人の問題を非難して、自分自身や自身のイングループに対するポジティブな評価とアウトグループに対するネガティブな評価とを広く立証する運動に惹かれる。

私が検討した知的政治的運動のそれぞれで、ユダヤ人としてのアイデンティティとセム主義批判との戦いへの関心がはっきり関係している。

 

また、ユダヤ人が知的支配を獲得すると、社会的に支配的な権威のあるメンバーの一員、貴重な資源の分配者としてのユダヤ系知識人に、非ユダヤ人は魅了されて当然である。

この視点は、集団力学の進化論的視点と合致する。

知的ヒエラルキーのステータスを求めて交渉する非ユダヤ人は、ヒエラルキーの最上位メンバーの特徴に魅了され、特にそのヒエラルキーが社会によく浸透している場合にはそれが顕著である。

非ユダヤ人にしてパルチザンレビューの編集者であった作家のウィリアム・バレットは、キャリア初期の「ニューヨーク知識人」(6章で取り上げたユダヤ系知識人集団)に対する”畏敬と称賛”について語っている。

”私にとって彼らは奇妙かつ神秘的な魅力に包まれていた”(in Cooney 1986,227)

パルチザンレビューはこの強い影響力を持つ知的運動の旗艦の雑誌であり、文壇での成功失敗を左右する力があった。

レスリー・フィードラー(1948,872,873)は彼自身ニューヨーク知識人であり、アメリカのユダヤ系作家の世代全体(デルモア・シュワルツ、アルフレッド・カジン、カール・シャピロ、アイザック・ローゼンフェルド、ポール・グッドマン、ソール・ベロー、H.J.カプラン等)

を”典型的な都市部の第二世代のユダヤ人”と評した。これらの作家の作品はパルチザンレビューに定期掲載された。

フィードラーはこう述べている。”地方からニューヨークに引き寄せられた非ユダヤ人は、自らが世間知らずだと恥じてユダヤ人に順応を試みる。そしてニューヨークで非ユダヤ人作家が作るユダヤ人作家のパロディは我々の時代を奇妙に決定的に傍証している。”

 

カドゥシン(1974,23)のWW2後のアメリカのエリート知識人のサンプルは半数がユダヤ人になった。

サンプルは、主要な知識人向けジャーナルに最も頻繁に寄稿する人物に基づいており、その後、知識人が自分の思考に最も影響を与えたと思う他の知識人へ”投票”するインタビューがあった。

サンプル中のユダヤ人の40%以上が、最も影響力のある人物として6票以上を獲得したのに対し、非ユダヤ人は15%に過ぎなかった。(p.32)従ってジョセフ・エプスタイン(1997)が、1950年代から60年代初頭にかけてユダヤ人であることが知識人の間で”尊称”だったと指摘しても驚きはない。

非ユダヤ系知識人は”先祖にユダヤ人がいないか探し回った”。(Epstein 1997,7)

 

1968年までにウォルター・カーは次のように書くことができた。

”WW2以降、アメリカの感性が一部ユダヤ的になり、恐らく他の何よりユダヤ的である。読み書きできるアメリカ人はある程度ユダヤ人のような思考様式になった。そういう風に教えられ、そうする準備もできていた。

芸能人や作家に続いて、ユダヤ人の評論家、政治家、神学者も現れた。彼らは、制度設計の専門家なので物の見方考え方を形成する。”

私の個人的経験では、このユダヤ系知識人の名誉あるステータスは今でも私の同僚の間で一般的であり、例えば1930年代から60年代の”ユダヤ人によるアメリカの学術界の民族宗教的人口動態の変容”のホリンガー(1996,4)の最近の研究で明らかである。

 

最後の主要テーマは、ここで取り上げた運動がユダヤ人主導だとかユダヤ人セクターの利益が目的だという印象を薄めるために、非ユダヤ人が積極的に運動に採用され、広告塔の役割を与えられることについてである。

社会的アイデンティティ理論の視点からこの戦略を見た場合、それら知的政治的運動が非ユダヤ人にも利益になるのだと見せるのが目的である。

SAID(Chs.5,6)で示したように、普遍主義の美辞麗句とユダヤ人の利益の守護者に採用される非ユダヤ人の存在は、昔も今もセム主義批判との戦いで繰り返されるテーマである。

 

本書で論じた運動へのユダヤ人の関与の有効性と歴史的重要性は、実際に関与したユダヤ人が少ない割には大きすぎることも忘れてはいけない。

例えば、ある時代の急進的な政治的・知的運動におけるユダヤ人が少人数に過ぎなくとも、その運動の有効性と歴史的重要性に欠かせなかった可能性が高い。

急進派のユダヤ人は高い知能、野心、粘り強さ、労働倫理、強く結束した自己献身力の高い集団を組織する能力を備えていた。(PTSDA,Ch.7)

リンデマン(1997,429)曰く”ユダヤ人の絶対数や占める割合だけを見ると、ユダヤ人ボルシェビキの自己主張と圧倒的な言語能力、熱意、信念の強さという重要な鍵を見落とす”。

これらの能力で平均を遥かに上回る傾向があるユダヤ人の特性は、歴史を通じてユダヤ教というグループ進化戦略の中心にあった。

 

アメリカのユダヤ人急進派についてソリン(1985,121-122)は、彼らの勤勉さと献身、名を残す欲望、出世欲、自分を売り込む努力、世間の評判への欲望等の

人生のあらゆる歩みに上昇志向をもたらす特徴に言及している。

当然彼らのグループは同様に働く非ユダヤ人達よりも強力で効果的になった。

”ユダヤ人プロレタリアートは、その階級の関心とその文化的アイデンティティを意識しつつ成長し、活動主義と組織も共に育っていった。”

ソリンは、1903年のロシアでの革命家の半数がユダヤ人であったという主張を受け入れて、ストライキの数と労働時間の損失から計算される1895年から1904年の間のユダヤ人の労働生産性は、

ヨーロッパの他の労働者階級の三倍であったと指摘した。

左翼サークル内では、ユダヤ人は運動の先駆者と見なされていた。

この臨界に達したユダヤ人が急進化すれば、ヨーロッパや北アメリカ全体に重大な影響があるのは当然である。

急進的であることに加えてこれらのユダヤ人は非常に優秀で知的で自己献身的な集団であった。

同様にホリンガーは、ユダヤ人は富、社会的地位、知的分野での技術力で優れていたため、アメリカにおける均質なプロテスタント・クリスチャン文化の衰退に対しても、カトリック教徒より大きな影響力を持っていたと指摘した。

 

よって、本書で取り上げた運動を起こして支配したユダヤ人は、知性、粘り強さ、団結力と協調性、一つの目的に邁進するグループを作れる非常に高い能力を兼ね備えた人々だというのが、大きなテーマである。

したがって、これらのグループは、構成員に特徴的な高いレベルのユダヤ人アイデンティティが備わっているだけでなく、

グループ進化戦略としてのユダヤ教の本質的特徴を維持していることから、歴史的なユダヤ人グループの世俗バージョンとして概念化できる。

これらの特徴によって、彼らのグループはその目的を果たす上で極めて効果的であった。

まとめると、高度に統合された協力的なグループが個人主義的な戦略を打ち負かすことが改めて確かめられた。

実際、以下の章では、ユダヤ人知識人が非常に結束力の強いグループを形成し、その影響力の大部分はグループの連帯と結束から生まれることを重要なテーマに取り上げる。

知的活動自体は非ユダヤ人と大差はないが、結束力のある集団は個人主義的戦略を打ち負かすのである。

この法則の根底にある真理は、ビジネスでの提携や取引独占、或いはここで議論した知的・政治的活動のいずれにおいても、歴史を通じたユダヤ教(ユダヤ主義)の成功の中心にあった。(see especially PTSDA,Ch.5)

 

本書のもう一つ主要なテーマは、ユダヤ人知識人が非ユダヤ人社会の制度を徹底的な批判にさらす知的運動を発展させてきたことである。

これとは逆に、非ユダヤ人が支配する社会では、現在の社会制度を説明し合理化するヘゲモニー的なイデオロギーがしばしば発展してきた。

世界の主要な宗教はそうであったし、最近では共産主義、ファシズム、自由民主主義等のイデオロギーが同様の機能を果たしていると思われる。

ユダヤ教(ユダヤ主義)は、独自の世界観にこだわる少数派戦略の立場から、周りの社会の制度やイデオロギーを否定的に捉えるイデオロギーを採用する傾向にある。

 

このような結果は、社会的アイデンティティ理論から直接導くことができる。特に顕著なのは、ユダヤ教の宗教書に見られる非ユダヤ人に対するネガティブな見解である。

清浄に関する律法では、非ユダヤ人とその土地は本質的に穢れたものである。マイモニデスの著作で非ユダヤ人女性には淫行を疑い、非ユダヤ人男性には獣姦を疑うように、ユダヤ人にとっての非ユダヤ人は最悪の堕落さえ可能な獣に例えられる。

一方でユダヤ人は、自分たちを創世記に登場するヤコブの子孫で、肌が滑らかで繊細で熟考的として概念化している。

非ユダヤ人は、ヤコブの双子の兄であるエサウで表され、ヤコブとは正反対に毛深く、粗暴で、残忍である。

エサウが狩人と戦士として生活するのに対して、ヤコブは知性と策略で生活しており、ヤコブに仕えるよう神に命じられたエサウの主人に正に相応しい。

リンデマンは(1997,5)は、これらステレオタイプが現代でもユダヤ人の間で顕著に残っていることを示した。

 

ユダヤ人が非ユダヤ文化に対するネガティブな認識を非ユダヤ人に植え付けようとすると、ユダヤ教は破壊的だとみなされることもあり得る。

ユダヤ教と破壊的なイデオロギーとの関連には長い歴史がある。

ルイス(1984,104)は、イスラム諸国におけるユダヤ人と破壊的思想との関連に注目し、ユダヤ人の破壊のテーマは”他の時代他の地域”でもおなじみであると述べた。

ジョンソン(1988,214-215)は、中世以降の改宗ユダヤ人、特に改宗を強いられたユダヤ人は、”知識人の中でも批判的、探究的で不穏分子であった”と発見した…

したがって、彼らが知的破壊者であるという主張には真実が含まれている。

中世のユダヤ美術に関する最近の本のタイトルは、このテーマをよく表している:ユダヤ人の破壊の夢・中世の美術と文学(M.M.Epstein 1997)。

エプスタインは、”中世後期のユダヤ人がキリスト教世界の破壊を訴えた時の怒りが感じられる”と述べた。

 

古代から中世にかけては、非ユダヤ人の制度に対するネガティブな見解は、ユダヤ人コミュニティ内部での消費に比較的とどまっていた。

しかし、15世紀のスペインのコンベルソ騒動以降、こうしたネガティブな見解が最も権威ある知識人サークルや大衆メディアに度々出るようになった。

これらの見解は、一般に、非ユダヤ人社会の制度に激しい批判を浴びせ、また、ポスト宗教の知的環境においてユダヤ人のアイデンティティを合理化する知的構造の発展につながった。

 

フォールは、15世紀16世紀のスペインで、キリスト教を中心とするスペイン社会の共同体の体質に反対するヒューマニスト思想家の中に、コンベルソが圧倒的に多くいたと明らかにした。

フォールはこれら作家の一般的な主張を説明する中で、”高度に洗練された文学作品の創作から学術的哲学的な作品の執筆まで、その戦略はさまざまであったが目標はただ一つ

「旧クリスチャン」の価値観や制度に代わる思想や方法論を提示する点にあった…

クリスチャンのスペインの価値観や制度を転換させることの緊急性は、1449年にトレドで旧クリスチャンが起こした最初のコンベルソ虐殺でより明白となった”と述べた。

同様にカストロは、特に社会風刺を含む”暴力的な社会批判”と”反社会的な恨み”の作品が15世紀のコンベルソの作家から生まれたことを指摘した。

 

その典型例は、フェルディナンド・デ・ロハスのセレスティーナである。

かれは”父祖の宗教を失い、クリスチャンの信仰に自分自身を統合することができないコンベルソのあらゆる苦悩、悲観、虚無感を込めて”書いた。

ロハスは、当時のカスティーリャ社会を”腐食性の分析にさらして、破壊的と呼ばれる精神で、新しい不寛容なシステムの全ての伝統的な価値観と精神構造を破壊する。

文学から始まり、宗教に進んで、制度化されたカースト制度のあらゆる「価値観」名誉、勇気、愛を通過して、全てを倒錯的に粉砕する。”と述べた。

 

このようなユダヤ人と破壊的イデオロギーとの結びつきは、ユダヤ人が西欧の公式の知的討論に参加できるようになった啓蒙時代以降も続いた。

ポールジョンソンはバールークスピノザについての著作で、彼を”ユダヤ人の合理主義が伝統的共同体の制約を脱すると、その破壊力が計り知れないことを示した最初の主要例”と呼んだ。

同様にハインリヒハイネは”ヨーロッパ文学における新しい人物像の原型である。ユダヤ人の急進的なマン・オブ・レターであり、そのスキル、評判、人気を利用して、既存の秩序の知的信頼性を傷つけた”。

 

ユダヤ人の知性の”徹底的破壊力”は、国家社会主義時代以前のドイツの重要な側面であった。

SAIDで示したように、1870年~1933年のドイツの社会的保守派と人種理論に基づくセム主義批判者の両方の顕著な特徴として、彼らはユダヤ人がドイツの伝統的生活・信念を転覆する思想の開発に寄与したと信じていた。

1920年代のドイツでは、編集者や作家の内のユダヤ人の割合は極端に高かった。

”セム主義批判が高まったより一般的原因は、反体制派のユダヤ人が社会主義と非社会主義の両方の出版物でドイツ国家そのものやドイツの慣習を攻撃する非常に強く不幸な傾向であった。”(Gordon 1984,51)

”破壊の心を袖にまとった”クルト・トゥホルスキー等のユダヤ人作家の”メディアを用いた暴力”(Pulzer 1979,97)を、セム主義批判の報道機関が広く報じた。(Johnson 1988,476-477)

 

ユダヤ人は、ワイマール時代のドイツの急進的ジャーナリスト、知識人、”文化の生産者”に極端に多かっただけでなく、本質的にこれらの運動の生みの親である。

”彼らはドイツ社会のあらゆるものを激しく攻撃した。彼らは軍隊、司法、そして一般的に中産階級も軽蔑した。”(Rothman&Lichter 1982,85)

マシング(1949,84)は、セム主義批判者のアドルフ・シュテッカーがユダヤ人の”保守的クリスチャンの世界に対する敬意の欠如”を認識していたことを指摘した。

 

ワイマール時代の大学教授達のセム主義批判は、

”ユダヤ人は現代思想の批判的あるいは”ネガティブ”な側面、つまり現代国家の道徳的な確かさ、愛国的行動、社会的結束を解体するのに役立つ「分析と懐疑の酸」を表した”(Ringer 1983,7)という認識に部分的に煽動された。

こうした認識を反映した当時の国家社会主義の宣伝は、ユダヤ人自身が、非常に結束したグループを保ちながら一方で非ユダヤ人の社会的結束を弱体化させると訴えた。

この知的ダブルスタンダードでは、ユダヤ人が”その国際的結束力、血縁、精神的一致を維持する一方、非ユダヤ人の社会的結束の基盤が激しい批判に晒された。”(Aschheim 1985,239)

この視点から見ると、ユダヤ人の知的奮闘の重要な目標は、非ユダヤ人の結束力を弱める一方でユダヤ人自身は高度に団結したグループ戦略を継続することにあると見なされ得る。

この問題は、第三章と第五章の急進的政治運動とフランクフルト社会研究所へのユダヤ人の関与の議論で再び浮上する。

 

この現象はドイツに限ったものではない。ギルソンは、世紀の変わり目のフランスでの彼のユダヤ人教授について以下のように述べた。

 

”これら大学教授達の教義は、実際には互いに全く異なっていた。レヴィ・ブリュールの個人的な哲学さえデュルケームのと正確に一致していなかったし、フレデリック・ローは独自の道を進んでいた…

彼らの教義で共通する唯一の要素はネガティブなものであるが、にもかかわらずそれ自身の秩序においては現実的であり非常に活発でもある。

それは、解放されるべき制約として社会的に考えられている全てのものに対する根本的な反抗と説明できるかもしれない。

スピノザとブランシュヴィックは形而上学を通じてこの解放を実現した。デュルケームとレヴィ・ブリュールは科学と社会学を通じて、ベルグソンは直感を通じてこの解放を実現した。”

 

また、ユダヤ人は1960年代中盤以降、アメリカ、英国、フランスにおいて、特にメディアや学術界の敵対的文化の擁護者として最前線に立ってきた。(Ginsberg 1993,125ff;Rothman&Isenberg 1974a,66-67)

シュタインによれば、1970年代のテレビ番組のユダヤ人作家とプロデューサーのサンプルは、非ユダヤ人主導の文化と見なしたものについて非常にネガティブな態度を取った。

彼らの最もネガティブな発言は、正式なインタビューよりも非公式の会話で出たものであった。

ビジネスと軍隊における非ユダヤ人のエスタブリッシュメントを描くテレビ番組は、非常にネガティブなものである傾向がある。

例えば、”作家たちは軍人を金髪で髭を剃った完全なWASPの人物として考えている。私がインタビューした数人の心の中では、この金髪の将校たちは国家社会主義者とほとんど違いが無かった。

彼らは、異なる民族的背景を持つ人々を実際にまたは潜在的に抑圧するアーリア人支配階級の一員として考えられていた”

 

実際、グレイザーとモイニハン(1963/1970)は、アメリカにおける敵対的文化の出現を、ニューヨークのユダヤ人の文化的政治的な勝利と見なした。

ユダヤ人作家や視覚芸術家(E.L.ドクトロウ、ノーマン・メイラー、ジョセフ・ヘラー、フレデリック・ワイズマン、ノーマン・リアを含む)は、

アメリカ社会を”病んだもの”として描く試みに、不釣り合いなほど深く関与していた。

文科的な破壊の一般的な手法は、”真の不公平または非合理性への攻撃を含む。全ての社会にはその両方が存在するため、標的がなくて困ることは無い。ただし、攻撃は通常、その不公平や非合理性自体に向けられたものではない。

むしろ、そうした不公平や非合理性は、社会秩序そのものの弱体化を達成するという大きな目的のための手段として使われる。”(Rothman&Lichter 1982,120)

 

本書では、ユダヤ人が主導する社会科学と急進的政治思想と精神分析学とフランクフルト学派とニューヨーク知識人が、進化論・生物学・遺伝学的知見に反対していることに焦点を当てる。

これらの運動は、文化的・遺伝的な分離主義といったユダヤ主義の特定の側面を合理化するのを目的としていない意味では、ユダヤ人専門のものではない。

重要な点は、ユダヤ人がこれらの運動の中に極端に多すぎること、彼らの内の大多数はユダヤ人のアイデンティティの強さが特徴であること、そして、それら全てが非ユダヤ人文化からの疎外と拒絶に関わることである。

 

よってこの議論は、19世紀のドイツ系ユダヤ人知識人が”多数派の文化の中で独自の文化的形態を維持した、変容するドイツ系ユダヤ人の見えざる共同体”を構成しているというソーキンの説明を反映したものである。

したがって、より広い非ユダヤ人文化に対するユダヤ人の文化的貢献は、ユダヤ人グループのアイデンティティがその”不可視性”にも関わらず最も重要であり続けるという、極めて特殊な視点から達成されてきた。

同化したユダヤ人知識人の模範ベルトルト・アウエルバッハでさえ、”ドイツ系ユダヤ人の少数派に特有の方法で多数派文化の要素を操作した。”(Sorkin 1985,107)

世俗的なユダヤ人知識人にとってアウエルバッハは、ユダヤ教を放棄せずに同化したユダヤ人の模範となった。

ほとんどの場合、これらの世俗的ユダヤ人知識人は他の世俗的ユダヤ人とのみ交流し、ドイツ文化への貢献をユダヤ教の世俗的な形態、つまりユダヤ人知識人が持つ強いユダヤ人アイデンティティの”目に見えない共同体”と見なしていた。

このようなグループの利益のための文化の操作は、セム主義批判の本に共通するテーマであった。

よって、ハインリヒ・ハイネのドイツ文化に対する批判は、非ユダヤ人社会の結束力を犠牲にして自身の集団の権力を追求するのが目的だと見なされた。(see Mosse 1970,52)

 

後々論ずる幾つかの運動では、その宣伝者たちが、真実と科学的妥当性の現代的裁定者である科学の衣をまとって美麗美句を展開したことが極めて重要である。

ホワイト(1966,2)がボアズ人類学派の人類学について述べているように、その科学のオーラは欺瞞的である。

”彼らは、自分たちの前提や結論の選択が科学的見解によって導かれたように見せかけ、全ての人に信じさせようとする。これは間違いなく科学的ではない…

彼らは明らかに誠実であるが、しかし彼らの誠実さとグループへの忠誠が、時として彼らを確信させ、その結果欺く傾向がある。”

 

この話は、ロバート・トリヴァース(1985)の自己欺瞞の進化論の優れた例証である。最高の欺瞞者は、自分で自分を騙す人々である。

時々、その欺瞞は意識的になる。チャールズ・リーブマン(1973,213)は、社会科学者としての彼の仕事での普遍的イデオロギー(行動主義やリベラリズム)を無自覚に受け入れたと述べ、

その信念の中でユダヤ人のアイデンティティが果たす役割について自己欺瞞を行っていたことを示唆した。

行動主義者(そしてリベラリスト)として、私は自分の学問的方法論について完全に無自覚であったと証明できる。そうしなければ、私が信奉する普遍主義自身が破綻してしまう。

 

非ユダヤ人社会に対するユダヤ人の過激な批判を概念化する より抜粋

 

中略

 

同様に、サモンズ(1979,263)は、ハインリヒ・ハイネとカール・マルクスの間の相互の魅力の基礎は、”彼らは改革者ではなく、Haterであり、これが二人の絆の最も根本であった可能性が非常に高い”と説明した。

この指摘は社会的アイデンティティ理論と一致し、社会批判に関与するユダヤ人知識人の根本の動機を、セム主義批判者として認識される非ユダヤ人が支配する権力構造への単なるヘイトだと提起する。

非ユダヤ人社会に対するこの深い反感は、社会学者でニューヨーク知識人のマイケル・ウォルツァーが

”ユダヤ人の生活の病理”、特に”’全世界が自分たちに全て敵対している’と言う感覚、そこから生じるゴイムへの恐れ、恨み、憎しみ、そしていつか逆転勝利するという秘密の目標”を論じた。

このような”いつか逆転勝利するという秘密の目標”は、第三章で取り上げるユダヤ人急進派と第四章で論じるフロイトと精神分析運動のテーマである。

 

確かに、敵と認識したものに対する強烈な憎悪は、ユダヤ人の重要な心理的特徴であると見なせる。

シャッツが、戦間期にポーランドの全ての共産主義者が敵を憎んでいたのに対し、ユダヤ人共産主義者はより多くの敵を識別し、より激しく憎んでいたと述べたのは注目に値する。(1991,113)

第三章で詳しく述べるように、これら共産主義グループは実際には、その構造と心理的方向性において、伝統的なユダヤ人グループに極めて似た非常に結束した集団であった。

ユダヤ人共産主義者が敵に対してより強いネガティブな感情を持っていたという提案は、PTSDAとSAIDの資料でも例証できる。

資料は、ユダヤ人が肥大した社会的アイデンティティのシステムを持ち、集団主義社会構造への不自然なほどの傾向を持つと見なされる可能性を示している。

ユダヤ人がアウトグループや敵と認識した者に向ける憎しみの強さは、こうした傾向の感情的な表れである可能性がある。

確かにPTSDAでは、ユダヤ人の感情生活が非常に区分されており、ポジティブな社会的相互作用(パラダイム的にイングループと認識されたメンバーに向けられる)と人への激しい敵意(パラダイム的にアウトグループと認識された人に向けられる)の間で切り替わる傾向を示す証拠を示した。

 

社会的アイデンティティ理論は、ユダヤ人の知的活動が、セム主義批判者によって発達した社会的カテゴライズに直面した場合に彼ら自身の社会的アイデンティティを擁護するイデオロギーの開発に向けられることも予言する。

歴史的には、これはユダヤ人が信仰を釈明する際によくあるテーマである。(see SAID,Ch.7)

しかし、それはユダヤ人の世俗的な作家の間にも見られる。

カストロ(1954,558)は、異端審問の時代にセム主義批判の中傷から”ヘブライ人の血筋を守る”ための改宗クリスチャン(改宗ユダヤ人)の努力を説明する。

ブルゴスのコンベルソの司教は”私の先祖がユダヤ人であると指摘して私を侮辱できるとは思わないで欲しい。確かにそれは事実だが、私は誇りに思っている。先祖を遡れることが高貴さであるなら、誰がユダヤ人ほどの歴史を持つだろうか?”と言った。

マカバイ人とレビ人の子孫であるユダヤ人は”生まれながらに高貴”である。

カストロはまた、当時の改宗クリスチャンの文学のテーマが”社会的に苦境に置かれている人々への敬意”であったと述べた。

ユダヤ人は、自身が所属する社会的カテゴリーをポジティブなものとして描いた。

 

興味深いことに、コンベルソのヒューマニストのイデオロギーは、非ユダヤ人であるクリスチャン社会の共同体の体質に対抗して、個人の価値を強調した。(Faur 1992,35)

当時のユダヤ人と非ユダヤ人のグループの対立の顕著性を反映して、旧クリスチャンは、個人の価値を、個人の努力からよりも宗教的所属(つまりグループのアイデンティティ)から得られると見なした。

”16世紀には価値観の尺度はますますアンバランスになり、その結果として、仕事や思考の能力を評価するよりもその人が誰であるかを確立させることがより大事だという考え方が生まれた。”(Castro 1971,581)

よって、コンベルソの知識人が価値の基礎としての個人の価値のイデオロギーを推進したことは、彼らが個人の価値が切り下げられる社会的アイデンティティと戦う事例の一つと見なせる。

 

そのコインの裏面では、ユダヤ人の登場人物をネガティブにあるいは悪いものとして描写するユダヤ人作家に対して、大抵ユダヤ人は非常に否定的に反応してきた。

例えばフィリップ・ロスは、そのような人物を描いたこと、少なくとも彼の作品がセム主義批判者に読まれる可能性のあるアメリカにおいてそのような人物を描写したことで、ユダヤ人やユダヤ人組織から広く批判されてきた。(see Roth 1963)

この懸念の表向きの理由は、そのような描写がセム主義批判につながる可能性があるというものであるが、ロスは、

”実際に反対されているもの、直ちに痛みを伴うもの…それは特定のユダヤ人への直接的影響であることも示唆した。’あなたは彼らが恥じていることを暴露したため、多くの人の感情を害した’。”

ロスへの批判で意図されているものは、イングループがポジティブに描かれるべきだということであり、実際に最も一般的なタイプのユダヤ人の文筆活動は、ユダヤ人をポジティブに描くことである。(Alter 1965,72)

この引用はまた、SAIDの第八章におけるユダヤ人の自己欺瞞に関する議論にも反映している。

ユダヤ人の実際の行動を意識することで生じる恥は、せいぜい半分意識的なものにすぎず、この自己欺瞞に対して彼らが挑戦すれば大きな心理的葛藤が生ずる。

 

ユダヤ人の知的活動における社会的アイデンティティのプロセスの重要性は、しばらく前にソーンスタイン・ヴェブレン(1934)に認識されていた。

ヴェブレンは、ヨーロッパにおけるユダヤ人の学者・科学者の卓越性を説明し、彼らがアイコノクラスト(伝統・因習・偶像破壊者)になる傾向を指摘した。

彼は以下のように指摘した。啓蒙主義は宗教的アイデンティティに慰めを見出すユダヤ人知識人の能力を破壊したので、もはやユダヤ人は非ユダヤ人社会の知的構造を無批判に受け入れることもなくなった。

ヴェブレンはこうも示唆した。ユダヤ人はアイコノクラズムに従事することで、非ユダヤ人世界の根本的な社会的なカテゴライズのシステム(ユダヤ人には快適でなく非ユダヤ人には快適であるシステム)を批判に晒している。

ユダヤ人は、”非ユダヤ人が慣習の惰性によって過去から引き継ぐ因習的な先入観(無難で分別のある非ユダヤ人を一方で保守的で自己充足的な状態に陥らせ、もう一方では知性の視界を曇らせて凝り固まらせるもの)を背負っていない。”(Veblen 1934,229)

 

確かに、ユダヤ人の社会科学者はこれらの関連を意識することが度々あった。ピーター・ゲイ(1987,137)は、第四章で触れた西洋文化への反感に関するジークムント・フロイトの1926年の手紙からこう引用している。

”私は自分がユダヤ人であるゆえに、他の人々の知性の活用を制限する多くの先入観に囚われずに済んでいる。そして、’身動きの取れない多数派’と調子を合わせずとも、下野して自由にやる心構えもできていた。”

後の手紙でフロイトは、精神分析を受け入れるには”下野して孤立した人の心境、つまりユダヤ人のような心境を受け入れるある種の覚悟が必要であり、それはユダヤ人に一番馴染みがある”と述べた。(in Gay 1987,146)

 

そこには、周りの社会に対する疎外感が存在する。ニューヨーク知識人で政治的急進派であるアーヴィング・ハウいわく、ユダヤ人知識人は

”社会からの距離感を感じがちで、一般に受容されているドグマに対して生まれつき批判的な立場を取り、生活の中でアットホームな安心感を感じることができない”傾向がある。(1978,106)

 

ソロモン・マイモンからノーマン・ポドレツまで、

レイチェル・ヴァーンハーゲンからシンシア・オジックまで、

マルクスとラサールからアーヴィング・ゴフマンとハロルド・ガーフィンケルまで、

ヘルツルとフロイトからハロルド・ラスキとライオネル・トリリングまで、

モーゼス・メンデルスゾーンからJ.ロバート・オッペンハイマーとアイン・ランドとガートルード・スタインと二つの帝国(ヴィルヘルムとチャールズの)まで、

亡命ユダヤ人の知識人の意識と行動の上には、アイデンティティの危機と運命の共有と言う一つの支配的な構造が課せられている。

ユダヤ人解放の訪れとともに、ゲットーの壁が崩れ落ちてユダヤ人街が離散し始めると、ユダヤ人は目を大きく見開いた人類学者のようにして奇妙な世界に足を踏み入れて、奇妙なハラーハーを順守する奇妙な人々を探し訪ねた。

彼らは戸惑い、怒り、冷酷な客観性をもってこの世界を審査し、呆然とする。

彼らは、社会の部外者の非正規会員としてのこの戸惑い、怒り、そして復讐心に燃えた客観的審査の常習犯である。

ユダヤ人解放運動は現代に至っても健在なので、彼らは私達の時代でも衰えることなくそれを続けるだろう。(Cuddihy 1974,68)

 

社会的アイデンティティのプロセスから生じる知的批判は、ユダヤ教の具体的目標を実現する上で機能する必要はない。

しかしこの一連の理論は、ユダヤ人の知的活動が、ユダヤ人に利益をもたらす形で社会的カテゴライズのプロセスに影響を与えることを目指していると仮定すると、かなり辻褄が合う。

後の章では以下を立証する。ユダヤ人の知的活動は今や社会全体に対して、もはやユダヤ人と非ユダヤ人の社会的カテゴライズが重視されなくなり、理屈で言ってもどうでもよくなるような、普遍主義的なイデオロギーを提唱している。

例えばマルクス主義的な分析では、社会の紛争は経済的な階級の間でのみ生ずるとされ、民族グループの間の資源競争の話を見当違いのものとしてしりぞける。

社会的アイデンティティの研究では、普遍主義的なイデオロギーの下ではユダヤ人と非ユダヤ人の社会的カテゴライズはもはや軽視されるので、それが受容されればセム主義批判が減ると予測している。

 

最後に、少数派の視点が多数派の態度に強い影響を与えることが可能であると仮定する十分な理由がある。(例えばPérez&Mugny 1990)

社会的アイデンティティの研究によると、少数派の見解が特に高度な内部一貫性を持つ場合には、多数派の態度に影響力を発揮できる。

 

なぜならそれは、当然のこととされて疑問の余地がなかった合意に基づく多数派の視点に取って代わる可能性をもたらすからである。

人々は突然、こけおどしの多数派の合意の中に欠陥を見つける。留意が必要な新たな争点、問題、疑問が生じる。

もはや、物事の本質を裁定する不変で安定した唯一のものとして現状が受容されることは無くなる。

人々は自分の信念、見解、慣習を今までのものから自由に変更できるようになる。ところで、彼らはどこに向かえばよいのだろうか?

一つの方向は、活動的な少数派に向かうことである。それは(その定義と設計に基づき)その活動によって、今や人々を悩ませる問題そのものに、概念的に首尾一貫したエレガントでシンプルな解決策を供給する。

’イデオロギー’という言葉を用いて…活動的な少数派は支配的なイデオロギーを新しいものに取って代えようとする。(Hogg&Abrams 1988,181)

 

少数派グループの影響力の重要な要素は知的な首尾一貫性である。(Moscovici 1976)

ユダヤ人が支配する知的運動は、イングループの高度な結束力を維持し、ユダヤ教の伝統的な一面である高いレベルのイングループ・アウトグループ思考が特徴であったこと。これは以下での重要なテーマになろう。

しかし、これらの運動は非ユダヤ人へのアピールが目的であったため、ユダヤ人グループのアイデンティティや利益追求こそが重要であるという明示は、参加者に対しては最小限に抑えられた。

 

このような結果は、社会的アイデンティティ理論とも非常に辻褄が合う。個人が影響をどの程度受け入れるかは、異なる見解が導き出される社会的カテゴリーを受け入れる意欲によって決まる。

より広い社会に影響を与えようとするユダヤ人にとっては、ユダヤ人グループのアイデンティティや利益追求をあからさまに示すことは、これらの運動が意図する標的に影響を与える能力を損なうだけであった。

その結果、これらの運動へのユダヤ人の関与はしばしば積極的に隠蔽された。また、知的構造そのものも、ユダヤ人と非ユダヤ人の社会的分類の重要性を最小限に見せるために、普遍主義的な用語で表現されるようになった。

 

さらに、影響を受け入れようとする意欲は、イングループのステレオタイプ的な特性と同調しようとする意欲に左右される。

そのためこの運動は、ただユダヤ人の特殊な立場や普遍主義的の立場から動機づけられたとするだけでは駄目であった。最高の道徳的・倫理的基準によってのみ動機づけられているように描かれる必要があった。

カダフィー(1974,66n)はこう指摘した。ユダヤ人知識人は、ユダヤ教に”西洋での宿命”があり、堕落した西洋文明は特にユダヤ人の道徳観に対して立ちはだかるという意識を強めていった。

これらの運動は、SAIDで広範に検討している、古代から何度もユダヤ人が自らを”諸国民の中の光”と自己定義してきたことの具体例である。

したがって、このアウトグループを道徳的に非難するユダヤ人のレトリックは、ユダヤ教(ユダヤ主義)こそが他の人類への道徳的灯台だという啓蒙時代以降ユダヤ人知識人の中心にある自負の、その世俗バージョンである。

しかし彼らがその影響力を持つためには、表向きにはその運動の芯にあるユダヤ人アイデンティティと利益追求の重要性を否定することを余儀なくされた。

 

本書で取り上げた運動に特徴的なイングループの高度な結束は、高度な知的首尾一貫性を生み出すだけでは無い。あらゆる事象をその解釈システムの定式に取り込める精神分析学や急進的政治理論のような理論を発展させた。

またこれらの運動はうわべを科学で飾ろうとしたが、現実の本性を探る個人主義的な探求としての科学の基本原理に対して必然的に異を唱えるものであった。

これらの知的・政治的運動が非ユダヤ人社会にどの程度影響を与えたかを定量評価することはできない。

しかし以下の章で示す資料では、ユダヤ人主導の知的運動を、20世紀後半の西欧社会での左翼知識人の勝利の決定的要因(必要条件)と仮定すると、大いに辻褄が合う。

 

政治的・宗教的イデオロギーが、関与する人々の利益追求を反映していて当然であるのと同様で、進化論者にとっては、あらゆる種類の知的活動が実は根底で民族紛争と絡んでいるという暗黙の理論も驚くことではない。

進化論者にとって本当に疑わしい命題は、人間の行動を理解するための利害関係を無視した社会科学が、果たして可能なのかどうかということだ。

 

このことでもって、強いアイデンティティを持つユダヤ人社会科学者の全てが以下の章で論じる運動に参加したと言うつもりはない。

これらの運動を主導した人々やその支持者の多くにとっては、ユダヤ人アイデンティティとユダヤ人グループとしての利益追求が強い動機であったことを意味するだけである。

これらの科学者・活動家は非常に強いユダヤ人アイデンティティを有していた。

彼らはセム主義批判に強い懸念を持つ一方で、ユダヤ人の行動がセム主義批判とは無関係であると示そうとして自分の意志に沿って理論を開発していた。

同時に(精神分析学派とフランクフルト学派の場合は)非ユダヤ人のエスノセントリズムや結束力のあるセム主義批判の運動への参加が精神病理の兆候であることを示そうとして自分の意志に沿って理論を開発していた。

 

総じてこれらの運動は、西欧社会の根底にある道徳的・政治的・文化的・経済的基盤に懐疑をぶつけている。

これらの運動はまた、様々なユダヤ人の利益追求に大いに貢献したことも明らかである。

しかしこれらの運動が、20世紀後半のヨーロッパおよび北米の社会における非ユダヤ人、ヨーロッパに由来する人々の文化的・遺伝的な利益追求の重要部門と頻繁に対立してきたことも明らかになるであろう。

 

第七章 アメリカの移民政策形成へのユダヤ人の関与

 

中略

 

付録二 ユダヤ人、黒人、そして人種

 

このエッセイでは、黒人とユダヤ人の関係の歴史の概観を述べる。

この記録は、ユダヤ人組織と多数のユダヤ人の個人が、黒人の力を増大させてアメリカの人種ヒエラルキーを変更させる運動の成功に多大な貢献をしてきたことを非常に明確に示す。

また、黒人とユダヤ人の同盟におけるユダヤ人の動機をどう理解すればよいか、より難しい問題についても論ずる。

 

黒人とユダヤ人は全く異なる二つの集団であることを理解することが重要である。

古代に始まり、ユダヤ人集団は西洋社会の中で繰り返し権力と影響力のある地位を獲得してきた。

アメリカのユダヤ人コミュニティを支配するアシュケナージ・ユダヤ人は、人類の集団の中で最も高い知能平均を持ち、自分たちの利益を追求する非常に効果的なグループを作成して参加する並外れた能力を示してきた。

ユダヤ主義批判の態度がかなり広まる中(歴史的基準からすればかなり穏やかであるが)、そして典型的には貧しい移民としてアメリカに到着したにもかかわらず、ユダヤ人は急速に、彼らの人口割合からすれば異常なほどの社会的地位、富、権力、影響を獲得していった。

ユダヤ人の権力は、WW2に英国側で参戦するかどうかが公に議論されている間、そして1920年代の移民に関する議論の間にさえ(彼らは勝者の側ではなかったものの)既に可視化されるようになっていた。

しかし、WW2後にその権力は劇的に増大し、1960年代以降ユダヤ系アメリカ人は公共政策に多大な影響力を持つエリート集団になった。

アメリカのユダヤ人コミュニティ内部にも重大な不一致はあるものの、特にイスラエル支援と他の外国のユダヤ人への福祉、移民・難民政策、教会と国家の分離、中絶の権利、市民の自由等の、公共政策上の数多くの重要な分野で幅広い合意形成を行ってきている、

後で述べるように、少なくとも1970年代にユダヤ人のネオコン(ユダヤ人コミュニティ内では少数派)が、福祉を制限したり更に極端なアファーマティブ・アクションや黒人の集団的権利を抑え込む等を行って、より過激な形の黒人地位向上の法律制定運動に異議を唱え始めるまでは、

アフリカ系アメリカ人に力を与える運動への共感と支援に関するユダヤ人達の間の幅広い意見の一致があった。

しかしネオコンは、アメリカの組織されたユダヤ人コミュニティの主流と同様に、1960年代の公民権革命を支持した。

 

黒人は、完全に異なる歴史と人種的プロフィールを持っている。

南部では、黒人は奴隷制に服従しており、奴隷解放後は人種隔離政策が実施されて、明確な人種ヒエラルキーが形成された。

北部でも黒人は比較的貧しく無力であったが、公民権運動の第一段階が終わった1960年頃からは、IQで見た場合には黒人は白人と同程度に職業上で成功できるようになった。

それ以来、IQで見た場合には、黒人は同じIQの白人と比べて高いIQの職業を得られる確率がはるかに高い。

例えば、1990年のデータに基づいて行われた研究では、専門職に就く白人の平均IQは114であり、これらの職に就く黒人の平均IQは94であった。

黒人の平均IQは85であり、アメリカ白人の平均を一標準偏差下回り、ユダヤ系アメリカ人の平均IQ115を少なくとも二標準偏差下回っている。

IQと成功の格差を反映して、黒人とユダヤ人の関係は常に一方的なものであった。ユダヤ人は黒人の運動を組織し、資金を提供し、促進する上で重要な役割を果たしてきたが、黒人は組織化されたユダヤ人コミュニティの業務を運営する上で何の役割も果たしてこなかった。

 

黒人とユダヤ人の同盟関係の略歴

 

ユダヤ人の黒人支援活動の中には、生物学に基づいた人種差の概念に反対する訴訟、立法、募金、政治組織化、学界での運動がある。

 

ユダヤ人は、1909年の全米黒人地位向上協会(National Association for the Advancement of Colored People)の設立以来黒人の組織化に大きな役割を果たしてきており、黒人の間でセム主義批判の感情が高まっているにもかかわらず、現在に至るまで続いている。

NAACPは、裕福なドイツ系ユダヤ人、非ユダヤ人の白人、そしてW.E.B.デュボイスが率いる黒人によって設立された。ユダヤ人の役割が支配的であった。

 

1910年代中盤までにNAACPは、ブナイ・ブリスとアメリカユダヤ人委員会(AJC)の付属組織のような様相を呈した。

ジョエルとアーサーのスピンガーン兄弟がそれぞれ理事長と主任法律顧問を務め、ハーバート・リーマンが執行委員会に、リリアン・ウォルドとウォルター・サックスが(同時期にではないが)理事に、ジェイコブ・シフとポール・ウォーバーグが財政後援者に就いていた。

1920年には、ハーバート・セリグマンが宣伝部長になり、マーサ・グリューニングがその補佐役を務めた….

1917年、混乱したマーカス・ガーベイがこれは白人組織だと捨て台詞を残してNAACP本部から脱退したのも無理はない。

 

WW2終結後まで、ユダヤ人と黒人の同盟は、裕福なドイツ系ユダヤ人が資金力や組織形成能力で黒人組織を援助するのが基本であった。

ユダヤ人法律家は黒人活動家組織の法律部門の人材確保にも重要な役割を果たしていた。つまり、スピンガーン兄弟はドイツ系ユダヤ人の貴族の一員であった。

ジョエル・スピンガーンは、理事会の態度に抗議して辞任した短い期間を除いて、1914年から最初の黒人が理事長に就任する1934年までNAACPの理事長を務めた。

裕福なユダヤ人はナショナル・アーバン・リーグの重要な貢献者でもあり、特に20世紀前半の最初の20年間を代表するユダヤ人活動家であるジェイコブ・シフ、そしてシアーズ・ローバック社で富を築いたジュリアス・ローゼンウォルドが挙げられる。

1920年代の最も著名なユダヤ人活動家でAJCのリーダーであったルイス・マーシャルはNAACPの理事でもあり、NAACP主任弁護士でもあった。

NAACPの訴訟に参加した他の著名なユダヤ人弁護士には、最高裁判所判事のルイス・ブランダイスとフェリックス・フランクファーターがおり、後者はブラウン対教育委員会での判決において主要な役割を果たした。

NAACPの活動で著名なもう一人のユダヤ人弁護士は、”燃えるような社会的良心”を持つとされたネイサン・マーゴールドであり、彼は人種隔離政策の法的根拠に対する攻撃を成功させる法律面の作戦を立てた。

1960年代にNAACP法務防衛基金の代表であったジャック・グリーンバーグもまた、メキシコ人活動家ピート・ティジェリーナとフォード財団を引き合わせてMALDEFの設立に貢献した。

 

1930年代後半まで、黒人はこうした取り組みにおいてほとんど役割を果たしてこなかった。例えば、1933年までNAACPの法務部には黒人弁護士がおらず、1930年代までNAACPの法務部の約半分はユダヤ人が占めていた。

1960年代の黒人とユダヤ人の同盟の全盛期には、南部の抗議運動に参加する学生やその他を弁護する法律家の半分以上がユダヤ人であった。

共産党と関係があったNLGやACLU(アメリカ自由人権協会)などのユダヤ人達が支配する組織も、これらの取り組みに対して法律面の援助を提供することがあった。

 

WW2後の時代には、AJCommittee、AJCongress、ADLなどのあらゆるユダヤ人市民組織が黒人問題に関与していた。

”彼らには専門的訓練を受けた人材、設備の整ったオフィス、広報のノウハウなど、変化を起こすためのリソースがあった。”

1940年代の終わりまでに、ADLは特に変化が必要な地域としてアメリカ南部を指定した。ADLは人種間の緊張と暴力の事例を監視し、人種間の分離を含む地域の問題への連邦政府の介入をますます要請していた。

 

ユダヤ人グループは、1960年代には公民権運動の資金の2/3から3/4を寄付していた。AJCongress、AJCommittee、ADLは、NAACPと密接に連携し、人種隔離を終わらせるための法的道筋の概要を描き、資金調達も請け負った。

ユダヤ人グループの中でも特にAJCongressは、公民権法の起草と、主に黒人に利益がある公民権問題に関する法的課題の追求において主導的な役割を果たした。

”ユダヤ人達の法的、資金的支援によって、公民権運動は一連の勝利を得ることができた….

AJCongressの法律家が、’これらの法律の多くはユダヤ人組織のオフィスでユダヤ人スタッフによって書かれ、ユダヤ人議員によって法案提出され、ユダヤ人有権者によって実現するための圧力がかけられた’と言うのは誇張では全く無い。”

 

ユダヤ人達による黒人援助の転換点は、WW2の終結であった。ユダヤ人はWW2終結後、戦前よりも格段に強力な地位を得ていた。

戦前には一般的であったユダヤ主義批判の態度は急激に衰退し、ユダヤ人組織は公民権の分野だけでなく移民政策においても、アメリカの民族同士の関係性に影響を与える存在として以前より重要になっていた。

大事なことは、このユダヤ人の高い地位が、1880年から1920年の間に東ヨーロッパから移住してきたユダヤ人とその子孫によって支配されていたAJCongressとADLによって主導されていたことである。

以下に示すように、このユダヤ人集団の特別な性格を理解することは、1945年から現在までに至るアメリカにおけるユダヤ人の影響力を理解する上で極めて重要である。

今世紀前半にAJCommitteeを通じてユダヤ人コミュニティの活動を支配していたドイツ系ユダヤ人エリートは、東欧からの移民とその子孫で構成される新しいグループに主導権を奪われた。

ドイツ系ユダヤ人エリートの要塞であったAJCommitteeも、7歳の時にウクライナから移住してきたジョン・スロウスンが率いるようになった。ユダヤ系移民のコミュニティが作ったAJCongressを率いるのは社会主義者でシオニストのウィル・マスローであった。

シオニズムと政治的急進主義は、東欧からのユダヤ系移民の典型であった。

 

移民ユダヤ人コミュニティの急進主義を示すものとして、司法長官からは破壊団体としてリストアップされていた5万人の会員を有するユダヤ人友愛組織が、AJCongressの傘下にあった。

JPFOは、WW2後にアメリカ共産党の資金的、組織的”防波堤”となり、CPUSAの機関紙「デイリー・ワーカー」やイディッシュ語の共産主義新聞「モーニング・フレイハイト」にも資金供給していた。

AJCongressはJPFOとの関係を断ち、共産主義は脅威だとする声明を出したが、共産主義反対のパブリック・イメージを作り上げようとするユダヤ人の努力に対しては”精々消極的な程度の、熱心さが欠けた参加者”であった。

そのようなAJCongressの立場は、主に東欧系移民の二世、三世のメンバーの多くが共産主義に共感を寄せていることを反映していた。

ユダヤ人共産主義者が公民権運動に関与しているという懸念は、キング牧師の重要な顧問であったスタンリー・レヴィソンの活動に対して注がれていた。

レヴィソンは(AJCongressと同様に)共産党と密接に連携しており、キング牧師との活動も共産主義の教義に沿ったものだった可能性がある。

 

デビット・ホリンジャーが1930年代から60年代にかけての”ユダヤ人によるアメリカの学術界の民族的宗教的人口統計の変化”を指摘しているように、ユダヤ人は、アメリカの人種同士の関係に革命をもたらす知的環境を生み出すためにも尽力した。

ユダヤ人としてのアイデンティティに基づいた、ユダヤ人としての動機、特にセム主義批判を終わらせるという動機を援護するための、ユダヤ人達の知的・政治的運動。

筆者はこれらの運動が生み出すものを、アメリカでの”culture of critique”の発展として説明してきた。

これらの運動は、学術界における進化論的・生物学的思考の衰退をもたらし、白人の人種に基づくアイデンティティを病的なものだと定義した。

これらの知的努力にはいくつかの寄る辺があった。ホレス・カレンを皮切りに、ユダヤ人知識人は文化的・民族的な多元社会としてのアメリカモデルを発展させる最前線に立ってきた。

アメリカは個々の民族文化グループの集合体として組織されるべきであるというこの概念には、グループ間の関係は協力的かつ温和なはずであるというイデオロギーが前提となっていた。

”カレンは、彼自身の周囲に渦巻く対立からは目を背け、多様性と調和が共存する理想郷を夢見ていた。”

 

1930年代、AJCommitteeは、生物学的な人種が人々の違いを生み出す重要な要因であるという考えを根絶することに貢献したフランツ・ボアズの研究に資金を提供した。

(この戦いを主導している間もボアズ自身は、脳の大きさで白人に好都合な人種間の差異があるという説を完全に否定することは決して無かった)

彼の人生の最期においてさえ、「原始人の心」の1938年版で、ボアズは黒人の中には天才はあまりいないだろうという考えを推し進めた。

しかし彼は、それぞれの人種内にばらつきがあるため、群平均の差を個人に適用するべきではないと主張した。

ボアズ人類学派はユダヤ人達の知的運動で、1920年代までにアメリカの人類学を支配するようになった。(上記の通り、ユダヤ人の知的運動とは、ユダヤ人としてのアイデンティティを持つ人々がユダヤ人達の利益追求のために参加・支配する運動を指す)

ボアズ人類学派は、WW2後にAJCommittee、AJCongress、ADLによって配布・促進されたプロパガンダ活動に従事し、例えば、全ての人間集団が同等の能力を有していると描いた映画「Brotherhood of Man」にも登場した。

戦後、人種間の差異が存在しないこと、文化相対主義のようなボアズ人類学のイデオロギーや、ホレス・カレンに始まる文化の違いを保存し尊重することの重要性が、これらユダヤ人運動組織が主催する教育プログラムの重大な構成要素として取り扱われ、アメリカの教育システム全体に広く普及した。

 

AJCommitteeはまた、1930年代にドイツから逃れてきた難民ユダヤ人社会科学者、特にフランクフルト社会研究学派(マックス・ホルクハイマー、エーリヒ・フロム、テオドール・アドルノ、ハーバート・マルクーゼ)を中心とした人々の努力を支援した。

このグループは、マルクス主義運動と精神分析学とを組み合わせたもので、どちらもユダヤ人の知的運動と見なされている。

基本的に、「権威主義的パーソナリティ」およびこのグループによって生み出された他の著作(総称して「偏見の研究」と呼ばれる)は、

セム主義批判や他の形態の民族間の敵意に関して、政治的にも知的にも満足できるアプリオリな理論を支援する経験主義的研究プログラムを開発し、アメリカの学術界の読者に影響を与える必要性から生じた。

「権威主義的パーソナリティ」は、民族グループへの非ユダヤ人の忠誠心、特にクリスチャンの宗派への帰属、ナショナリズム、緊密な家族関係などが、精神疾患の兆候であることを示そうとする試みであった。

根底の部分でのフランクフルト学派の仕事は、西欧社会がセム主義批判に抵抗感を覚えるよう変化させるために、民族グループへの非ユダヤ人の忠誠心を病理化することであった。

 

1944年、AJCongressは、マイノリティグループの集団アイデンティティを強く主張したクルト・レヴィンの指導の下で、Commission on Community Interrelationsを組織した。

レヴィンは、プロパガンダや活動家的な社会科学だけに頼るのではなく、差別に対する法律の重要性を訴え、左翼的なAJCongressの好戦的な態度の典型であった。

このグループに集められた活動家・科学者の中にはケネス・クラークがおり、隔離によって与えられた精神的ダメージを示すとされる黒人の子どもとの人形研究は、1954年のブラウン対教育委員会の画期的決定のための重要な要素であった。

他のメンバーにはマリー・ヤホダがおり、彼女はAJCommitteeが発行したStudies in Prejudiceのセム主義批判と情動障害の巻の共著者であった。

この本はアドホックな心理力学的提案からなり、唯一の類似点は、セム主義批判にはある種の精神的葛藤が投影されているというものであった。

この本は、セム主義批判やその他の民族間の敵意の表現が、現実の利害の対立よりもむしろ心理的な不適当さを反映しているとする理論を構築する上で、精神分析が有用であることをよく示している。

 

アメリカの民族間の関係を変革しようとするユダヤ人組織のこの多面的な取り組みを、総称してIntergroup Relations Movement(インターグループ関係運動)と呼ぶ。

この取り組みには、住宅、教育、公的雇用における偏見に対する法的な挑戦も含まれていた。

ユダヤ人組織はまた、立法案を起草し、州および国の立法機関において法律として成立させることを試みていた。

この攻撃のもう一つの切っ先は、メディアにおけるメッセージの作成、学生と教師向けの教育プログラムの促進、そして上述のような、学術界における人種に関する知的言説を再構築するための知的努力の促進であった。

ADLはこれらの取り組みに中心的に関与しており、”ラジオやテレビの特別コーナー、巧みな短いコマーシャルソング、フィルムストリップ、その他のメディアの取り組みを活用していた”。

ADLはベス・マイヤーソンのようなハリウッドスターを採用し、”You can’t be beautiful, and hate.”(憎しみはあなたを醜くする)とフレーズを繰り返しながら国中を巡回した。

「Gentleman’s Agreement」や「The House I Live In」のようなハリウッド映画もこれらのメッセージを広めており、ロジャースとハマースタインの「南太平洋」では、異人種間の結婚をテーマにして、子どもに憎むことを教えなければいけないという歌が含まれていた。

移民政策へのユダヤ人の関与や、現代及びその前におけるユダヤ人の政治的・知的活動の他の多くの事例と同様に、インターグループ関係運動は明白なユダヤ人の関与をしばしば最小限にまで覆い隠した。

 

インターグループ関係運動が展開したグループ間の憎悪のイデオロギーは、AJCommitteeが主催した「偏見の研究」シリーズ、特にフランクフルト学派の「権威主義的パーソナリティ」に由来している。

この著作は、エスノセントリズムやアウトグループに対する差別の兆候を、精神疾患、したがって文字通りの公衆衛生上の問題と明確に定義していた。

グループ同士の敵意に対する攻撃は、致命的な感染症に対する医学的攻撃になぞらえられて、この病気にかかった人は活動家によって”感染者”と表現された。

このような一連の民族間での活動の、知的な論拠の一貫したテーマは、グループ間の調和を高めることで得られる利益の強調であった。すなわちホレス・ケーレンの多文化主義の概念が持つ理想主義の側面の話である。

しかし、一部の集団、特にヨーロッパに由来する非ユダヤ人の集団が、経済的・政治的な影響力を失って文化的な影響力まで喪失することについては言及されていなかった。

相手のグループに対する否定的な態度は、グループの利害が対立した結果としてではなく、むしろ個々の精神病理によるものと見なされた。

最後に、非ユダヤ人のエスノセントリズムが公衆衛生上の問題と見なされる一方で、AJCongressはユダヤ人の同化と戦い、ユダヤ人の民族国家としてのイスラエルを強く支持した。

 

インターグループ関係運動のレトリックは、その目標が伝統的なアメリカの価値観と一致していることを強調していたが、これは精々のところミスリーディングである。

彼らのレトリックは、個人の権利を啓蒙主義の遺産として強調するものであった。しかしインターグループ関係運動は、個人の権利という遺産を西欧文化のユニークな産物と見なすのではなく、預言者に由来するユダヤ人の理想と合致するものとして解釈した。

この概念化は、ユダヤ教自体がかなりの集産主義者であり、個人主義の伝統を持っていないという事実を無視していた。グループ進化戦略として、アウトグループに対する敵意が常にユダヤ教の中心であったという事実も無視していた。

したがってこの時代のユダヤ人のレトリックは、普遍主義と個人の権利の啓蒙のレトリックがかなりの知的威信を持つ現代世界でユダヤ人の目的のために特注された、ユダヤ人の過去に対する幻の見解に依拠していた。

 

インターグループ関係運動は、他の伝統的なアメリカ人のアイデンティティの根源を無視したり蔑んだ。

結束力のある均質な社会こそがアメリカ人のアイデンティティを支える共和制アメリカの柱だという現実には、一切の言及がなかった。

そしてそれは、アメリカは特定の民族グループによって作られた北西ヨーロッパの文化であるという考えも無視したり蔑んだ。

この人種・民族グループとしてのアメリカのアイデンティティの”民族文化”という寄る辺は、1880年から1920年の間にマディソン・グラントやロスロップ・ストッダードの理論によって強い影響力を持つようになっていた。

これらの理論はダーウィニズムの影響を大きく受けており、ボアズ人類学派や上述の他のユダヤ人の知的運動からは特に標的とされた。

 

あるADLの関係者は、1960年代の初頭までにアメリカの教師の1/3が、インターグループ関係運動のイデオロギーに基づいたADLの教育資料を受け取ったと推定している。

ADLは、教師や学校管理者向けのワークショップの人員配置、資料の作成、資金援助にも深く関わっており、多くの場合は学術界の社会科学者が関与していた。この関わりがこれらの演習の科学的信頼性を高めたことは間違いない。

公立学校のカリキュラムに影響力を行使しようとするこの取り組みが、あからさまに公立学校からクリスチャンの影響力を排除しようと取り組んでいた同じグループによって行われたのは、皮肉なことであろう。

ADLは、A World of Difference Instituteを通じてダイバーシティ教育の主要な推進者であり続けている。

1985年以降、この研究所は23万人以上の小中学校の教師に多様性教育を施し、アメリカ国内の労働者や大学生を対象に職場の多様性訓練プログラムを実施してきた。ドイツとロシアでも教員研修プログラムは実施されている。

 

黒人の動機を促進するユダヤ人の動機の理解に向けて  より抜粋

 

中略

 

さらに、メディアや黒人組織への資金提供におけるユダヤ人達の継続的な関与は、これらの組織の指導者が黒人へと移行した後でも黒人の成功の重要な要素であり続けている。

例えばマレー・フリードマンは、1955年以降は黒人が運動のリーダーシップを取るようになってきたと述べている。

”もはやユダヤ人指導者やその他の部外者が主導権を握ることは無い。ユダヤ人達は舞台裏で働き、キング牧師とその側近たちに資金と助言を与え、彼らを運動の先頭に立たせ、ニュースの一面を飾らせ、実刑判決に耐えさせる。

 

極端なアファーマティブ・アクションやその他黒人の政治アジェンダに反対するユダヤ人ネオコンが注目されているが、ユダヤ人の大多数はアメリカ政治の左翼とリベラル派にとどまっている。

実際に、雇用における非差別を結果志向のクォータ制に変えようとする取り組みは、雇用機会均等委員会のアルフレッド・ブルムローゼンを筆頭とするユダヤ人のブレーントラストが主導した。

人口のわずか2.5%にも関わらずユダヤ人は民主党の資金の半分以上を提供しており、2000年の選挙ではユダヤ人の80%がゴアに投票した。

一般に、ユダヤ人の議会議員は、黒人の同僚と共にリベラルな政策を支持しており、ユダヤ人組織は、少なくとも過去に差別の歴史があったことが示される場合には強力なクォータ型のアファーマティブ・アクション政策を支持し続けている。

 

ユダヤ人の民主党支持率は低下しているように見える。2000年の選挙では18歳から29歳の若いユダヤ人は59%対40%でブッシュに投票した。それにもかかわらずこの変化は、WW2後の民族問題での革命での成果からユダヤ人が大きく離反したことを意味するものでは無い。

例えばこの記事の執筆時点では、アメリカへの大規模な多民族移民の支援は、極左からネオコンの右派までユダヤ人の政治スペクトル全体を特徴づけている。

さらに若いADL指導者は、差別が認められない限り人種を雇用と大学入学の要因として使用できる、より低いアファーマティブ・アクション政策の閾値を支持する傾向があった。

高い年齢層のユダヤ人は、1920年代と30年代にエリート大学へのユダヤ人の入学者数を制限する目的で作られた割り当てシステムのレンズを通してアファーマティブ・アクションを見る傾向がある。

 

ユダヤ人がアメリカの人種ヒエラルキーを変えることに関与したのは、ユダヤ教それ自体に由来するものではなかった。

つまり宗教・民族としてのユダヤ主義には、ユダヤ人がヨーロッパ・アメリカの人種的弱者である黒人と同盟を結ぶ動機を提供するものは何もない。

歴史を通じて、ユダヤ人がエリート、それもしばしば異質で抑圧的なエリート達と同盟を結ぶのはよく見られたパターンであった。

古代世界でも、イスラム世界でも、クリスチャン・ヨーロッパでも、中世から20世紀のWW2後の東欧に至るまで、ユダヤ人は支配者と手を結び、しばしば庶民を抑圧する存在と見なされてきた。

実際に私は、東欧と西欧の重要な対照として、ユダヤ人と非ユダヤ人エリートの協力を伴う搾取的な経済システムが東欧では遥かに長期間にわたって続いたことを論じた。

そこでは、”ユダヤ人の地所管理者が地区全体の人口に対する生死の支配者となり、その関係において短期的で純粋な金銭的関心を持っているだけであり、彼の一時的な被害者を骨まで削り取りたいという抗しがたい誘惑に駆られた”

抑圧的なユダヤ人の金貸しと税金徴収のテーマは、セム主義批判の姿勢の象徴として数世紀にもわたって特徴づけられてきた。

さらに、ユダヤ人の法律は奴隷制を容認し、ユダヤ人と非ユダヤ人の奴隷の扱いの違いを詳しく述べている。(非ユダヤ人を著しく不当に扱う)

ユダヤ人は古代ローマの世界では奴隷貿易を支配し、近世にはスペイン・ポルトガル・アムステルダムのエリート商人として新世界のアフリカ奴隷貿易の資金調達に関与していた。

アメリカでも南部のユダヤ人は、少なくとも恐らく彼らの富と人口比率に見合う水準の奴隷を取引したり所有していた。

 

中略

そこでは、”ユダヤ人の地所管理者が地区全体の人口に対する生死の支配者
となり、その関係において短期的で純粋な金銭的関心を持っているだけであ
り、彼の一時的な被害者を骨まで削り取りたいという抗しがたい誘惑に駆ら
れた”
抑圧的なユダヤ人の金貸しと税金徴収のテーマは、セム主義批判の姿勢の象
徴として数世紀にもわたって特徴づけられてきた。
さらに、ユダヤ人の法律は奴隷制を容認し、ユダヤ人と非ユダヤ人の奴隷の
扱いの違いを詳しく述べている。(非ユダヤ人を著しく不当に扱う)
ユダヤ人は古代ローマの世界では奴隷貿易を支配し、近世にはスペイン・ポ
ルトガル・アムステルダムのエリート商人として新世界のアフリカ奴隷貿易
の資金調達に関与していた。
アメリカでも南部のユダヤ人は、少なくとも恐らく彼らの富と人口比率に見
合う水準の奴隷を取引したり所有していた。

中略

 

Forbes a discuté des spéculations de certains experts : Vladimir Poutine serait secrètement heureux du crépuscule des oligarques juifs

  • Je partage ci-dessous un article écrit par Andrew Joyce, Ph.D., et qui fut publié à l’origine dans le magazine en ligne The Occidental Observer le 22 avril 2022. Andrew Joyce, Ph.D. est un universitaire, conférencier et écrivain possédant une expertise universitaire en immigration, en conflits ethniques et religieux et en philosophie. 
Personnellement, je vous invite à prendre en considération que je remplace le mot « juif » par le terme « khazar », ce qui est plus approprié selon moi. Je vois aussi des liens avec certains aspects de mon livre « L’Arche de Gabriel : de La Mecque à l’Antarctique ».

Traduit par Guy Boulianne. https://www.guyboulianne.info/2022/04/25/forbes-a-discute-des-speculations-de-certains-experts-vladimir-poutine-serait-secretement-heureux-du-crepuscule-des-oligarques-russes 

Le sujet des Juifs et de l’argent est controversé et essentiel, mais pas sans ses aspects sombres et comiques. En novembre, j’ai écrit un essai sur la critique de Dracula de Bram Stoker pour ses prétendues qualités antisémites, et j’ai noté l’angoisse d’un universitaire à propos d’une scène dans laquelle Jonathan Harker frappe Dracula avec un couteau, coupant le manteau du vampire et envoyant un flot d’argent au sol. Au lieu de fuir immédiatement, Dracula attrape des poignées d’argent avant de sprinter à travers la pièce. L’universitaire offensée, Sara Libby Robinson, s’est plainte que « cette démonstration de mettre la préservation de son argent sur un pied d’égalité avec la préservation de sa vie montre que les stéréotypes concernant les Juifs et leur argent étaient bien vivants à la fin du XIXe siècle ».

Ceux qui passent suffisamment de temps à observer les Juifs, cependant, sauront que la chose curieuse à leur sujet est que les stéréotypes associés ont une étrange habitude de trouver une confirmation empirique constante. Prenez, par exemple, un récent article de presse soulignant qu’Israël a connu un afflux de réfugiés juifs depuis l’invasion de l’Ukraine par Poutine le 24 février. L’impact est que l’afflux a impliqué beaucoup plus de réfugiés économiques de Russie, qui demandent un allègement des sanctions occidentales et la baisse des valeurs monétaires, que les Juifs ukrainiens cherchant à se protéger de la violence. Confrontés à la guerre, les Juifs « mettent vraiment la préservation de leur argent au même niveau que la préservation de leur vie ». Dans l’une de mes anecdotes préférées sur la crise ukrainienne jusqu’à présent, l’avocat russo-israélien de l’immigration Eli Gervits affirme avoir reçu des milliers d’appels de Juifs russes lançant un appel qu’il appelle SOS : « Sauvez nos économies ». Cette histoire remarquable est emblématique du fait que la guerre de Poutine en Ukraine est un net négatif pour l’oligarchie juive internationale basée en Russie et les réseaux juifs internationaux qui survivent et prospèrent grâce à leur patronage.

La chute de Viatcheslav Moshe Kantor

Peu de choses m’ont remonté le moral ces derniers temps, comme la nouvelle selon laquelle le gouvernement britannique a finalement imposé des sanctions à Moshe Kantor. Milliardaire russe, oligarque pernicieux et ancien président de pas moins que le Congrès juif européen, le Conseil européen sur la tolérance et la réconciliation, la Fondation du Forum mondial de l’Holocauste, le Fonds juif européen et le Conseil politique du Congrès juif mondial, Kantor est la quintessence de l’activiste juif fortement identifié, pleinement engagé dans la promotion des intérêts de son groupe ethnique. Sioniste dévoué, Kantor est citoyen d’Israël, ainsi que de la Russie et du Royaume-Uni. Kantor, avec son curieux mélange de nationalités, n’a pas tant chevauché l’Est et l’Ouest qu’il n’a utilisé le pillage dans le premier pour alimenter l’activisme dans le second. L’un de ses principaux projets ces dernières années a été de faire pression sur l’Union européenne pour de plus grandes restrictions à la liberté individuelle et pour l’imposition d’un vaste appareil draconien pour la protection et l’application du multiculturalisme à travers le continent. Dans son traité « The Manifesto on Secure Tolerance », Kantor écrit avec un flair orwellien que « les restrictions sont nécessaires pour la liberté de vivre une vie en sécurité ». En lisant entre les lignes, le message devient plus clair : « Les restrictions imposées aux Européens sont nécessaires pour que les Juifs puissent vivre une vie en toute sécurité ». Parmi les propositions de Kantor figuraient la création d’un appareil à l’échelle du continent pour la surveillance d’Internet ciblant les opposants au multiculturalisme, la promotion forcée et l’« éducation » sur le multiculturalisme à travers l’Europe, et une augmentation significative des peines de prison pour toutes les infractions contre le culte de la diversité.

Kantor a échappé à la vague de sanctions occidentales contre les élites russes (souvent juives) jusqu’à la semaine dernière, mais a finalement été pris pour cible en raison de son rôle de principal actionnaire de la société d’engrais Acron, qui entretient des liens stratégiques avec le gouvernement russe. Inutile de dire que la sanction d’un autre de leurs oligarques extrêmement influents envoie des ondes de choc dans les institutions juives internationales qui dépendent de la richesse et de l’influence de ces personnalités. Le 6 avril, le Congrès juif européen, le principal véhicule de Kantor pour faire avancer sa guerre contre les libertés européennes, a publié une déclaration soulignant qu’il était

Profondément choqué et consterné par la décision prise aujourd'hui par le gouvernement britannique de sanctionner le Dr Moshe Kantor, président du Congrès juif européen, de la Fondation du Forum mondial de l'Holocauste et du Conseil européen pour la tolérance et la réconciliation. La décision est erronée et n'a aucun fondement factuel ou fondé sur des preuves. Le Dr Kantor est un citoyen britannique qui vit depuis plus de trois décennies en Europe occidentale, dont de nombreuses années au Royaume-Uni. C'est un dirigeant juif de longue date et respecté, qui a consacré sa vie à la sécurité et au bien-être des communautés juives d'Europe et à la lutte contre l'antisémitisme, le racisme et la xénophobie. … Nous appelons à ce que cette décision soit annulée dès que possible.

La déclaration la plus récente publiée par le gouvernement britannique est peu détaillée, déclarant seulement que Kantor sera soumis à un « gel des avoirs ». Étant donné que Kantor possède et passe beaucoup de temps dans un manoir important sur Winnington Road à Londres, où les prix de l’immobilier dépassent en moyenne 8 millions de dollars, ce sera certainement un point sensible pour l’oligarque. Beaucoup plus inquiétant pour Kantor, c’est que l’Union européenne a emboîté le pas quelques jours plus tard, en déclenchant ses propres gels d’avoirs et interdictions de voyager. Ses comptes bancaires, ses maisons et ses autres intérêts économiques à travers le continent ont été bloqués.

La Hongrie et l’Autriche, influencées par les sympathies sionistes, ont toutes deux tenté de sauver Kantor des sanctions, l’envoyé hongrois exprimant « sa surprise face à l’inscription sur la liste noire de quelqu’un qu’il a décrit comme un homme hautement décoré ». Cependant, la stratégie de clôture de Kantor consistant à être un pivot oriental et un prédicateur multiculturaliste occidental a été démolie par le conflit en Ukraine. Comme un jeu de chaises musicales, il constate que la musique s’est arrêtée et qu’il reste debout, les mains pleines d’actifs russes qui étaient autrefois si précieux et essentiels à son pouvoir. Ironiquement, les envoyés de l’Estonie et de la Lituanie, deux pays accusés d’antisémitisme et de fascisme par la Russie, ont exhorté avec succès leurs partenaires à ne pas retirer Kantor, l’un des militants juifs les plus influents d’Europe, de la liste. Et donc le pauvre Moshe, qui a proposé autrefois que les restrictions étaient une voie vers la liberté, devra désormais vivre selon ses propres mots. Alors que ses maisons et ses biens sont saisis par les gouvernements européens, que la valeur de ses entreprises décline et qu’il se retrouve avec moins d’endroits où aller, je ne peux qu’offrir à Moshe l’assurance de son propre dicton :

Des restrictions sont nécessaires pour la liberté de vivre une vie en toute sécurité!

Stadtlans à l’honneur

En tant que chef de tant de groupes et acteur dans tant de hautes sphères, Kantor remplit les qualifications des premiers stadtlan modernes – les Juifs de cour du début de la période moderne qui se vantaient d’une richesse significative et de relations intensives avec les élites non juives. Et il illustre bon nombre des mêmes qualités, agissant toujours dans des rôles d’intercession non élus mais très influents, cherchant à améliorer les avantages tactiques et matériels de sa tribu. Regardez n’importe quel pays important et vous trouverez non seulement une clique juive installée au cœur de son appareil politique, mais souvent aussi un petit nombre d’individus juifs si influents qu’ils peuvent être considérés comme des acteurs politiques à part entière. Ces personnages sont la pointe de la lance de l’activisme juif, et dans le passé, ces hommes et leurs familles ont eu un tel impact sur le cours de l’histoire que leurs noms sont passés dans le langage courant – Rothschild, Schiff, Warburg, et des corollaires plus modernes tels que Soros, Adelson et la constellation de milliardaires juifs infestant l’Ukraine et en orbite autour de Vladimir Poutine.

Pour ces élites juives de l’Est, la guerre en Ukraine a eu le double effet inquiétant d’impacter leurs finances et de rehausser leur visibilité. Petr Aven, Mikhail Fridman, German Kahn, Roman Abramovich, Alexander Klyachin, Yuri Milner, Vadim Moshkovich, Mikhail Prokhorov, Andrey Rappoport, Arkady Rotenberg, Boris Rotenberg, Igor Rotenberg, Viktor Vekselberg, God Nisanov, Oleg Deripaska, Alexander Abramov, Gavril Yushvaev , Zarakh Iliev, Vladimir Yevtushenkov, Arkady Volozh, Eugene Schvidler, Leonid Simanovskiy, Yuri Shefler, Kirill Shamalov, Aleksandr Mamut, Lev Kvetnoy, Yevgeniy Kasperskiy, Yuriy Gushchin, Oleg Boyko, Leonid Boguslavskiy, ne sont que quelques-uns de ceux qui se sont cachés à la vue de tous pendant un certain temps, mais qui se retrouvent non seulement discutés, sanctionnés et mis sur liste noire, mais également regroupés dans des listes qui mettent en évidence les schémas surprenants de leur accumulation de richesse et de leur partenariat ethnique.

En 2018, le département du Trésor américain a publié une liste de Russes qu’ils envisageaient de sanctionner, et la liste a continué de provoquer un malaise dans les cercles juifs. Le Times of Israel a récemment tenté de minimiser la prééminence juive en affirmant qu’« au moins 18 des chiffres sur [la liste du Trésor] sont des oligarques juifs », tout en ajoutant que la liste se compose de 210 noms (ce qui signifie une représentation juive de 8,5 %). Mais ils ne mentionnent pas que le Trésor a séparé leur liste en 114 politiciens et 96 oligarques, et il y a en fait 29 oligarques juifs confirmés dans cette dernière liste, avec deux autres (Aras Algarov et Alisher Usmanov) mariés à des juifs et élevant des enfants juifs. En d’autres termes, au moins 30 % des oligarques les plus influents de Russie sont juifs dans un pays où les juifs représentent environ 0,1 % de la population. On ne peut honnêtement parler des oligarques orientaux sans parler à un certain niveau des Juifs.

Les Juifs milliardaires de Russie sont peut-être presque intouchables, mais ils craignent depuis longtemps que leur judéité ne devienne un sujet de discussion publique. En 1998, l’Irish Times a publié un article décrivant le début de la fin de l’ère Eltsine. Intitulé « La Russie se soumet au règne des sept banquiers », l’article expliquait que la Russie était tombée en grande partie entre les mains de six financiers juifs (Boris Berezovsky, Vladimir Guzinsky, Alexander Smolensky, Mikhail Khodorkovsky, Mikhail Fridman et Vitaly Malkin), et un Gentil symbolique (Vladimir Potanine). La partie la plus intéressante de l’article est la discussion de l’ancienne stratégie juive consistant à utiliser un leader européen pour déguiser la nature juive de la structure du pouvoir :

À l'approche des élections de 1996, les magnats ont contribué des millions de dollars à la campagne de réélection d'Eltsine, sous l'impulsion de Berezovsky, qui s'est vanté plus tard que les sept membres du club contrôlaient la moitié de l'économie russe. C'était une exagération, mais reflétait leur orgueil. Après l'élection, selon plusieurs sources, les magnats se sont rencontrés et ont décidé d'insérer l'un des leurs au gouvernement. Ils ont débattu de qui – et ont choisi Potanine, qui est devenu vice-premier ministre. L'une des raisons pour lesquelles ils ont choisi Potanine était qu'il n'était pas juif, et la plupart d'entre eux le sont. Ils craignaient un retour de bâton contre les banquiers juifs.

Le contrôle croissant de Poutine sur les oligarques juifs

Comme pour Eltsine, les sept banquiers, en particulier Berezovsky, ont d’abord prétendu avoir promu Poutine et insisté sur sa candidature aux postes de Premier ministre et de président. Comme l’a souligné le Guardian en 2013, le défaut fatal de Berezovsky était simple : il a mal interprété Poutine :

Berezovsky a rencontré Poutine au début des années 1990, lorsque l'espion du KGB travaillait pour le maire de Saint-Pétersbourg. Les deux ont socialisé et ont même skié ensemble en Suisse. À la fin des années 1990, Poutine était devenu le chef du FSB, l'agence qui a succédé au KGB. L'entourage d'Eltsine cherchait un successeur au président malade. Ils ont dépêché Berezovsky pour offrir le poste à Poutine – qui est devenu Premier ministre à l'été 1999, succédant à Eltsine en tant que président par intérim six mois plus tard. Berezovsky avait estimé que son ami serait un successeur souple - et que lui, l'ultime initié du Kremlin, continuerait à tirer les ficelles. Il est rapidement devenu évident que Poutine avait sa propre vision de la Russie : un endroit plus sombre, moins démocratique, dans lequel les agences d'espionnage du pays joueraient un rôle d'avant-garde, et avec Poutine aux commandes sans équivoque. Les deux se sont affrontés; Poutine a saisi la chaîne de télévision ORT de Berezovky ; et Berezovsky décampa à Londres. Leur querelle était méchante et conduirait finalement à la mort de Berezovsky à l'âge de 67 ans en exil.

D’autres membres de la Semibankirschina (Sept banquiers) ont été soit exilés, soit mis au pas. Gussinsky a quitté la Russie en 2000 à la suite d’accusations de détournement de fonds. Khodorkovsky a été arrêté par les autorités russes en 2003 et accusé de fraude. Il a purgé 10 ans de prison, au cours desquels sa fortune a été décimée, et il s’est enfui en Suisse puis à Londres à sa libération. Alexander Smolensky a vendu bon nombre de ses actifs, a abaissé son profil et aurait déménagé à Vienne. Vitaly Malkin est devenu un loyaliste extérieur de Poutine, tout en essayant pendant près de 20 ans de déménager au Canada, en investissant des millions à Toronto et en prenant la citoyenneté israélienne. Curieusement, Vladimir Potanine, le seul gentil parmi les Semibankirschina, a le plus prospéré sous Poutine, devenant l’homme le plus riche de Russie.

Mikhail Fridman, né en Ukraine, a suivi une trajectoire plutôt stable, se concentrant sur les questions financières, cultivant une personnalité Est-Ouest depuis son manoir londonien et évitant les affrontements politiques. Cependant, les roues ont récemment commencé à se détacher pour Fridman, grâce au conflit ukrainien et à son désir d’éviter des répercussions financières personnelles. Fridman a été l’un des premiers oligarques à exprimer clairement son opposition à la guerre et, dans une interview ultérieure avec Bloomberg, il a admis que sa déclaration décrivant le conflit comme une tragédie « pourrait rendre dangereux son retour en Russie ». L’interview de Bloomberg met en lumière le choc que Fridman a ressenti en se retrouvant isolé de la sphère occidentale malgré, comme Moshe Kantor, avoir investi des années dans un réseautage minutieux :

Rien de tout cela ne l'a aidé à éviter le sort de certains autres magnats russes. Ses années de réseautage aux États-Unis et en Europe non plus. Le 28 février, son avocat l'a retiré d'une réunion en lui annonçant que l'Union européenne l'avait sanctionné, ainsi que son partenaire commercial de longue date, Petr Aven [également juif], qui dirigeait Alfa-Bank, la plus grande banque privée de Russie et une banque clé du Consortium Alfa Group de Fridman. L'avocat a commencé à débiter ce que cela signifiait : interdictions de voyager, comptes gelés. Fridman pouvait à peine enregistrer les mots. « J'étais sous le choc », me dit-il. « Je n'ai presque pas compris ce qu'il disait. »

Fridman affirme que les sanctions sont politiquement inutiles car les oligarques n’ont aucune influence sur Poutine, seulement des relations d’affaires :

Ce qui est clair pour lui maintenant, dit-il, c'est que l'UE ne comprend pas comment fonctionne réellement le pouvoir en Russie. Si le but des sanctions est de motiver des gens comme lui à faire pression sur Vladimir Poutine, dit-il, c'est pire qu'irréaliste. « Je n'ai jamais été dans une entreprise d'État ou un poste d'État », déclare Fridman. « Si les responsables de l'UE croient qu'à cause des sanctions, je pourrais approcher M. Poutine et lui dire d'arrêter la guerre, et cela fonctionnera, alors j'ai bien peur que nous ayons tous de gros problèmes. Cela signifie que ceux qui prennent cette décision ne comprennent rien au fonctionnement de la Russie. Et c'est dangereux pour l'avenir. »

Les sanctions et autres impacts économiques de la guerre ont déjà anéanti un tiers de la richesse de Fridman, et bien qu’il soit toujours incroyablement riche, il est plus ou moins piégé à Londres et n’a pas accès à de l’argent. Stephanie Baker, interviewant Fridman pour Bloomberg, souligne qu’« il doit maintenant demander une licence pour dépenser de l’argent, et le gouvernement britannique déterminera si toute demande est ‘raisonnable’ ». Les organisations juives d’Ukraine ne cessent de l’appeler pour lui demander des progrès sur un don de 10 millions de dollars qu’il leur a promis mais qu’il ne peut plus honorer. Baker ajoute,

L'argument de Fridman selon lequel il n'est pas en mesure d'exercer une influence sur le Kremlin reflète la façon dont le rôle des milliardaires russes a été renversé depuis les années 1990. À l'époque, Fridman était l'un des sept oligarques d'origine, la semibankirschina. En tant que groupe, ils ont soutenu la campagne de réélection du président Boris Eltsine et ont dominé le Kremlin. Lorsque Poutine est arrivé au pouvoir en 2000, il a imposé son propre modèle : le nouveau pacte était que s'ils restaient en dehors de la politique, ils pouvaient continuer à gérer leurs entreprises. Poutine a détruit les oligarques qui ont violé cet arrangement.

L’incapacité de Fridman à contenir sa frustration face aux sanctions et sa volonté d’exprimer son opposition à la guerre pourraient bien marquer la fin de son implication directe dans la vie russe. Peut-être plus que tout autre oligarque, ses actions ont provoqué le discours désormais tristement célèbre dans lequel Poutine a attaqué les oligarques anti-guerre à la recherche de leurs propres intérêts économiques :

Le peuple russe sera toujours capable de distinguer les vrais patriotes des racailles et des traîtres et les recrachera simplement comme un moucheron qui a accidentellement volé dans leur bouche - les recrache sur le trottoir. … Je suis convaincu qu'une telle auto-épuration naturelle et nécessaire de la société ne fera que renforcer notre pays, notre solidarité, notre cohésion et notre capacité à répondre à tous les défis.

« Une auto-épuration naturelle et nécessaire de la société »

La nouvelle que des milliers de Juifs russes fuient vers Israël pour protéger leur argent, et les signes continus que de nombreux oligarques juifs maintenant hors de Russie pourraient ne jamais revenir, suggèrent que « l’auto-épuration naturelle et nécessaire de la société » de Poutine impliquera une réduction de la présence juive, de la richesse juive et de l’influence juive dans le pays. En plus des oligarques déjà mentionnés, il y a plusieurs milliardaires juifs, dont Boris Mints sur les listes russes les plus recherchées, pour une variété de crimes, y compris le détournement de fonds et la fraude. Leonid Nevzlin, un oligarque juif, ami de l’exilé Khodorkovski et ancien magnat du pétrole qui a fui la Russie en Israël il y a 20 ans afin d’échapper à une peine d’emprisonnement à perpétuité pour meurtre et crimes financiers, a récemment entrepris l’acte symbolique de renoncer à sa citoyenneté russe. Les demandes russes d’extradition de Nevzlin ont été ignorées à plusieurs reprises par Israël. Nevzlin a récemment déclaré à un journaliste : « J’ai été l’un des premiers à être frappé par Poutine. Il a jeté mes amis en prison et en a tué certains. »

L’un des aspects les plus fascinants de la carrière politique de Poutine est qu’elle combine un philosémitisme rhétorique et performatif souvent flamboyant avec des actions qui nuisent ou entravent directement les intérêts juifs. Comme mentionné dans un essai précédent, Poutine est l’un des principaux promoteurs européens du récit de l’Holocauste, mais c’est un récit de l’Holocauste nettement moins utile aux Juifs que la version hollywoodienne/Spielbergienne à laquelle nous sommes si habitués en Occident. C’est un récit de l’Holocauste dépouillé de l’exclusivité juive, imprégné de codes moraux géopolitiques favorables principalement à la Russie, et dirigé sans vergogne par et pour Moscou plutôt que Jérusalem. Dans un autre exemple curieux de rhétorique heurtant la réalité, en 2016, Poutine a invité les Juifs à venir s’installer en masse en Russie, sachant vraisemblablement très bien que des milliers de Juifs quittaient déjà la Russie à un rythme de plus en plus rapide. En 2014, plus du double du nombre de Juifs a quitté la Russie qu’au cours des 16 années précédentes.

L’une des forces de Poutine pour vaincre le pouvoir financier juif au plus haut niveau, ce qu’il a incontestablement fait, pourrait avoir son fondement dans le fait qu’il n’est pas un antisémite au sens classique. Il ne pense peut-être pas en termes raciaux, mais, en tant qu’ancien membre des services secrets, il est parfaitement à l’écoute des cliques, de l’intrigue, de la subversion et des subtilités de l’identité – les caractéristiques habituelles de l’activisme juif dans les cultures européennes. Il apparaît tout à fait capable d’éliminer de telles stratégies lorsqu’il les affronte sur une base individuelle et avec un pouvoir autocratique. Il peut déposer un Berezovsky, par exemple, non pas sur la base de la judéité, mais, néanmoins, sur certains comportements et associations qui sont une excroissance de la judéité. Ils disent qu’une horloge cassée sera toujours juste deux fois par jour, et de la même manière si l’on entreprend d’éliminer les stratégies de groupe opposées, même de manière « race aveugle », alors les confrontations avec les Juifs deviennent inévitables. De cette manière, Poutine est une sorte d’antisémite accidentel, ou plutôt accessoire, qui a dominé ou éliminé les financiers juifs dans son pays d’une manière probablement inédite depuis l’époque des Juifs de cour et la montée de la démocratie parlementaire.

Juifs en tant que bellicistes et pacifistes

Il y a une ironie dans la dernière situation difficile des financiers juifs de Russie étant donné que la guerre, historiquement, a été très bonne pour les Juifs. Pour cette raison, il vaut la peine de rechercher des précédents historiques et des parallèles. Derek Penslar, dans son livre Jewish and the Military (2013) publié à Princeton, souligne que les Juifs sont peut-être connus pour avoir évité le service militaire, mais qu’ils ont été prolifiques en profitant des conflits partout dans le monde :

Les Juifs étaient largement impliqués dans un système bancaire international qui tirait des profits considérables en prêtant des fonds directement aux gouvernements ou en emballant et en vendant la dette publique. Une grande partie de cette activité a eu lieu pendant ou à la suite de guerres. Pendant la guerre civile américaine, la dette du gouvernement de l'Union est passée de 65 millions de dollars à 3 milliards de dollars, soit environ 30 % du produit intérieur brut de l'Union. Une grande partie de cette dette était commercialisée sous la forme d'obligations d'État en petites coupures et achetées par des citoyens ordinaires. Les Rothschild avaient été les pionniers de cette pratique en France dans les années 1830, et le banquier Joseph Seligman l'a reprise aux États-Unis pendant la guerre civile. Après la guerre, les Seligman, ainsi que les banquiers Mayer Lehman et Jacob Schiff, ont énergiquement commercialisé des obligations américaines ainsi que celles des gouvernements des États du Sud à court de liquidités.

C’est Schiff qui a accordé quelque 200 millions de dollars de prêts au Japon pour alimenter ses objectifs expansionnistes en Extrême-Orient contre une Russie tsariste très détestée par les Juifs, et ce sont les Seligman qui « ont encouragé l’intervention des États-Unis » en Colombie en 1903 pour se tailler un Panama quasi indépendant, où les Seligman avaient investi dans des terres le long du futur tracé du canal. L’un des exemples les plus évidents et notoires d’une guerre pour les intérêts juifs est bien sûr la guerre des Boers, 1899-1902. L’Afrique du Sud avait été considérée comme un marigot rural par les Juifs jusqu’à une découverte de diamants en 1884 et la découverte d’or dans le Witwatersrand en 1887. Suite à ces événements, il y eut un afflux substantiel de commerçants juifs, qui devinrent rapidement une clique de millionnaires. Claire Hirschfeld, écrivant dans le Journal of Contemporary History, décrit comment les Juifs « ont pu, en un laps de temps relativement court, créer de puissants syndicats financiers et des empires étendus au sein d’une république boer d’agriculteurs encore accrochés à un style de vie pastoral ». Le pouvoir financier s’est rapidement transformé en un désir de domination politique, ce qui a nécessité le renversement des Boers. Cela nécessiterait l’utilisation de l’armée britannique, et Hirschfeld souligne qu’une grande partie de la fièvre de la guerre a été attisée par une presse britannique dominée par les Juifs : Oppenheim’s Daily News, Marks’ Evening News, Steinkopf’s St. James Gazette, et Levi-Lawson’s Daily Telegraph. L’un des principaux opposants à la guerre était le marxiste anglais Henry M. Hyndman, qui accusait les « seigneurs sémitiques de la presse » de harceler le gouvernement dans une « guerre criminelle d’agression » en Afrique du Sud. Il fut rejoint par le rédacteur en chef du journal Reynolds, W. H. Thompson, qui écrivit au début de la guerre :

Au bas de la guerre se trouvent les syndicats juifs et les millionnaires… comptant les poulets qui vont bientôt éclore. … La Bourse tire les ficelles et le gouvernement danse. Mais derrière la Bourse se cache la sinistre figure du Juif financier qui empêtre peu à peu le monde dans les tréfonds de la toile d'argent que la grande franc-maçonnerie raciale tisse jour et nuit aux quatre coins du globe.

Penslar reconnaît que les Juifs ont travaillé ensemble pour profiter de la guerre, écrivant que « c’est un fait, pas un fantasme antisémite, que les Juifs ont joué un rôle vital dans la coordination de l’allocation des matières premières pendant la Première Guerre mondiale, non seulement en Allemagne mais aussi dans le États-Unis. » Cela impliquait des cliques superposées de Juifs profitant de tous les aspects de la production de guerre.

À l’inverse, les Juifs peuvent basculer l’interrupteur pacifiste lorsqu’il est jugé que la guerre peut nuire à leurs intérêts. Penslar souligne que les Rothschild craignaient en 1914 qu’« une guerre puisse diviser la grande dynastie bancaire », tandis que Max Warburg commençait à vendre à la hâte ses actions dans des sociétés cotées à la bourse de Vienne. Le baron Rothschild a supplié le Times d’atténuer sa rhétorique anti-allemande, seulement pour que l’éditeur rétorque publiquement à cette « sale tentative financière juive allemande de nous intimider pour que nous défendions la neutralité ». Le magnat de la navigation juif allemand Albert Ballin regarda avec découragement sa flotte marchande couler au fond de l’Atlantique.

Conclusion

La guerre actuelle en Ukraine fait plus écho à Ballin qu’à la guerre contre les Boers. Face à l’invasion russe et à l’éternelle question « est-ce bon pour les juifs ? » les oligarques juifs dispersés de Russie répondraient probablement un « non » retentissant. La raison la plus importante serait, bien sûr, la baisse de leur richesse individuelle et collective. Des milliards ont été effacés de leurs comptes, leurs entreprises ont été entravées, leurs déplacements et leur capacité à faire des affaires sont restreints et leur accès à l’argent est limité. La nature de la finance internationale – politiquement, philosophiquement et technologiquement – ​​a évolué à un point tel que la profiterie juive à l’ancienne est plus difficile que jamais. En outre, cela a également rendu le ciblage individuel des financiers dans le contexte d’un conflit et d’une guerre non seulement faisable, mais facile et immédiat.

Les oligarques se retrouvent entre le marteau et l’enclume, considérés avec hostilité et suspicion par l’Occident, malgré des années de promotion de l’Holocauste et de philanthropie juive (comme si cela apportait réellement quelque chose à l’Occident), et de plus en plus éloigné et craintif du Kremlin. Le lieu d’installation naturel pour la plupart d’entre eux est Israël, qui lui-même essaie de cultiver une relation à la fois avec l’Est et l’Ouest, abandonnant l’un et flattant l’autre au gré de ses besoins. Même les Israéliens, cependant, considèrent les oligarques comme « toxiques » et ont été avertis par le gouvernement américain de ne pas prendre « d’argent sale ».

Forbes a discuté des spéculations de certains experts selon lesquelles Poutine est secrètement heureux du crépuscule des oligarques. Les sanctions peuvent les forcer à vendre des actifs qui profitent en fin de compte à ses agences de sécurité. Ou ils peuvent retourner en Russie et être forcés non seulement d’investir dans l’économie russe plutôt que de répandre leur richesse à l’échelle mondiale (comme des empires immobiliers à Londres, des yachts opulents, etc.), mais aussi d’adopter une position encore plus servile sous Poutine. La diminution des oligarques entraînera une vaste diminution des coffres des organisations juives internationales. Un puits financier clé se sera tari. La guerre de Poutine a peut-être insufflé une part de vérité dans une version éditée du dicton de Moshe Kantor : les restrictions imposées aux financiers juifs sont nécessaires pour la liberté de vivre une vie en sécurité.

A verdade sobre o discurso de ódio


Uma lei contra o ódio antijudeu marca, geralmente, o começo do fim para os judeus.
(JOSEPH GOEBBELS. In: Diary — 19ABR1943) [1]

A palavra “Ódio” é uma palavra tão feia! E seu uso revela certa infantilidade. Ela evoca a imagem estereotipada de uma menininha de oito anos que briga com a coleguinha e diz para esta: “Eu não gosto de você, feia!”. Mais comumente, o termo conota pouca seriedade, quando alguém, por exemplo, diz “Eu odeio o Fluminense” ou “Eu odeio brócolis” etc. Tarefas desagradáveis também ensejam seu emprego, como em “Eu odeio limpar o banheiro”. E o préstimo do vocábulo “Ódio” pode vir de seu estimado efeito retórico. Mas seu uso na expressão “discurso de ódio” é uma bobice, uma infantilidade, e tal expressão não tem sentido formal. Nós podemos não gostar de alguém ou de algum grupo, podemos sentir repulsa de pessoas ou categoria de pessoas, podemos desejar manter distância deste ou daqueles de quem desgostamos. Mas, odiar? Ora, seriamente falando, que pessoa madura diria hoje, aberta e ansiosamente, a frase “Eu odeio você!” para alguém? Só gente muito insegura ou perturbada faria uma coisa dessas. Esse seria sinal de fraqueza.

E, no entanto, o ódio parece ser o éthos do momento. Mais especificamente, estamos como que presos numa câmara de ressonância onde a mídia de massa reverbera ad nauseam histórias sobre os “discursos de ódio”. A julgar pelas manchetes e pelo que dizem os comentaristas progressistas, o discurso de ódio poderia ser considerado o mais grave perigo da atualidade, a par do racismo e da famosa “supremacia branca”. Tratar-se-ia de ameaça mais séria do que a corrupção política, o terrorismo internacional, a pandemia, a instabilidade financeira, a degradação ambiental, a superpopulação ou o descontrole da tecnologia industrial. A maioria dos países europeus já adota medidas legais contra várias formas de discurso de ódio, ainda que incertamente definidos, bem assim o Canadá e a Austrália. Até mesmo nos Estados Unidos cresce a pressão para a adoção de sanções nesse mesmo sentido, não obstante a Primeira Emenda.

Eu tenho com toda essa questão um envolvimento muito pessoal. Muitos sabem que venho escrevendo de forma incisiva contra os judeus e outras minorias. Não é segredo que para mim o melhor é viver numa comunidade branca em uma nação branca. Eu não sinto nenhuma necessidade de me desculpar por nada disso. E, por isso mesmo, algumas pessoas acham que devem me chamar de “odiento”. Elas dizem: “Dalton odeia os judeus”, “Dalton odeia os pretos”, “Dalton odeia os latinos”… mas não é nada disso. Eu quero declarar, para deixar registrado aqui, que nada está mais longe da verdade do que isso que falam de mim. Eu não odeio ninguém. Eu posso não gostar de alguns tipos de gente, eu posso considerar que certas categorias sociais compõem-se de elementos de má índole e mau comportamento. Então, como é natural, vem-me o desejo de estar longe deles e de que sejam punidos; mas isso não quer dizer que eu sinta ódio deles.

Nestes nossos dias, as leis dispondo sobre “crimes de ódio” e “discursos de ódio” abundam. Eis por que isso tudo está a exigir explicação. Examinemos, pois, com mais vagar, essa questão.

Como recomenda a lógica, devemos começar por conhecer o objeto de nossa discussão. O que, exatamente, significa “odiar” [to “hate”]? A etimologia da palavra [inglesa] remonta a tempos muito antigos. Ela deriva do indo-europeu Kədes, por via do grego Kedos. Originalmente, e isso surpreende, significava apenas “sentimentos fortes”, mas de forma neutra, ou seja, sem conotação negativa. Com efeito, a palavra do irlandês antigo Caiss reúne o duplo sentido de amor e ódio. Mas o significado negativo emerge com o germânico Khatis (depois, Hass), daí o alemão Haat, que eventualmente derivou para o inglês Hate.

Nos dicionários, a definição mais consagrada é esta: “Intenso ou extremo desprazer, aversão ou hostilidade para com alguém ou alguma coisa”. Assim, a palavra tem conteúdo quase inócuo; eu posso odiar meu emprego, posso odiar aspargo ou o meu chefe. Mas o fulcro da questão não é esse. Estamos mais preocupados com o ódio enquanto mentalidade, especialmente quando orientado a grupos sociais ou orientado, cada vez mais, a certas ideologias privilegiadas.

Depara-se-nos nesta altura, entretanto, sério problema: o ódio é sentimento, e sentimentos são subjetivos, indelevelmente. Ora, qualquer coisa subjetiva não pode ser quantificada de forma objetiva. Ninguém pode dizer, com certeza, que “Dalton odeia X”. Só eu posso dizer “Eu odeio X”, precisamente porque eu estaria falando de mim mesmo, de sentimento meu. Se há alguma coisa de que não abro mão, é o princípio da minha absoluta soberania sobre os meus próprios sentimentos. Ninguém nunca irá me obrigar a sentir desta ou daquela forma alguém ou alguma coisa.

E mesmo se eu disser “Eu odeio X”, como poderia alguém saber se realmente sinto o ódio? Ninguém pode. Eu poderia estar sendo sarcástico, estar brincando ou fazendo uma provocação. Ninguém saberá meu sentimento real, a não ser eu mesmo — porque se trata de meu sentimento. Ninguém saberia do meu sentir, se verdadeiro ou fingido. (E será que isso teria importância?)

Conforme venho tentando demonstrar, o ódio desaparece na turvação da subjetividade, completamente inacessível aos outros, e não pode ser quantificado ou objetivado, razão por que não se pode assentar nele nenhuma tipificação penal — pelo menos nos processos com trâmite no tribunal da razão. Donde o correspondente conceito de “discurso de ódio”, visto como expressão do ódio, desmilinguir-se na transparência do ar iluminado pelo Sol da lógica. Tal conceito, do ponto de vista técnico, é incoerente, não serve de base para o direito. O que, como se sabe, não impede legisladores corruptos no mundo todo de reprimir a liberdade de expressão a pretexto de combater o “discurso de ódio”.

Os doutores da lei aplicam a mordaça por muitas e diferentes razões. Isto, eu explicarei a seguir.

Então, vejamos como eles tentam definir o indefinível. Aqui está uma interessante “definição” do discurso de ódio no Cambridge Dictionary: “[Discurso de ódio] é um discurso público que expressa ódio ou incentiva a violência contra pessoa ou grupo com base em alguma coisa como raça, religião, sexo ou orientação sexual”.

Essa aí é uma definição das mais problemáticas sob muitos aspectos.

Primeiro: quão público é o “público”? Se eu conversar com o meu vizinho, nossa comunicação é pública? Se eu me manifestar num locutório privado do ciberespaço, minha expressão será pública? E se eu conversar em voz alta com um amigo num xópin? E se uma mensagem minha de correio eletrônico para um colega for repostada num blogue? Uma correspondência dirigida a mais de meia dúzia de contatos deixa de ser inviolável? O princípio da inviolabilidade da correspondência só se aplica a mensagens escritas em papel? Questionamentos não faltam.

Segundo: a definição envolve as noções de “expressão de ódio” e “incitação à violência”. Estas são duas coisas completamente diferentes. “Expressão de ódio” é, como eu disse, uma expressão que não expressa nada, falta-lhe qualquer sentido funcional. O que transforma uma expressão qualquer numa “expressão de ódio”? Presumidamente, se eu digo “Eu odeio X”, esta frase indicaria ódio. Mas, o que mais? A frase “Eu, realmente, mas realmente mesmo, de verdade, não gosto de X” indicaria ódio? E que tal “Eu adoraria ver o cadáver de X”? E se eu desejasse que X ficasse gravemente doente, haveria ódio em meu coração? Se afirmo que “X é um escroto”, dou sinal de odiar? Tais questões mostram os problemas da pouca consistência da definição. A “incitação à violência” é noção pouco menos ambígua, mas ainda problemática. Quem poderia, por exemplo, julgar do propósito de “incitação”? Este é outro termo altamente subjetivo. E quanta violência seria necessário incitar para a tipificação do “crime”? Um bom safanão seria violento? Uma torta na cara? Uma rasteira em alguém? Causar “desconforto emocional” é violência? E o que dizer de um calote?

Terceiro: a definição não se refere à violência em si mesma, mas à violência “com base em alguma coisa como raça, religião, sexo ou orientação sexual”. Isto é muito estranho. O que a expressão “alguma coisa como” significa aí? Os critérios de qualificação são geralmente considerados imanentes à pessoa ou ao grupo (raça, gênero) — mas a religião e a orientação sexual podem mudar da noite para o dia, não são “coisas”, elementos materiais permanentes. Por isso, as qualidades levadas em conta não precisam ser intrínsecas, como seria o caso de marcas antropofísicas. Então, qual seria, precisamente, esse critério misterioso, essa “alguma coisa” tão crucial para toda a definição?

A questão aqui é que a noção de “discurso de ódio” dissolve-se completamente no vazio da subjetividade, assim como o próprio “ódio”. Em termos objetivos, não há sentido nisso aí. Assim, como tal conceito serviria de objeto sobre o qual aplicar a força da lei?

O figurino da ONU

Como se já não tivesse muito com que se ocupar na gestão do caos no mundo, a ONU agora diz estar “preocupadíssima” com a reiteração, que se vai ampliando, do discurso de ódio em todo o mundo. Recentemente, em maio de 2019, a ONU emitiu uma curta declaração intitulada “Estratégia e plano de ação contra o discurso de ódio.” Na tal declaração, consta a seguinte passagem:

Não existe definição internacional legal para o discurso de ódio, e sua discussão não é tranquila: a caracterização do que seja o “odiento” sofre contestação. Neste documento, a expressão “discurso de ódio” é entendida como qualquer tipo de comunicação verbal, textual ou comportamental que ataca ou emprega linguagem pejorativa ou discriminatória em referência a uma pessoa ou a um grupo, por causa do que é essa pessoa ou grupo — em outras palavras, por causa de sua religião, etnicidade, nacionalidade, raça, cor, descendência, seu gênero ou outro fator identitário. Isto tem por causa e consequência a intolerância e o ódio, podendo ser divisivo e aviltante em certos contextos.

As frases-chaves a considerar aí: “sua discussão não é tranquila” e “a caracterização do que seja ‘odiento’ sofre contestação” (obviamente); “qualquer tipo de comunicação verbal” (muito ampla); “pejorativa ou discriminatória” (altamente pejorativa e indefinida; e “por causa do que é essa pessoa ou grupo” (fatores intrínsecos na maioria, com exceção da nacionalidade e da religião).

A seguir topamos com este parágrafo de “explicação”:

Em vez de proibir o discurso de ódio em si mesmo, o direito internacional proíbe o incitamento à discriminação, à hostilidade e à violência. O incitamento é um tipo de discurso muito perigoso, porque ele, explícita e deliberadamente, tem por fim desatar a discriminação, a hostilidade e a violência, o que pode dar lugar ao terrorismo e a quaisquer atrocidades. O discurso de ódio que não chega ao limiar do incitamento não é alguma coisa cuja proibição o direito internacional possa requerer dos Estados.

Assim, o discurso de ódio por si só não deve ser proibido, mas sim um tipo especial de discurso de ódio: aquele que incita a violência. Em outras palavras, o que aí vai dito, aparentemente, é que a repressão só se deve abater sobre o pior do pior. Essa tese, eles iriam desenvolver e explicar pouco tempo depois.

Também é de notar que o prefácio da declaração revela a motivação profunda por trás dela. Logo no primeiro parágrafo constam referências ao “antissemitismo”, aos “neonazistas” e à tenebrosa “supremacia branca”. Essas expressões estão sempre presentes em qualquer discussão sobre o discurso de ódio, o que é estranho. Voltaremos a essa questão mais abaixo.

Mas a ONU, insatisfeita com essa declaração muito curtinha, publicou documento mais alentado, a “orientação detalhada”, de 52 páginas, com o mesmo título da declaração anterior. Na nova “orientação”, eles estabelecem três níveis de gravidade, ou seja, três tipos de discursos de ódio. Tais tipos distribuem-se numa “escala” decrescente da “quantidade” de ódio que “irradiam”, indo do tipo 1 ao tipo 3.

Então, a gradação fica sendo a seguinte: tipo 1: o pior tipo, implica “incitamento direto e público à violência” (incluindo o genocídio); tipo 2: de gravidade intermediária, consiste na zona cinzenta dos discursos de ódio, devendo ser reprimido “na medida do necessário e de forma proporcionada” com base em “objetivos legítimos”; tipo 3: um discurso sem restrição, livre porque legalmente lícito, mas pode ser “ofensivo, chocante ou perturbador”.

O tipo 1 dos discursos de ódio, no nível 1, o nível máximo de ódio (“incitação”), tem por base as condições seguintes, que também o determinam:

1. o contexto social e político;
2. o status do manifestante;
3. a intenção do manifestante;
4. a forma e o conteúdo do discurso;
5. o alcance da difusão;
6. o potencial ofensivo.

Para sua caracterização como de nível 1, o discurso de ódio deve atender a essa meia dúzia de quesitos. No seu conjunto, esses tópicos indicam relações sociopolíticas fortemente tensionadas, um manifestante de posição importante e influente na sociedade, com má intenção e estilo provocativo, dispondo de grande audiência e razoável capacidade de causar agravo. De novo, a identificação de um discurso de ódio de nível 1 deve apontar nele essas seis marcas. Os níveis 2 e 3 podem ter algumas das marcas ou nenhuma delas. Os seis critérios constam as páginas 17 e 18 da tal “orientação detalhada”.

Depara-se-nos ainda esta interessante admissão: “Os termos ‘ódio’ e ‘hostilidade’ devem ser entendidos como referentes a emoções intensas e irracionais de opróbrio, inimizade e antipatia para com o grupo-alvo” (p. 13). Ah, que grande alívio! Isso quer dizer que nenhum antagonismo a judeus ou outras minorias, desde que racional e não emocional (isto é, baseada em fatos) conta como discurso de ódio. Por conseguinte, nenhum estudioso, acadêmico ou qualquer pesquisador sério que disserte fundamentado em fatos, baseado em história, apoiado em inferências plausíveis pode ser acusado, sob nenhuma circunstância, de envolvimento com discursos de ódio. Eu estou salvo! Esta é uma grande brecha que os censores ideológicos não perceberam. Devemos ser capazes de usar essa ambiguidade em nosso favor.

Nós (alguns de nós, pelo menos) encontramos ainda mais alívio na página onde é dito que o discurso de ódio do tipo 3 (permitido) inclui não só manifestações “ofensivas, chocantes ou perturbadoras”, mas também compreende “a negação de eventos históricos, incluindo crimes de genocídio ou crimes contra a humanidade”. Segundo a ONU, a assim chamada negação do holocausto é um tipo de discurso de ódio admissível ou, pelo menos, não punível.[2] E na figura 4 [p. 15], eles vão ainda além, afirmando que o ódio do tipo 3 “deve ser protegido” como forma de liberdade de expressão. Essa é uma notável concessão. Ah, mas existe uma pegadinha: “a menos que tal forma de expressão também constitua incitação a hostilidade, discriminação ou violência nos termos do artigo 20 (2) da International Covenant on Civil and Political Rights”. Este documento, escrito em 1966 e vigente desde 1976, traz estas palavras no artigo 20: “Qualquer apoio público ao ódio nacional, racial ou religioso, implicando incitação a discriminação, hostilidade ou violência, deve ser proibido pela lei”. Então, parece que, por exemplo, discutir a “negação” do Holocausto (seja lá o que for isso) não seja proibido, contanto que se evite qualquer tipo de “incitação”. Assim, pois, poder-se-ia questionar a veracidade historiográfica do Holocausto sem nenhum problema, mas a expressão de opinião sobre esse delicado assunto exige muita cautela. Com efeito, não se pode cometer a indiscrição de falar daqueles que hoje promovem, exploram e lucram com a história convencional do Holocausto.

“Tudo tem a ver com os judeus, sempre!”

Ataquemos agora o busílis da questão. A hipótese de trabalho que proponho é esta: o discurso de ódio é uma criação de judeus que trata de judeus e serve a judeus. (Ai, ai, ai… será que serei denunciado?) O mesmo é dizer que as leis relativas ao discurso de ódio foram forjadas e promovidas por judeus, sobretudo para o próprio bem deles. Eu vou além: sustento que os judeus são os maiores professores e praticantes do ódio já vistos na história do mundo e que eles, melhor do que qualquer outra população, compreendem o poder do ódio. Além disso, eles aprenderam a projetar seu ódio sobre outros como forma de servir a seus próprios interesses, apelando à maquinação e à fraude. Passemos à exposição das evidências indicativas do acerto de nossa hipótese.

Vamos começar falando de breve história a propósito dos judeus e do ódio. Talvez o primeiro registro mais explícito nesse sentido tenhamos recebido de Hecateu de Abdera [historiador e etnógrafo grego], que escreveu o curto relato “Sobre os judeus” no ano 300 antes de Cristo. Desse escrito restaram apenas dois fragmentos. O mais importante deles reza que, em consequência do Êxodo, “Moisés introduziu um modo de vida, em certa medida, misantrópico (apanthropon) e hostil a forâneos”. [3] Causa algum choque saber que, mesmo em tempo tão recuado, já pesava sobre os judeus a má fama da misantropia, ou seja, fazia-se deles o malconceito de que odiavam a humanidade. O mesmo tópico ressurge em 134 antes de Cristo, quando o Rei Antíoco VII foi aconselhado a “destruir os judeus, porque era o só povo que recusava toda relação com outros povos e via todo o mundo como seu inimigo”. O consiliário do rei referiu ainda que “o ódio do judeu para com toda a humanidade contava com a sanção positiva de suas próprias leis.”[4] Não apenas se fazia notável o seu ódio, como também o fato de que era “o só povo” entre outros povos a carregar tanta negatividade. Pelo que parece, os judeus de há muitos séculos já se destacavam por seu ódio excepcional.

Vale a pena considerar com mais vagar a ideia de que o ódio judeu “contava com a sanção positiva de suas próprias leis” — sendo esta uma referência dos sábios helenos ao Velho Testamento. Nós sabemos, evidentemente, que os judeus veem a si mesmos como os “eleitos” do criador do universo: “Porque tu és povo santo ao Senhor teu Deus; o Senhor teu Deus te escolheu, a fim de lhe seres o seu próprio povo, o seu tesouro, acima de todos os outros povos que há na Terra” (Dt 7,6). Aí está, pois: qualquer outro povo fica em segundo plano. Sabemos também que Deus teria agraciado os judeus com a condição de senhores das outras nações da Terra. O Livro do Êxodo afirma: “Nós [judeus] somos distintos […] dos outros povos na face da Terra” (33,16). Similarmente, a tribo dos hebreus é “o povo que habita sozinho e não se conta entre as nações” (Nm 23,9). No Deuteronômio (15,6), Moisés fala ao povo judeu: “Dominarás sobre muitas nações, porém elas não dominarão sobre ti”; ainda: “E todos os povos da Terra […] terão medo de ti” (28,10). Agora, em Gênese: “Que as nações te sirvam e os povos se curvem diante de ti” (27,29). No Deuteronômio, de novo, Deus promete aos judeus “casas cheias do que há de melhor, de coisas que não produziram, com cisternas que não cavaram, com vinhas e olivais que não plantaram” (6,11). E, fora do Pentateuco, nós podemos ler isto em Isaías: “Estrangeiros edificarão os teus muros, e seus reis te servirão […] E as tuas portas estarão abertas […] para que tragam a ti a riqueza dos gentios, e conduzidos com elas, os seus reis” (60, 10-11). Em Isaías, também: “Gente de fora vai pastorear os rebanhos de vocês; estrangeiros trabalharão em seus campos e vinhas. […] Vocês se alimentarão das riquezas das nações, e do que era orgulho delas, vocês se orgulharão” (61,5-6). O que não é tudo isso, senão misantropia explícita dos judeus, com a sanção “de suas próprias leis”? O conselheiro de Antíoco estava certo.

Acerca do ano 50 antes de Cristo, Diodoro da Sicília escreveu Biblioteca histórica. Nesta, na parte em que trata do Êxodo, o autor observa que “A nação dos judeus fez do ódio à humanidade a sua tradição” (34,1). Poucas décadas depois, Lisímaco registrou que a tribo hebraica fora instruída por Moisés para “não mostrar boa vontade a nenhum homem” e para “dar sempre o pior conselho” aos outros. E, nos primeiros anos depois de Cristo, o sábio greco-egípcio Apião notou a tendência que tem o judeu de “não mostrar boa vontade nem a um só forâneo, principalmente em se tratando de um grego”.[5] De novo, outra série de observações do ódio judeu para com a humanidade gentia pontua a história.

Porém, o mais perspicaz “discurso de ódio” dos antigos, nós o recebemos do historiador romano Tácito. Seus trabalhos Histórias (ano 100 depois de Cristo) e Anais (ano 115 depois de Cristo) trazem notas arrasadoras sobre a tribo dos hebreus. No primeiro, os judeus são retratados como “uma raça de homens que devota ódio aos deuses” (genus hominum invisium deis, V. 3). Mais adiante, ele assinala que “Os judeus são extremamente leais uns com os outros e sempre se mostram compassivos entre si, mas só sentem ódio e hostilidade (hostile odium) ante qualquer outro povo” (V. 5). Entretanto, suas mais famosas linhas estão no segundo desses trabalhos, Anais. Aí ele trata do Grande Incêndio de Roma, em 64 depois de Cristo, e da reação de Nero diante do sinistro. Nero, diz Tácito, atribuiu parte da culpa a cristãos, mas também aos judeus — “um tipo de gente detestável por seus vícios”. Os judeus “foram condenados não tanto pelo incêndio quanto por seu ódio do gênero humano” (odio humani generis, XV. 44). Este era, isso fica claro, o fator decisivo para Tácito como para toda a urbe romana: o odio humani generis dos judeus, ou seja, o ódio criminoso que tinham pela humanidade, sentimento de que o mundo só estaria livre com a proscrição ou extinção dos judeus.

Podemos parar por aqui em relação à Antiguidade. A citação poderia continuar, mas o recado está dado: o mundo antigo via os judeus como extraordinários cultivadores do ódio.

Se fôssemos continuar, citaríamos, por exemplo, Lúcio Flávio Filóstrato (c. 170-250): “Os judeus sempre estiveram rebelados não só contra os romanos, mas também contra toda a humanidade”; ou Porfírio de Tiro (c. 280), filósofo fenício da Síria romana: “Os judeus são inimigos impiedosos de todas as nações”; mas continuar seria supérfluo: a advertência necessária para uma discussão bem informada era essa.

Importa acrescentar que o tempo não mudou a imagem do judeu na Europa. Assim como visto na Antiguidade, o judeu era visto no Renascimento e na Reforma. E como visto há quinhentos anos, assim o judeu é visto na atualidade. O monumental trabalho de Martinho Lutero Sobre os judeus e suas mentiras (1543) traz esta passagem: “Agora, podeis ver quão estranhas crianças de Abraão os judeus realmente são, quão parecidos com o diabo, seu pai, eles são; pois é, vede que ‘belo’ povo de Deus eles são. Eles se vangloriam de sua origem física perante Deus, eles se gabam da nobreza do sangue que herdaram de seus antepassados, eles desprezam todos os outros povos”.[6] Dois séculos depois, por volta de 1745, Jean-Baptiste de Mirabaud escreveu que “Os judeus […] eram odiados porque odiavam outros homens”.[7] E há ainda o verbete de Voltaire sobre os judeus no seu famoso Dicionário Filosófico. Lá está escrito o seguinte:

Com certeza a nação judaica é a mais singular já vista na história do mundo e […] a mais desprezível de todas sob perspectiva política. […] Fala-se, comumente, que a marca da abominação que os judeus enxergam em outras nações tenha origem na sua aversão à idolatria; não me parece ser esse o caso. Muito mais provavelmente, seu insopitável ódio proceda da guerra de extermínio que moveram contra algumas das tribos de Canaã e do horror deles suscitado nas nações vizinhas. Como eles não conheciam outras nações além daquelas de sua vizinhança, acabaram por generalizar sua inimizade, expandindo sua repugnância pela Terra toda, com o que acabaram incorporando ao seu caráter a condição de inimigos de todos os homens. […] Em resumo, eles não passam de um povo ignorante e bárbaro, que aliou a mais sórdida avareza com a mais detestável superstição e o mais irrefreável ódio por todo povo que os tenha tolerado e enriquecido.[8]

O historiador inglês Edward Gibbon, em seu clássico trabalho de 1788, Declínio e queda do Império Romano, escreve o seguinte:

Os judeus […] emergiram da obscuridade […] e se multiplicaram de forma surpreendente […] A sombria obstinação com que mantiveram seus peculiares ritos e modos misantrópicos parece tê-los marcado como distinta categoria humana, que destemidamente professava ou sutilmente disfarçava seu implacável ódio do resto da espécie humana.[9]

Uma observação similar deixou-nos o filósofo alemão Johann Fichte em 1793:

Por quase todos os países da Europa alastra-se poderosa e hostil grei engajada em perpétua guerra contra os seus Estados, em muitos dos quais impõe terríveis cargas sobre seus cidadãos: trata-se da judiaria. Eu não acho, como espero mostrar adiante, que os judeus sejam temíveis pelo fato de formarem um Estado forte e separado, mas sim pelo fato de ser esse um Estado fundado no ódio que eles têm de todas as raças humanas […].[10]

Quem são, afinal, os maiores odiadores da história? A esta altura, essa não é uma pergunta de difícil resposta.

Particularmente chocantes são as palavras de Nietzsche. Uma longa série de comentários negativos sobre os judeus começou em 1881 com o seu livro O amanhecer do dia. Aí (seção 377) ele observa que “O mandamento ‘Ame seu inimigo’ tinha mesmo de ser inventado pelos judeus, que são a grege mais odienta que já existiu”. Assim, vê-se que os judeus são realmente insuperáveis no que diz respeito a sua aptidão para o ódio. Doutra feita, em A gaia ciência (1882), Nietzsche escreve, sarcasticamente, que os judeus são, de fato, a grege “especial”, porquanto “entre os demais povos, são eles os que desprezam o ser humano da forma mais profunda”. (seção 136)

Entretanto, Nietzsche deu a lume ainda mais marcante discurso no seu trabalho de 1887, A genealogia da moral. Neste livro, o filósofo oferece detalhada análise do ódio, visto de perspectiva judaico-cristã. Ele diz, em resumo, que o ódio judeu mostra-se mais claramente nos meios religiosos, entre rabinos e devotos. Sancionado por Deus, o ódio sacerdotal é o mais intenso e profundo; trata-se do ódio daqueles sem poder tangível. O ódio judaico, então, metastasiou-se pela Cristandade, tomando a forma nominal de seu antônimo, ou seja, o amor. O primeiro texto do livro é magistral dissertação da literatura e da filosofia. Confira na longa citação abaixo:

Como se sabe muito bem, os sacerdotes são os mais temíveis inimigos — mas por quê? Porque são eles os que menos poder têm. Da acracia deles, o ódio emerge como alguma coisa imensa e terrível, manifestando-se como veneno do espírito. Os odiadores realmente grandes na história mundial, aqueles que odeiam da forma mais espiritualizada, têm sido os sacerdotes. Em comparação com o ódio religioso que alimenta o espírito da vingança, outras expressões de antipatia nem merecem consideração.

Consideremos, brevemente, o maior exemplo disso aí. Tudo o que na Terra tenha sido feito contra “os nobres”, “os poderosos”, “os dominadores”, “os governantes” não se compara com o que os judeus perpetraram contra eles: os judeus, povo religioso, soube tirar a desforra final de seus inimigos e conquistadores, transformando radicalmente os valores de seus subordinadores, subvertendo sua cultura, — ou seja, os judeus vingaram-se espiritualmente de seus antigos senhores. Só um povo religioso seria capaz disso, quando tomado do mais profundo e represado desejo de vingança religiosa. Contrariamente à equação dos valores aristocráticos (bom = nobre = poderoso = belo = feliz = amado de deus) e com admirabilíssima consistência, os judeus ousaram empreender a inversão das coisas e à ordem virada ao avesso aferraram-se com unhas e dentes afiados pelo mais intenso ódio, o ódio daqueles sem poder […]. (seção 7)

Você não consegue entender isso? Você não tem olhos capazes de enxergar algo que levou dois milênios para se formar e emergir para a vitória? […] Não é de estranhar: todas as coisas muito prolongadas são de mais difícil percepção e avaliação. Entretanto, isto foi o que aconteceu: do tronco da árvore da vingança e do ódio, do ódio judaico — o mais arraigado e mais sublime ódio, isto é, o ódio que cria ideais e transforma valores, coisa nunca antes vista na Terra — desse tronco brotou algo extraordinário, um tipo de novo amor, o mais profundo e mais sublime dos sentimentos de amor: — de que outro tronco poderia ele desabrochar?

Entretanto, não se deve pensar que esse amor tenha consistido, essencialmente, na negação daquela sede de vingança, no oposto do ódio judaico! Não. O que se passou, de fato, foi o inverso. O novo amor surgiu desse ódio enquanto coroamento dele, como a própria coroa do ódio — coroa vitoriosa que se expande mais e mais, dotada do mais puro brilho de um sol — e buscava, por assim dizer, o reino da luz e da elevação, o objetivo daquele ódio, na ambição de vitória, troféus e sedução, com a mesma urgência com que as raízes daquele ódio cravavam-se tenazmente nas entranhas de tudo o que fosse maligno e profundo. Jesus de Nazaré, o evangelista vivo do amor, o “Salvador” que traz santidade e vitória para os pobres, doentes e pecadores — não era ele a própria sedução na sua forma mais terrível e irresistível, sedução e desvio para, exatamente, aqueles valores judaicos e ideais subvertidos? (seção 8)

Desta perspectiva, o “amor” cristão forma-se do ódio judaico, como se forma a copa das árvores de suas raízes. Os judeus (e Paulo, especificamente), os odiadores-mores, os fautores daquele que é o “mais profundo e mais sublime ódio” já visto na história da humanidade, eles criaram a ideia de um “salvador”, que ama todos os seus “irmãos” neste e no “outro” mundo. Assim o fizeram para encobrir seu ódio anti-humano e fazer parecer atraente a visão de mundo de inspiração judaica — a visão do homem-deus (Jesus), do Jeová todo-poderoso, do céu e do inferno. Estes destrutivos e niilísticos “valores e inovações” só poderiam ser impostos a uma humanidade odiada. O cristianismo foi, portanto, a maior manifestação do ódio judeu e a maior de todos os tempos.

Na seção 16, Nietzsche resume a sua tese assim:

Em Roma, o judeu foi considerado “culpado de ódio contra toda a raça humana”. E essa sentença estava correta, porque é correto ligar o bem-estar da humanidade futura à vigência incondicional dos valores aristocráticos, o mesmo é dizer valores romanos.

Esses niilísticos valores cristãos — baseados num mítico Deus e numa desconhecível e decerto inexistente vida no mundo do além — tiveram por efeito minar e, por fim, deslocar os superiores valores greco-romanos, que floresceram durante 800 anos e criaram as fundações de toda a Civilização Ocidental. A esta altura, somente a derrubada do judeo-cristianismo e o retorno aos valores clássicos e aristocráticos poderão salvar a humanidade. As palavras entre aspas na citação anterior são aquelas de Tácito, referidas antes, é claro.

Não podemos deixar A Genealogia… sem mencionar rapidamente a fascinante e jocosa alegoria sobre o ódio que faz Nietzsche na seção 13. Nessa passagem, ele compara a condição dos baixos odiadores (judeo-cristãos) com aquela dos fortes e nobres aristocratas (romanos). Os judeus e cristãos são assimilados a cordeirinhos; e os nobres aristocratas, a algum tipo de repulsivo predador (Raubvogel), tal qual uma águia. Os filhotinhos de carneiro pastam inocente e pacificamente no campo, mas vivem sempre no temor do predador, que pode, num átimo, descer do céu e arrebatá-los para cima. Os fracos anhos são odiadores; eles odeiam as aves de rapina. Mas as nobres águias são seres que não abrigam nenhum ódio. Nietzsche explica isso da seguinte forma:

Mas voltemos à vaca fria: o problema com a outra origem do “bem”, do homem bom, segundo a mentalidade da pessoa ressentida para servir a si mesma como justificação de sua condição. Para começo de conversa, o fato de os cordeirinhos ficarem transtornados sob o olhar das grandes aves predadoras não tem nada de estranho, e ninguém pode falar nada contra os caçadores alados só porque capturam os pequenos ovinos. As presas decerto fariam o seguinte comentário: “Essas aves rapinantes são malignas, e qualquer animal sem a mínima semelhança com elas, sobretudo algum que fosse o contrário delas, um cordeiro, por exemplo, esse animal não seria um animal bom?”. Não há nenhuma falha a ser apontada na instauração desse ideal, a não que as águias, olhando lá de cima para baixo, veriam os animaizinhos de forma um pouco sarcástica e talvez dissessem assim, mais ou menos, para si mesmas: “Esses bons cordeiros não nos causam nenhuma irritação. Na verdade, nós os amamos. Nada é mais saboroso do que a macia carne de um cordeiro”.

Os nobres não odeiam; eles governam e dominam. Só os fracos odeiam. Os odiadores fracos procuram, além disso, retratar os bravos e bem-nados da pior forma possível: “maldosos,” “matadores”, “pecadores”… Mas isso é ridículo, evidentemente. O comportamento dos fortes é aquele adequado à sua natureza. Os odiadores podem, então, tentar confundir os fortes, fazê-los mudar de conduta, torná-los “fracos” e “bons” como os próprios odiadores. Ocorre que isso seria mortal para os fortes, assim como consumir grama — tão apetitosa para um anho — seria mortal para as águias. Nietzsche enfatiza esse ponto:

Sem surpresa, o sentimento reprimido de raiva e de ódio que fervilha reconditamente nos fracos tem com essa crença relação que lhe serve muito bem, pois com isso os fracos passam a acreditar com fé incomparável na ideia de que os fortes são livres para serem fracos e as aves de rapina são livres para serem cordeiros. Isso tudo corresponde a uma situação na qual os fracos arrogam-se o direito de culpar as aves de rapina por serem aves de rapina.

Hoje, os odiadores fracos e inferiores — os judeus, os cristãos de inspiração judaica e os lacaios dos judeus que pululam na mídia — envidam grandes esforços para convencer os fortes e nobres de que eles são malignos, intolerantes, racistas, supremacistas…. E, no passo que avançam para a vitória, a humanidade nobre recua para o abismo, que é a catástrofe de sua extinção. Nós devemos resistir ao avanço deles com todo o nosso poder.

Os discursos de ódio no século XX

Dotada de riqueza cada vez maior, de poder financial, e com a longa experiência histórica de 2 mil anos que lhe aperfeiçoou o sentimento e a prática do ódio, a judiaria organizada começou a postular a adoção de sanções legais contra os seus oponentes. Com a torrente imigratória judaica na passagem para o século XX, talvez não deva surpreender que a advocacia judaica tenha se empoderecido e se apoderado dos EUA. Nas duas primeiras décadas, surgiram grandes grupos de apoio aos judeus, incluindo o American Jewish Committee (1906), a Anti-Defamation League (1913), o American Jewish Congress (1918) e a American Civil Liberties Union (1920). Todos esses grupos eram, de facto, bancas criadas para dar combate ao discurso de ódio, embora ainda não existisse o arcabouço legal correspondente naquela época. O foco deles estava na assim chamada “difamação de grupo” [group libel], um novo tipo penal inventado especificamente para favorecer interesses judaicos.

Entrementes, além do oceano, no território que seria a União Soviética. os judeus faziam ainda maior progresso. O ascenso dos bolchevistas judeus por volta de 1900, incluindo Leon Trotsky e o quartum judeu Vladimir Lenin, levou nova preocupação relativa ao antissemitismo para o Império Russo. Quando eles tomaram o poder na Revolução de Fevereiro de 1917, logo passaram a agir com o objetivo de melhorar as coisas para os judeus. Pinkus (1990) explica que esses bolcheviques “promulgaram um decreto anulando todas as restrições legais aos judeus” em março de 1917.[11] Ele acrescenta isto que não chega a ser nenhuma novidade: “Mesmo antes da Revolução de Outubro [1917], Lenin e o Partido Bolchevique eram contrários ao antissemitismo. Lenin atacou-o severamente em várias ocasiões”. Já em julho de 1918, o Conselho dos Sovietes publicou decreto (embora sem cominação) afirmando que “o movimento antissemitista e os pogrons contra os judeus são ameaça mortal contra a Revolução” e que todos os trabalhadores soviéticos estavam convocados “para lutar contra essa praga com todos os meios possíveis”.[12] O próprio Lenin continuou a insistir na propaganda pró-judaica; numa alocução notável em março de 1919, ele dizia:

O antissemitismo significa disseminar a animosidade em relação aos judeus. Quando a maldita monarquia czarista vivia seus últimos dias, ela tentava incitar os camponeses e operários ignorantes contra os judeus. A polícia czarista, de maranha com os terratenentes e os capitalistas, organizava pogrons contra os judeus. Esses senhores da terra e capitalistas buscaram desviar o ódio de trabalhadores e camponeses, torturados pela privação, na direção dos judeus. […] Justamente os mais oprimidos e ignorantes são os que acreditam nas calúnias e mentiras que se contam sobre os judeus. Isto é uma sobrevivência dos tempos medievais, quando os padres queimavam hereges presos a um pau, quando campônios viviam na escravidão e quando as pessoas eram esmagadas e não podiam se expressar. Essa ignorância antiga, feudal, está ficando para trás; os olhos do povo estão sendo abertos.

Não são os judeus, os inimigos do povo trabalhador. Os inimigos dos trabalhadores são os capitalistas de todos os países. Entre os judeus encontram-se trabalhadores e são a maioria. Eles são nossos irmãos e são oprimidos pelo capital, assim como nós; eles são nossos camaradas na luta pelo socialismo. […] Infame é o maldito czarismo, que perseguiu e torturou os judeus. Infames são todos os que fomentam o ódio contra os judeus e outras nações.

Quando Joseph Stalin (não era judeu) ascendeu ao poder nos anos vintes, ele julgou interessante o expediente de continuar cooperando com os judeus soviéticos e, de forma geral, ele lhes defendeu a posição. Em consequência disso, aquela década foi uma espécie de “idade de ouro” para os judeus; aquele tempo assistiu à ascensão de tipos como Lazar Kaganovich, Yakov Sverdlov, Lev Kamenev, Karl Radek, Leonid Krasin, Filipp Goloshchekin e Yakov Agranov — todos judeus de alta posição na hierarquia soviética.[13] Em parte devido ao domínio do governo pelos judeus, o antissemitismo continuava sua percolação nas massas russas. Deu-se então que, “em 1927, foi decidido que medidas drásticas seriam tomadas para combater o antissemitismo”.[14] Várias formas de propaganda foram empregadas, incluindo livros, panfletos, peças de teatro e filmes; a campanha publicitária culminou na severa responsabilização penal daqueles acusados de ódio antijudeu, que podiam ser até sentenciados à pena de morte. Em escrito de 1931, Stalin confirmou isso:

O antissemitismo é vantajoso para os exploradores, serve-lhes de para-raios para desviar as descargas da classe operária contra o capitalismo. O antissemitismo é perigoso para a classe operária, é um falso caminho alternativo que a afasta da direção correta e a conduz para a selva. Por isso os comunistas, enquanto internacionalistas consistentes, só podem ser inimigos jurados, irreconciliáveis do antissemitismo. Na URSS, a lei comina pena extremamente severa contra o antissemitismo, por se tratar de fenômeno profundamente hostil ao sistema soviético. Sob a legislação da URSS, militantes antissemitas estão sujeitos à pena capital.

A Idade de Ouro judaica na União Soviética durou até o final dos anos trintas, quando Stalin começou a desinflamar o poder judaico, aparentemente correspondendo ao que se passava na Alemanha nacional-socialista.[15]

Mas as políticas filossemíticas dos soviéticos (e bolchevistas) dos anos vintes e trintas não foram esquecidas por Hitler. Ele e Goebbels eram incansáveis críticos do “bolchevismo judeu” como a maior ameaça à Alemanha e à Europa — no que estavam certos. Goebbels, especialmente, tinha percebido o crescente impulso dado às leis contra os “discursos de ódio” e “crimes de ódio” em pró dos judeus, tanto na URSS quanto no Reino Unido; para ele, essa era a prova de (a): um profundo e iminente levantamento popular contra os judeus e (b): um abuso da autoridade judiciária dos judeus. A legislação contra o ódio é sinal de desespero; ela indica que o jogo se aproxima de seu final. Em 19 de abril de 1943, no seu diário, Goebbels escreve reveladora anotação:

Os judeus na Inglaterra agora reclamam proteção legal contra o antissemitismo. Sabemos o que é isso, nós passamos por isso antes, e foram tempos de conflito. Mas essa coisa não lhes dá muita vantagem. Nós sempre soubemos como encontrar brechas nas leis de proteção; além disso, o antissemitismo, uma vez aflorado do seio do povo, não pode ser abatido pela lei. Uma lei contra o ódio antijudeu marca, geralmente, o começo do fim para os judeus. Nós iremos garantir que o antissemitismo na Inglaterra não esfrie. Em qualquer caso, uma guerra de longa duração é a melhor matriz para o antissemitismo.[16]

No mês seguinte, no ensaio que publicou intitulado A guerra e os judeus, Goebbels comentou a situação jurídica na URSS, quanto à lei de Stalin referida acima, que estava ainda em vigência treze anos depois:

Nós recebemos, com muita frequência, notícias dando conta de que o antissemitismo está em ascensão nas nações inimigas. As acusações que se fazem aos judeus são bem conhecidas; são as mesmas que se fazem aqui. O antissemitismo nas nações inimigas não resulta da propaganda antissemítica, que a judiaria combate duramente. Na União Soviética, os judeus aplicam a pena de morte.[17]

A situação das leis concernentes ao discurso de ódio contra judeus, Goebbels considerava importante e assim pensou até o fim. No seu último grande ensaio, Os criadores das desgraças do mundo (1945), ele ainda nos advertia da importância da lei soviética:

O capitalismo e o bolchevismo têm as mesmas raízes judias — são dois galhos da mesma árvore e dão o mesmo fruto. A judiaria internacional manipula ambos no intento de suprimir nações e colocá-las a seu serviço. A profunda influência judia na opinião pública das nações inimigas e das muitas nações neutras mostra-se muito patente, justamente por isso, nos jornais, nos discursos e nas rádios, não se fala disso.

Existe lei na União Soviética que pune o “antissemitismo” — este, na verdade, em português claro, significa a educação pública sobre a Questão Judia — com a pena de morte. Qualquer estudioso dessas matérias vê sem nenhuma surpresa aquele destacado porta-voz do Kremlin, falando do ano-novo, dizer que a União Soviética não descansaria até que essa lei estivesse vigente em todo o mundo. Em outras palavras, o inimigo afirma claramente que seu intento nesta guerra é colocar a total dominação das nações da Terra por parte da judiaria sob a proteção da lei, servindo a pena de morte para tolher a simples discussão desse infame propósito. Isso se passa com pouca diferença nas nações milionocráticas [nações ocidentais].

Até o amargo fim, esse tema ainda inquietava Goebbels. Numa de suas últimas anotações no seu diário, ele escreveu:

Os judeus já estão inscritos para a Conferência de São Francisco [sobre as políticas para depois da Guerra]. Eles vão reclamar, principalmente, a proscrição do antissemitismo no mundo todo, o que é sintomático. Como seria de esperar, depois de terem cometido os mais terríveis crimes contra a humanidade, os judeus já se deleitam agora, quando podem proibir a humanidade até mesmo de pensar sobre tudo o que fizeram.[18]

E, de fato, eles lograram êxito, pelo menos em parte. Os diplomas legais do Pós-guerra Volksverhetzung e Verbotsgesetz, alemão e austríaco, respectivamente, representam a mais constrangedora capitulação judicial aos interesses judaicos já vista no Mundo Ocidental.

A esta altura, vemos claramente as origens da legislação sobre os discursos de ódio no século XX: ela consistiu num engendro dos judeus e de seus aduladores (como Stalin), tanto nos EE. UU. como na URSS, para submeter qualquer incipiente oposição à estrutura de seu poder. Tão determinados estavam os judeus a combater qualquer resistência à autoridade judaica, que se dispunham até mesmo a matar os seus opositores.

E na atualidade

Com o crescente predomínio da influência judaica no governo americano ao longo das últimas cinco décadas, a qual também prevalece na Europa, chamados para maior restrição e punição de comentários antijudaicos pelas leis dos discursos de ódio vão-se fazendo mais estridentes. O governo dos EE. UU. — ou, pelo menos, os republicanos — tem até aqui, majoritariamente, resistido às pressões, mas as grandes plataformas digitais assumiram posição filossemítica na questão. O Facebook e os seus Instagram e Twitter, a Google e o seu YouTube, todos se arvoram em censores dos discursos de ódio, especialmente aqueles da variante antissemítica. A Google modificou seus algoritmos de busca como forma de desclassificação e censura da nova mídia digital a que atribuem a propagação de ofensas e “ódio”. Tudo isso é perfeitamente compreensível, dado o grande número de judeus na direção dessas enormes corporações da tecnologia telemática: Mark Zuckerberg, Sergei Brin, Larry Page, Larry Ellison, Michael Dell, Sheryl Sandberg, Safra Katz, Susan Wojcicki, Steve Ballmer, Brian Roberts, Marc Benioff, Craig Newmark, Jeff Weiner…

Paralelamente à censura tecnológica das grandes corporações, as organizações advocatícias judaicas — como a SPLC e a ADL, continuam a explorar a indústria judiciária das indenizações. Essas bancas recorrem ao aparato institucional da Justiça para mover processos a torto e a direito contra os “odiadores”, a quem “denunciam” por violação da honra e de outros direitos das “partes” de sua clientela. A SPLC dispõe em seu portal de uma seção dedicada ao “antissemitismo e discursos de ódio”, como também faz a the ADL — coisa “normal”, eis que abolir a liberdade de expressão é a raison d’etre desses aparelhos da censura politicamente correta. Quando a militância censorina judaica não aciona a Justiça por si mesma para silenciar os críticos, ela intervém como parte interessada em processos judiciais de terceiros. A censura dos tribunais, somada àquela das grandes empresas do vale do Silício, serve ao propósito da implementação de facto das políticas pró-judaicas quanto aos discursos de ódio, fenômeno que salta aos olhos nos EE. UU., pelo menos.

Conclusão

Mas passemos ao fecho de nossa exposição: eu comecei este trabalho com aquela nossa discussão sobre a vacuidade lógica e a incoerência do conceito de discurso de ódio. É evidente, no entanto, que para muitas corporações poderosas e acedentes à influência judaica esse conceito mostra-se interessante. Os grandes oligopolistas, da velada perspectiva deles, que nem às paredes confessam, obviamente, veem a simplicidade da coisa toda, em termos mais básicos e práticos, ou seja: discursos de ódio são os discursos que os judeus odeiam. Sim, eles podem alegar que odeiam o discurso anti-islâmico ou o discurso antinegro, mas assim fazem apenas para desviar a atenção popular do alvo verdadeiro de seu ataque: o discurso de crítica aos judeus. Os judeus não são tão estúpidos a ponto de promover somente leis judaicas do que seria uma legislação exclusivamente “antiantissemítica”, pois a legislação não exclusiva disfarça o poder exclusivo deles. As leis descaradamente pró-judaicas são coisa do passado. Atualmente, as leis que mais lhes interessam são aquelas vazadas numa novilíngua de aparência universalista, a qual favorece, pelo menos em teoria, outros grupos “oprimidos”. Os judeus e a quinta-coluna a serviço deles querem parecer justos para gozar de unanimidade — quando, na realidade, devotam extremo desprezo a todos os grupos não judeus (de novo, o “ódio da humanidade” de Tácito e Nietzsche). Então, fica a lição: discurso de ódio é o discurso que o judeu odeia.

Agora, considere o seguinte: se você odeia o que eu digo, quem é o odiador? Eu ou você? Não sou eu, é você! O fato de você não gostar do que eu falo não faz de mim uma pessoa odienta. Essa pessoa é você. E se acontece de você ser um campeão, um mestre na história mundial do ódio, então o ódio é todo seu.


Referências

[1] Reeditado em Goebbels on the jews (2019; T. Dalton, ed), p. 199. Este e muitos outros livros citados abaixo podem ser encontrados em www.clemensandblair.com.

[2] Fique registrado aqui que não sou um negacionista. Eu acredito que houve um Holocausto na metade do século XX: isso foi chamado de Segunda Guerra Mundial, e 60 milhões de pessoas morreram em consequência desse conflito, inspirado e instigado pelo que fizeram os judeus aqui e na Europa. O total de judeus mortos terá sido de 500 mil, conforme os mais abalizados revisionistas. Para aprofundamento nessas questões, o leitor dispõe de meus livros The jewish Hand in the world wars (2019) e Debating the Holocaust (4. ed. 2020).

[3] Eternal strangers (2020; T. Dalton, ed), p. 16.

[4] Emilio Gabba, “The growth of anti-Judaism,” in The Cambridge history of judaism (vol. 2, 1984; Cambridge University Press), p. 645.

[5] Eternal strangers, pp. 19, 21, e 25, respectivamente.

[6] On the jews and their lies (2020, T. Dalton, ed; Clemens & Blair), p. 53.

[7] Eternal strangers, p. 68.

[8] Eternal strangers, pp. 70-71.

[9] The history of the decline and fall of the Roman Empire (1788/1974, vol. 2; AMS Press), página. 3. Veja também Eternal strangers, p. 59.

[10] Eternal strangers, p. 78.

[11] Benjamin Pinkus, The jews of the Soviet Union (1990; Cambridge University Press), p. 84.

[12] In Pinkus, p. 85.

[13] As semelhanças com o regime de Biden saltam aos olhos; sugiro ao leitor que leia o meu recente artigo “Confronting the judeocracy”.

[14] Pinkus, p. 86.

[15] Depois da guerra, o expurgo stalinista dos judeus de alta posição foi acelerado, resultando numa década de antissemitismo sob patrocínio do Estado, que só terminaria com a morte de Stalin em 1953.

[16] Goebbels on the jews, p. 199.

[17] Ibid., pp. 206-207.

[18] 4 April 1945, in Goebbels on the jews, p. 255.

* Dr.Thomas Dalton escreveu ou editou muitos livros e artigos sobre política, história e religião, focando especialmente o nacional-socialismo na Alemanha. Seus trabalhos incluem uma série de novas traduções de livros como Mein Kampf, Eternal stranges (2020), The jewish hand in the world wars (2019) e Debating the Holocaust (4. ed., 2020). Esses títulos estão todos disponíveis no ciberendereço www.clemensandblair.com. Os seus artigos poderão ser lidos na ciberteca pessoal do autor, aqui: www.thomasdaltonphd.com.

Fonte: The Occidental Observer. Autor: Dr. Thomas Dalton. Título original: On the True Meaning of Hate Speech. Data de publicação: 5 de julho de 2021. Versão brasilesa: Chauke Stephan Filho.

A teoria crítica da raça: uma arma do arsenal intelectual judeu

Não se enganem sobre isto: nós continuaremos a atacar os homens brancos, os vivos e os mortos, e também as mulheres brancas, até que o constructo social chamado de “raça branca” seja destruído não “desconstruído”, mas destruído.
(NOEL IGNATIEV. In: Race Traitor)

A promoção dos “Estudos da Branquidade” deve ser percebida como nada menos do que ato de extrema agressão, violento até, contra a raça branca.
(ANDREW JOYCE. In: Whiteness Studies)

Para ser efetiva, a engenharia social deve passar despercebida.
(MICHAEL JONES. In: Logos Rising)

No começo deste ano, meu irmão propôs-me, subitamente, uma questão: “O que é a teoria crítica da raça?”. A pergunta me deixou entusiasmado, porque provava que essa perniciosa teoria genocida e antibranca estava começando, finalmente, a entrar no radar da consciência dos brancos. Desde o dia da interrogação que fez o meu irmão, pulularam como cogumelos as histórias sobre a Teoria Crítica da Raça (TCR), com muita crítica a essa tendência intelectual antes tão misteriosa.

Entretanto, a hora do espanto foi quando observei que ninguém ou quase ninguém dos tais críticos havia associado a TCR ao ativismo étnico judeu.

Embora a teoria já tivesse aceitação desde longa data nos círculos universitários, ela agora penetra ambientes corporativos e governamentais, insinuando-se também no meio militar, onde passou a ser promovida desde que Joe Biden tomou posse como presidente. Quanto a mim, não de hoje sei desse fato que é a ligação da TCR com a “elite hostil”, para quem a teoria é ferramenta de engenharia social. Na nomenclatura sociológica de The Occidental Observer, a expressão “elite hostil” designa os poderosos judeus e organizações judias que controlam os Estados Unidos e a maior parte do Ocidente. De modo geral, entretanto, os nossos escritores tratam o tema da TCR de perspectiva diversa, fazendo-o sob a influência dos chamados “Estudos da Branquitude”. Ao contrário deles, eu relaciono a “Teoria Crítica da Raça” com a atual discussão sobre a guerra étnica que os judeus movem contra os brancos.

A TCR, na verdade, enquadra-se perfeitamente no que Kevin MacDonald chama de “Cultura da Crítica”, uma categoria na qual figuram os “gurus” judeus que verbalizam o ataque talmúdico com o objetivo principal de completar a destruição dos gentios ― literalmente! Eu sei disso porque estive muito próximo do palco onde se representava a farsa que foi a introdução da TCR nas escolas de pós-graduação nos anos noventas, quando vivi a infelicidade de ter um farsante desse tipo de dramaturgia como meu “professor”. O espetáculo brutal de que participei teve o lado positivo de me permitir sondar e conhecer mais profundamente os seus produtores judeus. Com efeito, terminada a triste representação, senti que tudo fora para mim duro processo de aprendizagem, mas valeu a pena: agora eu posso compartir com os meus leitores as lições que aprendi.

Eu vou começar a contar essa história falando de um escritor australiano, agora obscuro, chamado  Robert Hughes (1938–2012), que já foi descrito como “o mais famoso crítico de arte do mundo”. Em 1993, saturado de tanta política identitária, ele publicou o livro Culture of Complaint: The Fraying of America [Cultura da denúncia: a desintegração dos Estados Unidos], pela Editora da Universidade de Oxford. Nesse livro, ele atacou frontalmente a Indústria das Queixas, então em vertiginosa ascensão, dando exemplos e mais exemplos de como grupos militantes minoristas, sobretudo de mulheres e negros, atribuíam todo tipo de pecado à minoria branca, contra quem falavam mais do que o homem da cobra, hostilizando-a por meio de espúrias denúncias judiciais e manifestações de rua. Eu me lembro de que o livro dele atraiu bastante a atenção da imprensa da época, com muitos jornais tomando o partido do autor australiano, tal era a insatisfação com a “cultura da denúncia”.

O que me deixou frustrado, entretanto, foi o fato de o estudo de Hughes não haver ido além da própria denúncia, o fato de ele não ter conseguido aprofundar sua análise para chegar ao nível do que se pode chamar de “metadenúncia”, substrato de onde partem todas as denúncias como simples consequências. Por exemplo, Hughes não percebeu que a narrativa do Holocausto obteve tanto sucesso como meio de favorecer os interesses judeus que outros grupos ficaram ansiosos para também gozar do mesmo artifício tão interessante.

Em 1993, a indústria da denúncia começava a gostar do jogo e crescia para logo depois acabar dominando tudo, tanto que já na minha “pós-graduação” tive de suportar a experiência horrível que referi acima. Então se passou que a simples denúncia foi ganhando vulto, foi se tornando coisa muito mais perniciosa, muito mais ameaçadora. Desde sempre, porém, o sentido das denúncias era um só: combater a raça branca.

Depois de muito sofrimento, finalmente terminei a pós-graduação, muito abalado emocionalmente, muito judiado, mas com o diploma na mão. Almas mais robustas dirão que, se não morri, então devo engordar, mas já apanhei demais e não vou bancar o fanfarrão. Ao contrário, tento ser discreto e trabalho aturadamente, fazendo o que posso para manter a resistência. O jogo do judeu é bruto, e eles não aceitam perder.

Alguns anos depois, eu me empenhava com afinco na elaboração de alentado trabalho versando acerca do poder judaico nos Estados Unidos. Nessa ocasião, um professor de história, formado em Harvard, com título de Ph.D., me aconselhou a “dar a devida atenção ao trabalho de Kevin MacDonald”. Eu fiz isso — e a experiência de ler Kevin MacDonald mudou a minha vida. A trilogia deste autor, culminando com The Culture of Critique: An Evolutionary Analysis of Jewish Involvement in Twentieth-Century Intellectual and Political Movements, caiu do céu para mim, quando mais eu precisava; a partir daí, eu estava pronto para dar a devida atenção ao que o Mestre tinha a dizer.

Logo de cara, eu percebi a semelhança entre o título do livro de Hughes (Culture of Complaint) e aquele do livro de MacDonald (Culture of Critique), mas o livro de MacDonald tem muito mais importância do que o de Hughes, porque MacDonald foi mais feliz ao centrar o foco do seu estudo, precisamente, no judeu. Na verdade, se os brancos sobreviverem à guerra étnica descrita por MacDonald, The Culture of Critique fará o seu autor figurar no panteão da civilização ocidental. Então as futuras gerações de brancos conhecerão o nome de Kevin MacDonald como o de um semideus, herói de sua raça, e ele a todos parecerá alguém da própria família, assim apresentado desde as lições escolares de História. Amém.

Aqui eu suponho que o nosso leitorado conheça o básico do Culture of Critique e do livro posterior, Cultural Insurrections, assim eu já salto à frente para referir outras realizações e enfrentamentos subsequentes de nosso herói. A ciberteca The Occidental Observer é criação dele. O TOO teve origem como rebento da publicação anterior denominada The Occidental Quarterly, uma revista digital acadêmica. Anteriormente, em 2008, MacDonald tinha publicado um artigo intitulado “Promoting genocide of Whites? Noel Ignatiev and the Culture of Western Suicide”, no qual ele analisa os artifícios vocabulares desse professor judeu de Harvard, já falecido, usados para tornar mais sutil a expressão de sua vontade de exterminar brancos. Ignatiev foi o fundador da revista Race Traitor, que tem por divisa a caridosa frase “Trair o branco é ser leal à humanidade”. Este eslógão lembra, imediatamente, as palavras infames da judia Susan Sontag, ao escrever que

A verdade é que Mozart, Pascal, a álgebra booleana, Shakespeare, o governo parlamentar, as igrejas barrocas, Newton, a emancipação feminina, Kant, Marx, o balé de Balanchine e tutti quanti não redimem a civilização branca da desgraceira em que transformou a história do mundo. A raça branca é o câncer da humanidade […].

Situando a inteligente manipulação das palavras por parte de Ignatiev na categoria das ideologias judias desconstruídas no seu Culture of Critique, MacDonald escreveu:

Nossa interpretação é que as visões de Ignatiev resultam de competição étnica. Sendo um judeu esquerdista, ele é parte de uma longa tradição de oposição ao interesse e à identidade dos brancos — a  cultura da crítica, que se tornou a cultura do suicídio do Ocidente. E como sói acontecer com tantos judeus fortemente assumidos, seu ódio dos povos e da cultura do Ocidente aflora inflamado.

Recorrendo ainda às categorias constantes em Culture of Critique, MacDonald conclui que

Ignatiev é mais um intelectual judeu de longa série remontando a Franz Boas, à Escola de Francforte e a uma miríade de outros que agora mestreiam na  cultura suicida do Ocidente. Ele pode se chamar de traidor da raça, mas não faltam razões para acreditar na sua forte atitude de lealdade para com o seu próprio povo e de hostilidade para com o povo e a cultura do Ocidente, posturas de longa história típicas dos judeus altamente comprometidos consigo mesmos. Para ele, a traição da raça consiste em algo de fácil e natural ocorrência; trata-se do leite materno na formação de um judeu.

Como que por maldosa ironia do destino, o professor judeu que me atormentou durante a minha pós-graduação, como também fez com outros colegas brancos, tinha muitas semelhanças com Ignatiev, a começar pelo biótipo, mostrado na foto abaixo:

O judeu Noel Ignatiev (1940 – 2019) “ensinava” na Universidade da Pensilvânia que a solução final para os problemas sociais consistia no “extermínio da raça branca”.     (Créditos: Pat Greenhouse /Globe Staff.)

E quando MacDonald escreveu que “Gente como Ignatiev, sem dúvida de aguçada consciência de identidade e interesse étnicos, nunca mediu esforços para alcançar o objetivo de patologizar qualquer sentido de identidade e interesse étnicos dos povos europeus e euro-descendentes — e de nenhum outro”, ele indicava atributos que eu notaria em grau superlativo no professor-opressor da minha pós. Isso a que estávamos sujeitos nos anos noventas é o mesmo que se passa agora por imposição da TCR: os novos autos de fé — agora sutilizados, as leituras obrigatórias sobre o “privilégio branco”, a completa falta de contraditório ou debate ou questionamento. Nosso querido professor sujeitava à humilhação os meus colegas brancos, e eu tinha de assistir a esse triste espetáculo durante as “aulas”. Certa vez uma moça chegou a chorar, depois de repreendida de modo acabrunhante. Mulher chora mesmo — pode pensar o leitor malicioso, mas o doutrinador judeu conseguiu também marejar os olhos de estudante do sexo masculino, no maximante da minha indignação. O “curso” foi um horror.

Embora MacDonald não tenha empregado a expressão “teoria crítica da raça”, por referência ao assédio de Ignatiev, ele estava, de fato, tratando disso mesmo. Melhor ainda, MacDonald penetrou a falaciloquência de Ignatiev, devassando o seu real intento, coisa que outros fariam no TOO, desde então, seguindo o exemplo de MacDonald. Logo voltaremos a este ponto, mas antes eu gostaria de fazer uma rápida digressão para não perder a boa oportunidade.

O caso é o seguinte: quando eu trabalhava na redação da minha dissertação, depois de haver cumprido todos os créditos e sido aprovado nos exames, um outro professor judeu me deu um livro, o qual ele tinha recebido de alguém que dele esperava alguma eventual contribuição crítica. O professor não quis comentar nada e cedeu para mim o exemplar novinho, cuja capa era como mostramos abaixo:

Escrito em 1997 pelo professor de Direito Stephen M. Feldman, o livro, como visto, intitulava-se  Please Don’t Wish Me a Merry Christmas: A Critical History of the Separation of Church and State [Por favor, não me deseje feliz Natal: história crítica da separação entre a Igreja e o Estado]. A expressão “história crítica” no subtítulo já indicava que se tratava de mais um lançamento do projeto the Critical America Series, da NYU Press, que já publicou miríadas de títulos, dos quais os leitores podem desfrutar em seus momentos de lazer. Ah, eu devo mencionar detalhe dos mais significativos logo no começo da Introdução. O autor abre o texto dizendo “Eu sou judeu”. Com essa cabalística proclamação começava mais um ataque da “cultura da crítica” contra o homem ocidental e a sua mais celebrada efeméride.

“Estudos da Branquitude”: o olhar crítico de Andrew Joyce

The Occidental Observer foi extremamente feliz ao somar à plêiade de seus articulistas o talentoso  Andrew Joyce, de cujo engenho redacional deu prova o seu artigo inicial no TOO, publicado em 2012, no dia de São Patrício [17 de março], intitulado Limerick “pogrom”: Creating Jewish victimhood. Em 2015, entretanto, ele publicou o que pode ser considerado uma extensão do livro de MacDonald de 2008, no qual este devassa a brutal campanha intelectual de Ignatiev. Em “Jews, Communists and Genocidal Hate in ‘Whiteness Studies’”, abeberando-se na fonte de MacDonald, Joyce mostra que “Ignatiev não se preocupou tanto em disfarçar o desbragado ódio que a sua ‘disciplina’ incita contra os brancos e sua cultura”. Em citação indireta de MacDonald, Joyce notou que

Ignatiev et caterva inventaram uma história que eles contam da seguinte forma: era uma vez certa corja de malvados que se reuniu na calada da noite e criou a categoria chamada “branco”, que consideraram exclusiva deles, não podendo gente de outra cor fazer parte dela. Aí esses bandidos estabeleceram leis para favorecer toda a canalha da bitola deles, aí dominaram a economia e a política de maranha com outros brancos, aí inventaram teorias científicas sem pé nem cabeça para justificar a boa vida deles, dizendo que eram mais inteligentes e operosos por causa de condições naturais de caráter biológico que desigualaram a humanidade. Aí eles fizeram de tudo contra todos para continuarem no bem-bom, ainda com mais animação. E continuam fazendo isso até hoje, como as bestas humanas superiores.

Tudo o que Ignatiev escreveu contém mensagem inusitada, formulada em linguagem extremamente agressiva… Nos seus textos, sombrios e dramáticos, Ignatiev prega a “supressão da raça branca”, o “genocídio dos brancos” e quejandas “providências”. Quando pressionado, ele diz que houve um mal-entendido, que a coisa não é bem assim, que não quis dizer que as pessoas que se dizem brancas devam ser mortas. Segundo sua explicação, ele apenas deseja destruir o conceito de branquidade. Com isso ele mostra não ter pela raça branca nenhum desapreço, certo?

O próprio Joyce responde a essa pergunta:

Nem por isso. Na verdade, Ignatiev morde e assopra. Quando pode, só morde. Estando completamente afinado com sua identidade racial judaica, ele segue, ao mesmo tempo e de forma ostensiva, a linha politicamente correta de que raças são apenas “constructos sociais”. Quando pressionado, ele alega ser pouco mais do que um igualitarista radical, batendo-se contra todas as hierarquias sociais, mas especialmente contra aquelas nas quais ele imagina que os brancos estejam na posição superior.

A exemplo de MacDonald, Joyce também percebe facilmente o ardiloso jogo de Ignatiev. Joyce escreve: “A linha do partido de Ignatiev é toda ela dirigida contra o branco, o objetivo é fazer com que os brancos acabem pensando que não são brancos — para o bem e a elevação espiritual deles, é claro. Assim, enquanto os estudos do negro, da mulher, do chicano etc. colimam desenvolver e sustentar suas identidades relativas e agendas sociais, os chamados ‘estudos da branquidade’ objetivam extinguir totalmente qualquer senso de identidade e de consciência quanto a interesses grupais”. Essa diferença é muito importante.

Por volta de 2015, muito do que Joyce escrevera era familiar para mim. Eu tinha assimilado as lições desse meu mestre e me lembro muito bem delas.

Por exemplo, Joyce informava que a mulher de Herbert Marcuse, o membro da Escola de Francforte, “estivera quase sempre ocupada com a promoção de sua ideologia nas oficinas chamadas de ‘Desaprendendo o Racismo’ e com a inculcação de adolescentes brancos, que ela aliciava para que apoiassem o multiculturalismo, aderindo ao seu grupo ‘New Bridges’, com sede em Oakland”.

Mais um exemplo: Joyce referiu também outra mulher judia, Ruth Frankenberg, que em 1993 “explicava” o dogma de sua disciplina sobre a branquidade. Joyce explica essa “explicação” nos seguintes termos:

[O dogma] gira em torno do princípio segundo o qual a raça nada mais é do que fluxível constructo social, político e histórico. Ela argumentou que os brancos podem dizer que não são racistas, mas não podem dizer que não são brancos. Ruth Frankenberg postula que os brancos são todos implicitamente racistas em virtude da posição “dominante” que ocupam na sociedade ocidental e encarece a necessidade de reflexão crítica para subverter a ordem das coisas que fazem possível a condição da superioridade branca. Os “estudos da branquidade”, para Frankenberg, assim como para seus predecessores,  não eram senão método para convencer os brancos de que eram opressores, tivessem eles, ou não, consciência e desejo disso, tivessem eles, ou não, tomado parte, pessoalmente, em qualquer ato de opressão.

Eu estava lá, eu ouvia essas coisas nos anos noventas. E hoje toda essa narrativa está de volta, ainda com mais força, com mais apoio institucional. Agora, na era de [John] Biden, o grande público sofre a pressão ideológica que sofri naquele tempo. Isso me deixa angustiado.

Joyce tinha, já então, outras boas coisas a dizer. Por exemplo, a citação de Savitri Devi extraída de The Lightning and the Sun [O raio e o Sol]. Nessa passagem ela elucida muito bem a forma embelecada com que os judeus disfarçam a sua agressão para engabelar as vítimas:

Inconspícua, gradual, mas implacável: a perseguição é econômica e cultural, ao mesmo tempo. Os subjugados sofrem sistemático cancelamento de quaisquer possibilidades, sempre discretamente; o impiedoso condicionamento das crianças, tanto mais horrível quanto mais impessoal, indireto, mais aparentemente “suave”; a inteligente difusão de mentiras mortificantes da alma; a violência sob a capa da não violência.

“A violência sob a capa da não violência” — sim, mas também pode prevalecer a violência propriamente dita, no caso de os brancos se tornarem impotentes ante a maré montante da cor. Esta situação, com efeito, já se configura na disparada da brutalidade antibranca, conforme mostram as estatísticas da criminalidade inter-racial. Daí a ocorrência de incidentes como aqueles compilados na AmRen.

Foram dinâmicas de manipulação constrangedoras como aquelas que me fizeram sentir tanto desconforto, anos atrás, quando eu era um isolado e impotente estudante de pós-graduação. Naquela altura, eu não conhecia nenhum Kevin MacDonald ou Andrew Joyce que me desse a conhecer o contexto da situação, que fortalecesse minha autoconfiança para a reação ante os manipuladores. Eu era mortificado, mas como diz E. Michael Jones na epígrafe deste ensaio, “Para ser efetiva, a engenharia social deve passar despercebida”, e eu não a percebia mais ampla e criticamente, por falta de referências, de contravoz à voz da alteridade articulada pelo professor como ciência de aceitação universal obrigatória. O programa de doutrinação multiculturalista devia passar despercebido. Aparentemente tratava-se de um “curso”, a inculcação passava por ser “aula”. Quem contestaria abertamente os “ensinamentos” de um professor?

A advertência de Jones não me era completamente compreensível, mas eu sofria com o duro efeito do que ele referia: a sutileza da socioengenharia como condição de sua efetividade. Atualmente, tanto quanto naquele tempo, o processo mental de dissolução étnica continua muito efetivo. E isso me dá medo.

Desde a pós-graduação, o meu objetivo tem sido o de compreender a engenharia social e compartir com outros do meu entendimento, o que venho tentando incansavelmente, nas salas de aula e nos meus artigos. Agora estou me sentindo muito bem na companhia de homens como Andrew Joyce. Este sintetizou o seu conceito dos “Estudos Brancos” de forma emblemática nesta declaração:

Os programas “educacionais”  da ADL, a extinção de nossos limes nacionais, o desrespeito à nossa identidade racial confirmam o lento processo de genocídio de nosso povo, aparentemente pacífico, porque prescinde de ferro e fogo. Suas implicações, porém, são e serão de aterradora violência. Os “estudos da branquidade” não constituem parte de nenhuma disciplina acadêmica, no verdadeiro sentido dessa expressão. Trata-se, na realidade, de um ato de agressão interétnica.

Joyce voltou a examinar o envolvimento judeu nos estudos brancos (bastante aparentados à teoria crítica da raça, vale lembrar) em 2020, ao escrever “Review of Robin DiAngelo’s White Fragility” [Crítica de Fragilidade Branca, de Robin DiAngelo]. Diz Joyce que esse livro “é pesada e explicitamente influenciado pelo pensamento judeu e pelos pioneiros judeus num campo por onde passa o caminho de DiAngelo para a fama e a fortuna”.

Joyce encontrou evidência concreta do patrocínio judeu a DiAngelo na bibliografia do livro dela. Na relação, ele diz,

estão muitos nomes deparados na minha pesquisa dos “estudos brancos” (ou seja, antibrancos, não custa lembrar). Quase todas as figurinhas carimbadas do racismo judeu antibranco constavam lá, protuberantes da página para molestar os olhos, assim como a visão de parentes desagradáveis numa reunião de família. No inventário, radiavam sua luz negra tipos como Noel Ignatiev, George Lipsitz, Ruth Frankenberg, Michelle Fine, Lois Weis. Outros de seus patrícios davam-lhes apoio, a exemplo de Thomas Shapiro, David Wellman, Sander Gilman, Larry Adelman e Jay Kaufman. Tais são os prógonos e tutores intelectuais de DiAngelo …

Assim é como a coisa costuma ser. Temos aí um padrão que se repete muito frequentemente. E isso não ocorre por acaso. Tudo é feito de caso pensado pela manutenção da mentalidade antibranca na cabecinha emoldurada do próprio branco. O nome desse fenômeno: literatura etnomasoquista.

A teoria crítica da raça nas notícias da atualidade

Um caso muito interessante a propósito da nossa discussão é o do tenente-coronel Matthew Lohmeier. Este oficial foi expulso da Aeronáutica pelo “crime” de escrever, de manifestar suas opiniões sobre a introdução da TCR nas Forças Armadas. Cá entre nós, no presente clima político, o homem estava procurando sarna pra coçar, quando quis publicar livro com o título antissocial de Irresistible Revolution: Marxism’s Goal of Conquest & the Unmaking of the American Military [Revolução irresistível: os conquistadores marxistas & a dissolução das Forças Armadas americanas], mas isso mesmo é o que o cara fez. Em artigo saído no ciberjornal Revolver News, tratando dessa questão, nós lemos o seguinte: “Lohmeier foi a programas de rádio para promover seu livro e, como resposta, foi demitido do Pentágono. De acordo com o DoD [Departamento de Defesa], suas declarações causaram ‘perda de crédito e confiança em sua capacidade de comando’”.

O artigo continua: “Vistas da perspectiva de dezenas de milhões de patriotas americanos e da nossa própria, as ações do Cel. Lohmeier elevam-no ao pináculo da coragem e da guiança”. Eu subscrevo. Entretanto, o coronel tem lições a aprender comigo e com MacDonald. Pensemos na seguinte questão: quando uma expressão como “teoria marxista da raça” é usada por um autor, ele o faz consciente de que tal expressão, na verdade, significa “teoria judaica da raça”? A resposta parece ser negativa. E aí está o problema. Consideremos as seguintes palavras de Lohmeier:

Sempre me perguntam “Como foi que isso aconteceu?” ou “Quando foi que isso aconteceu?”. As pessoas querem saber, por exemplo, como o povo americano, suas instituições — principalmente o sistema educacional e, agora, as agências federais, as Forças Armadas, inclusive — se transformaram em câmaras de ressonância da narrativa marxista, em corpos aliados do movimento comunista. Com efeito, como os americanos pudemos tão levianamente questionar ou desconsiderar a grandeza do ideal americano, fazendo-nos vítimas das táticas da subversão? Por que não fomos capazes de perceber a nossa deriva para o marxismo? Duas foram as formas como isso se passou: gradualmente e, depois, subitamente.

Obviamente, quem leu The Culture of Critique sabe “como isso aconteceu”. Quem ouviu os arquivos de aúdio de The Daily Shoah sabe “como isso aconteceu”. Quem leu as histórias de Andrew Anglin em The Daily Stormer sabe “como isso aconteceu”. Mas, sinceramente, eu acho que o Cel. Lohmeier não faça nem ideia de “como isso aconteceu”. Alguém pode fazer o favor de mandar este meu texto para ele?

Quem haja acompanhado a “evolução” das universidades americanas, nas últimas três décadas, terá notado que seu viés esquerdista acentua-se a cada ano. Sobretudo os estudantes de Política, Direito e Administração confirmarão esse processo. Não é de estranhar que o avanço esquerdista tenha demorado mais para alcançar as Forças Armadas, e que nestas tenha havido alguma resistência, alguma consciência do que se passa. Essa forma de reação foi indicada por Lohmeier: “Há crescente percepção de que o partidarismo político que grassa nas Forças Armadas é da esquerda radical”. Sim, meu caro, é da esquerda radical.

Outro aspecto da questão: será que Lohmeier vê a introdução da TCR nas Forças Armadas como alguma coisa danosa em termos gerais ou ele a vê como arma intelectual judaica especificamente antibranca? Provavelmente ele saiba do conteúdo antibranco dos programas oficiais nas FF.AA., provavelmente saiba que a TCR é um cavalo de Troia. Afinal, o homem já criticou as tentativas de “descentralizar a branquidade”, uma expressão bem típica da novilíngua dos “Estudos Brancos”.

Mas isso é pouco, é preciso ir além. Na presente altura, ainda se discute se a TCR é apenas antidemocrática, até mesmo racista — mas de uma forma geral, ou se é especificamente antibranca. Ora, essa discussão já devia estar superada. A teoria crítica da raça (TCR) é racismo antibranco. Bem o percebeu o autor codinominado “Washington Watcher II”, que escreve para VDARE. Um de seus textos intitula-se “Fight Against Critical Race Theory — But They Still Flinch From Calling It Anti-White Racism” [Luta contra a teoria crítica da raça; eles ainda não a chamam de racismo antibranco]. Interessa notar o subtítulo: “eles ainda não a chamam de racismo antibranco”. Parece inverossímil: eles têm medo de dar o nome de teoria racista antibranca a uma teoria racista antibranca! O nosso analista Washington Watcher II sabe que os bambambãs do conservadorismo são contrários à TCR porque, conforme a crença esquisita deles, “as raças não existem”. Ele afirma que “os bestalhões conservadores, que poderiam ser chamados de cocoservadores, promovem a constrangedora ideia de que a TCR seria perversa por prejudicar os não brancos”. Sim, é mesmo difícil de acreditar, mas ele tem razão. Nossos agradecimentos a Washington Watcher II pelo esclarecimento dessa distinção, bem enfaticamente. Com efeito, na sua conclusão, ele faz um apelo aos leitores: “Repitam comigo: a TCR não é só racismo; A TCR é racismo antibranco”.

Conclusão

Chegamos, assim, ao ponto de onde avistamos a TCR como isso que ela é, de fato — ou seja: arma intelectual do racismo antibranco. O antirracismo consiste, pois, em racismo antibranco. Ocorre, entretanto, fato curioso, ainda mais elucidativo: a TCR, mesmo enquanto arma para a guerra cultural antibranca, ou melhor, por causa disso mesmo, tem sido distribuída por longa série de mentores judeus por mais de meio século, e disso pouco se fala. Tal situação explica-se por ser essa mais uma operação da campanha de judeus para exterminar os brancos. Não o fazem pela primeira vez. Precedentes históricos de atentados genocidas antibrancos perpetrados por judeus não faltam: a era bolchevique na Rússia, o Holodomor na Ucrânia, as várias estratégias “frias” documentadas por MacDonald no seu The Culture of Critique. Uma “estratégia fria” é, por exemplo, o favorecimento da imigração ou o abatimento da formação de famílias brancas. Este é o ponto que me esforço por enfatizar.

As consequências disso tudo são imensas. Vale lembrar a advertência que nos fez MacDonald em artigo de 2008 no TOO. Dizia ele, então, que a demonização dos brancos (ou da “branquidade”) era só o primeiro passo e que o segundo passo seria o genocídio dos brancos. Concordo em gênero, número, grau e caso. Aqui no TOO, tenho chamado atenção para esse risco há mais de doze anos.

Para terminar, eu vou sintetizar a discussão acima em linguagem bem simples, apenas referindo rapidamente as análises, às vezes longas, sem mais detença. Em 10 de junho de 2021, Andrew Anglin publicou artigo sob o título “Psychoanalytic Journal Publishes Paper Calling “Whiteness” a “Malignant, Parasitic-Like Condition” [Revista de psicanálise publica trabalho chamando a “branquidade” de condição maligna e parasitária]. Este texto sobre a “malignidade dos brancos” era a versão escrita das imprecações antibrancas de Aruna Khilanani, a psiquiatra de Nova Iorque de origem paquistanesa que, durante atividade “pedagógica” para a Universidade de Yale, em 6 de abril de 2021, dissera sonhar o sonho de “descarregar uma pistola na cabeça de todo branco”. A resposta de MacDonald: “Expressions of Anti-White Hatred in High Places: Aruna Khilanani at Yale” [Manifestações do ódio antibranco nas altas esferas: Aruna Khilanani em Yale]. MacDonald afirma aí que “a judiaria foi condição necessária para a criação dos Estados Unidos enquanto país multicultural” e que “não chega a surpreender a condição de Khilanani como exemplário da influência da teoria crítica da Escola de Francforte, a fonte da teoria crítica da raça”.

Evidentemente, Anglin conhece o trabalho de Noel Ignatiev e suas teorias da “disciplina” dos Estudos da Branquidade, podendo reconhecer, num piscar de olhos, sua importância para as confissões da psiquiatra não branca:

Toda essa coisarada teórica dizendo que a “branquidade” não é o mesmo que “ser pessoa branca” é só tapeação. Ninguém acha que isso faça sentido, até quem diz que faz sentido sabe que não faz sentido. Na verdade esses teóricos falam de gente branca, simples assim.

Eles querem aniquilar a raça branca.

Recentemente, nós vimos a psicóloga paquistanesa — os psicólogos, novamente! —  Aruna Khilanani dizendo que deseja matar gente branca, aleatoriamente. Ela não disse que queria matar os brancos “contaminados de branquidade”, mas sim os brancos, ou seja, qualquer branco.

Com essa conversinha deles sobre a tal abstração da “branquidade” eles procuram se proteger sob fino véu semântico para mais segura e discretamente seguirem com a pregação do genocídio dos brancos.

Isso me faz lembrar das predições de Tomislav Sunic em seu livro de 2007, Homo Americanus: Child of the Postmodern Age [Homo americanus: uma criança da Era Pós-moderna]. Ele diz aí que “a eliminação de milhões de cidadãos tidos por supérfluos será uma necessidade social e, talvez, até mesmo ecológica para o melhor ordenamento da futura sociedade americanizada”. MacDonald, nos anos em que escrevia Stalin’s Willing Executioners [Os agentes testamentários de Stalin], isto é, os judeus, identificou os setores sociais que poderão ser o alvo, ou seja, “que reunirão os atributos para a sua condenação ao extermínio, segundo a sentença dos homólogos americanos da elite judaica que tiranizou os brancos na União Soviética”. Mais sobre esse particular:

É fácil imaginar quais setores da sociedade americana teriam sido considerados demasiado retrógrados e supersticiosos e por isso condenados ao extermínio por aqueles que, nos Estados Unidos, cumprem o papel que foi o da elite judia na União Soviética — aqueles que aportaram na Ellis Island em vez de seguirem caminho para Moscou. Os descendentes daquele povo muito antiquado e devoto, agora mais conscientes das ameaças contra si, crescem em influência nos “Estados vermelhos” [Estados de maioria republicana], onde eles têm tido muita importância nas recentes eleições nacionais. A animosidade judia para com a cultura cristã, sendo esta profundamente enraizada na maior parte dos Estados Unidos, chega a ser proverbial.  Como Joel Kotkin indicou, “ao longo das gerações, a atitude dos judeus americanos em relação aos conservadores religiosos vem combinando sentimentos de medo e desprezo”. E como Elliott Abrams observou, a comunidade judia americana “aferra-se ao que no fundo é uma visão negativa dos Estados Unidos, vistos com terra eivada de antissemitismo, sempre a pique de explodir de raiva contra os judeus”. Essas posturas judaicas de antagonismo podem ser notadas, por exemplo, na acusação que faz Steven Steinlight aos americanos — a vasta maioria da população — que aprovaram as restrições à imigração na legislação dos anos vintes. Diz Steinlight que esses nacionais eram uma “multidão de insensatos”. Quanto às leis de imigração seletiva, afirma que eram “malignas, xenofóbicas, antissemíticas, abjetamente discriminatórias, um vasto fracasso moral, uma política monstruosa”. No final das contas, a visão negativa que os judeus de suas antigas vilas na Europa Oriental tinham em relação aos eslavos e sua cultura, visão que levou tantos judeus a se tornarem agentes testamentários do socialismo internacional, não é muito diferente da visão atual que os judeus dos Estados Unidos têm da maioria dos americanos.

Em 10 de junho de 2021, Anglin fez advertência similar, e suas palavras são a chave de ouro com que eu fecho este ensaio:

Estamos a ponto de assistir a um processo de seleção social em larga escala que se pode comparar a um abate sanitário. Nós temos falado do “genocídio branco” em termos de imigração massiva, feminismo antirreprodutivo etc., mas essa forma de genocídio “frio” está ficando “quente”.

A nossa gente deve estar alerta. Os sinais do perigo estão em toda parte.

Um banho de sangue é iminente.


Fonte: The Occidental Observer. Autor: Edmund Connelly. Título original: Critical Race Theory as a Jewish Intellectual Weapon. Data de publicação: 21 de junho de 2021. Versão brasilesa: Chauke Stephan Filho.

 

“Was ist Weiße Identität?” on the White Date website

Tom Sunic has been a regular contributor to TOO for as long as we have been in existence. An early article of his, “White Identity in Postmodernity,” posted on April 23, 2009, has been translated into German as “Was ist Weiße Identität?” on the website White Date which aims to bring together and encourage Whites to date other Whites. This website, which is in English, is well worth perusing, and includes a photo gallery of White babies resulting from their efforts. I couldn’t resist posting this one:

WhiteDate-Baby Nr. 1 – She’s a Lady.

Her parent writes, “I am deliriously happy to announce the birth of our first WhiteDate BABY! Hopefully, there will be many more to come. We are waiting for the parents to get back to us to receive a 250,- British Pound donation (approx. 300,- US Dollars) for this first child generously offered by an anonymous supporter in the UK.”

Since Bill Regnery is on all our minds right now, it’s worth nothing that he wanted to start a White dating site but it never got off the ground. I’m not sure exactly why it failed, but recall it being greeted with intense hostility by the media whose main goal, as Edmund Connelly has documented, is miscegenation. White dating and especially marriage with children is certainly a goal we should all support.